表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/32

第十三章 裂かれる仮面

 朝の光がまだ冷たく残る法廷前庭に、人々の熱気が滲んでいた。昨夜の帳簿暴露から一夜、街は興奮と不安で揺れている。私が到着すると、王城の警備は既に厳重で、マルクスの侍従が短く会釈を返した。公開の場は整った。だが「場が整った」ことと「真実が明かされる」ことは別問題だ——相手は舞台装置の達人であり、裏で糸を引ける長さを持っている。


 法廷には三つの目があった。王城の公的な目、国外使節の中立の目、そして民衆の好奇の目。私が望んだのはこの三つの同時露出だった。誰か一つが伏せられても、残りが公開を支援する。だがそれでも足りぬ可能性を、私は想定に入れてあった。


 最初に登壇したのはヴァルターだった。彼は弱り切った身体で杖を支え、しかし言葉は確かだった。彼の証言は先日のものよりも整然としており、紙片と帳面の対応、薬品の成分、取引の流れを一つずつ指差して示していく。筆跡鑑定の独立した写しも、先方の使節が正式に読み上げた。外の目が裏付け、内の手続きが追認する——その瞬間、会場には冷たい確信が横たわった。


 だが黒外套の男は沈黙していた。セドリクという名は、人々の口に忍び寄りつつも、確たる核心とまでは結びついていない。彼は「影」であり、影ゆえに姿を見せぬ。私の胸には、昨夜の書斎で交わされた言葉——「もっと大きな舞台」——がこだました。今日、その舞台はここなのかもしれない。だが奴は別の舞台を用意している。あるいは既に用意している。


 次に、私は証拠の提示を始めた。オルフェウス号の木箱、封蝋の図、支払い伝票、そして何よりも――複数の独立した写しを介して繋いだ「受取:E.(私室)」の記載。公的筆跡鑑定と外国使節の証言、商会の帳の写しが重なり、糸は一本の太い線となって王城の一角へと伸びていた。場内の空気は矛盾なく、だが危うく傾き始めた。


 その時だった。扉が開き、騒ぎを断つようにして一人の男が入ってきた。彼は年配で、堂々とした歩みを見せる。黒外套ではない。薄い灰色の外套をまとい、胸には王城の公印に近い小さな徽章を下げていた。ひときわ目を引くのは、彼の額に走る一筋の古い傷跡——私はそれをどこかで見た気がした。


 「セドリクだ」誰かが小さく呟いた。声は広がり、ざわめきが一瞬で膨らむ。


 男――セドリクは、ゆっくりと立ち止まり、視線を巡らせる。その目は冷たく、だがどこか演者の余裕を感じさせた。彼は手を組み、穏やかに言った。


 「証拠の提示は結構。しかし、我が王城は法の下にある。即断は成さぬ。だがひとつはっきりさせたい。貴女、アレクサンドラ殿。貴女が“戻った”という事象について、王城は深刻に受け止める。もし貴女がこの場を利用して個人的な怨恨を晴らそうとしているのなら、それは王への背信となる」


 その言葉は、薄い脅しに似ていた。唇の端が笑っている。だが私は怯まない。ここまで来た。民と国外の目がある。公的プロセスを踏んでいる。私は静かに答えた。


 「私の望みは個人的な満足ではありません。私を消し、私を“戻した”行為が政治的実験として用いられたなら、それは公共の問題です。王のためという仮面の下で行われたなら、それは王国の根幹を揺るがす。真実を求めることは、王への忠義でもあります」


 私の言葉に、会場の幾人かは窓のように顔色を変えた。セドリクは小さく笑い、しかし突然、演出の手を入れてきた。彼は裁判長席の側近に合図を送り、書記官に一枚の文書を差し出させた。書記官はそれを読み上げる——そこには、王からの差押え命令に対する「一時停止」の命が記されていた。王城の公式文書。文面には「国家の高次安全」の文言が躍る。


 その瞬間、会場の空気は凍りついた。マルクスの顔が一瞬青くなる。私の内心では、ある冷たい予感が走る——相手は王城の中で一歩先回りしていたのだ。セドリクはすでに王の名を借り、手順を自分の側に引き寄せた。だが私も、準備をしていた。


 「文書は正当性があるかもしれない」と私は低く言った。「だがここに、独立した使節団の書面があります。彼らは我々の提示する写しの真正性を確認しました。そして民衆を介した公示も進めています。公の手続きが止められても、目は外へ向いている。隠蔽は難しい」


 セドリクは目を細め、風を読もうとする鷹のようだった。しかし彼の次の一手は、より巧妙だった。法廷の隅で、突然に一つの声が上がる。――ヴァルターの声が、怯え混じりに震える。彼は体調を崩し、嘔吐した振りをして書記官に向かって懇願する。「私は混乱した。私は錯覚していた。あの証拠は誤認だ」と、突如として撤回の気配を見せたのだ。


 会場がざわめく。セドリクは安堵の微笑を浮かべ、周囲の者は一瞬にして揺らぐ。だが私は冷静だった。嘘の撤回は、しばしば表面に現れる勇気の薄さを示す。私は既にヴァルターの証言を紙と記録で複数の場に残していた。国外使節の独立写し、録音記録(マルティンに密かに依頼していた)、さらに数名の中立の目が彼の元証言を証明できる状態になっていた。


 「ヴァルター、あなたの初期の証言は書記と外国の使節の前で記され、我々はそれを保持している」と私は静かに言った。「もし撤回するなら、その理由と状況をここで述べなさい。強要や脅迫があったのか。あるいは後から得た新情報か。公的に説明していただきたい」


 ヴァルターは怯えた目で私を見て、口を震わせた。外からは王城の役人が動いた気配がする。マルクスは書類に目を落とし、だが揉め事を外へ委ねたくない様子で隣の侍従を睨んだ。セドリクは冷たい笑みを薄く崩したが、その笑みにも疲労が見える。


 ——ここで鍵となったのは、私が用意していた「冗長性」である。ヴァルターが声を引っ込めれば、私は即座に三点を同時に提示した。第一に、国外使節の公的目録(控え)を読み上げさせ、ヴァルター証言の時間と形式を証明させる。第二に、屋敷にいた複数の使用人の独立供述――ローベルト、アルノ、セラ、フォルクの書面による陳述を提示する。第三に、帳面の実物を法廷の外に出し、特定の化学成分と封蝋の測定をその場で行うよう請求した(これにはマルクスの暗黙の同意を得ていた)。


 二つの証拠が同時に迫ると、ヴァルターは言葉を失った。セドリクの顔が一瞬硬直する。彼は隠し札を切ったつもりでいたが、我々もまた隠し札を複数持っていた。ここで「長い糸」を持つ者は、たとえ多くても、一度に全ての糸を操れぬ。彼らの仕掛けは分散しており、同時に反撃されればほころびやすい。


 その時、外の広間で何かが崩れる音がした。騒ぎの中心とは別に、兵士の一団が倉庫を押さえ、そこから仮面と化粧道具の大量が押収されたという知らせが入る。押収品には小型の声帯模造器具、皮膚着色料、矯正用の銀線など、顔の「似せ」を可能にする器具が含まれていた。説明は不要だった——演出による「似ている顔」という戦術の実物的証拠だ。


 セドリクはその場で色を失った。王城の役人の何人かが顔を伏せ、侯爵は震えを隠せない。公衆の視線は一気に黒外套に向いた。ヴァルターの震えは止まり、彼はやっと震える手で再び言葉を紡いだ。


 「私は……強要を受けた。だが、我が手は汚れている。私が行ったことを許してはならぬ」彼の声は震え、真実が再びその輪郭を取り戻す。セドリクは動揺して、だが同時に自らの計略の一部が暴かれたことを悟ったようだった。


 そして、決定的な瞬間が訪れる。マルクスが立ち上がり、静かに告げた。


 「王はこの件を重く受け止める。だが、国の秩序を守ることも必要である。今は事実関係を整理し、関係者を拘束する。セドリク殿、あなたも同行願う」


 その声に、セドリクの顔から一瞬だけ仮面のような冷笑が消えた。彼はゆっくりと両手を上げた。周囲の兵が彼に近づく。人々の間にざわめきと拍手が入り混じる——歓声というよりも、安堵と興奮の混交だ。長い糸を以て操られた影が、ついに実体として捕らえられる瞬間だった。


 だが私の胸には複雑な感情が渦巻いていた。セドリクの表情が剥がれ落ちると同時に、私が求めていた「真の黒幕」の影は、一つ消えた。しかし公の秩序という檻の中で、もっと別の影がじっとこちらを見ている気配もあった。それは王城の更に高い場所かもしれないし、国外の力かもしれない。


 まだ終わりではない――だが一つの重要な歯車は噛み合った。長い糸のうち、少なくとも主だった一本は切り落とされた。だから私は、震える手で深呼吸を一つした。そこには解放感が混じっていたが、同時にこの勝利がどれほど脆く、どれほど代償を必要とするかも、私は知っていた。


 法廷の外、民衆がざわめく。私は侯爵の方へゆっくりと歩み寄った。彼は目を伏せ、しかし私を見ると短く頭を下げた。言葉は交わさなかった。私の復讐は刃を振るうことだけではなく、証を残すことでもあった。刃の先が少し震えたが、それは冷たく、確かな感触だった。


 これで終わりではない。糸はまだ残っている。私が望むのは「全ての名」と「全ての理由」だ。今日の収穫は大きい。だが夜が来れば、新しい策が巡らされるだろう。それでも、私は一歩前へ進んだ——確実に、そして静かに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ