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第十二章 公の檻

 書斎に残った静寂は、私が思ったよりも深く、重かった。黒外套の男が去った後も、その残響は消えず、蝋燭の火影が壁に揺れるたびに彼の陰が伸びる気がした。帳面はここにある。封蝋に押された三日月も、ページに記された「E.」の連なりも――それらは一枚ずつ、私の手の中で真実へと向かう梯子を組み立てている。


 だが梯子の先端には、まだ誰の手も掴んでいない。先に手を伸ばすのは私だ。だが相手もまた糸を引き、顔を隠す術を知っている。私が外套の男の言葉を反芻する――「もっと大きな舞台」「君の知らぬ名」――それは警告であり、挑発でもあった。


 私はまず、手元の証拠の信頼性を上げるため、筆跡鑑定と会計の専門家を独立した第三者に依頼する手配を行った。マルクスに頼めば王城の人心は動くだろうが、彼らは顧問筋の影響下にも置かれている。だから私は国外の小使節団に密かに接触し、彼らの中立的侍従に帳面の鑑定を依頼することにした。公的手続きと並行して、王都の外に第三者の視線を置くことで、顧問側の「手の内」を限定させる。


 フォルクは船上で見つけたもう一つの封筒を広げ、そこに記された受取人のイニシャルと日付を指で辿る。マルティンは屋敷の使用人たちに「夜間の巡回」を義務付け、屋敷の周囲に細い番を巡らせた。セラには商会からの追加の写しを取り寄せてもらい、写しの写し――いわば冗長性のある証拠の網を編むよう命じた。冗長性は安全であり、政治の罠を防ぐための装置だ。


 だが、最も重要な仕事は私自身がするしかなかった。私は侯爵に面会を求め、静かに告げた。


 「侯爵。あなたがどこまで関与しているかを証明する意思があるなら、私に協力してほしい。あなたの名が帳面にある。不可解な流れがある。真実を公にするのは私の選択だが、あなたが協力することは、家を守る唯一の道でもある」


 侯爵の瞳が揺れた。彼は床に向かって短く唸るように言った。「アレクサンドラ、私が君にしたことは弁解の余地がない。だが私には守るべき立場と、国の安定という名の責務がある。もしこれを公にして混乱が起きれば、民が苦しむ。私はそれを望まない」


 私は彼の肩に手を置いた。力づくの理解を求めるのではない。ただ、今この時に私の味方になるか否かを確認するのだ。


 「民のために苦しみを背負わせるなら、あなたは既に誰かを殺した人だ。私の命も、民の運命も君の秤にかけられるべきでない。真実は、誰かが痛むときにこそ露わになるべきだ。侯爵、私に協力して。王城の真実に到る手助けをしてほしい」


 侯爵の唇が震えた。数秒の沈黙のあと、彼はゆっくりと頷いた。「協力する。だが、我が名誉のためにではない。君の望む正義のために」


 彼の言葉は薄く、だが確かな盟約だった。私は深く息をつき、次の準備へと歩を進める。


 ——公開の場をどう作るか。真の黒幕は深く、名を出せば手を引くかもしれない。だが出さねば、彼らは更に手を伸ばす。私は「見せる」ことで相手に選択を強いた。見せる先は三つ。王城の公的機構、市中の新聞職人、そして国際使節だ。この三者が同時に動けば、たとえ片方が封じられても、残る二つが働く。


 折りしも、王は巡幸から帰還した。マルクスが私に目配せを送る。彼の顔には疲労の中に決意があった。公的手続きは動き、我々は書類の散逸を防ぐため、正式な差し押さえの命令をマルクスの口から得た。だが命令は紙に書かれると同時に誰かの目に留まる。私たちは動きの早さが必要だった。


 夜、私は屋敷の大広間で招宴を開いた。だがこれは舞踏でもなく、舞台でもない。招待客は侯爵の要人や王城の役人、南方商会の幹部、国外使節の一部。そして、遠巻きにだが数名の新聞職人。私は彼ら一人一人の顔を見渡しながら、冷静に言葉を紡いだ。


 「皆様、昨夜の騒動により、私はある疑念を抱くに至りました。私の望みはただ一つ、真実を明らかにすることです。ここに、南方商会の帳面の原本、およびその一部の写しを提示します。公的な調査と並行して、私はこの場で皆様の意見を伺い、また証拠の一部を開示いたします」


 会場は微かなざわめきに包まれた。侯爵の顔は強張り、商会の幹部は硬く顎を引く。黒外套の者の影は見当たらない——彼は今、私が最も見せたくない場所で待つのか、それとも別の筋を回しているのか。だが私は場を支配する。話し手として、私にはその一瞬を支配する権利がある。


 証拠を順に提示する。封蝋の写真、支払の記録、受領者の筆跡の写し。各資料に対して、侯爵の側近や商会の代表が言い訳を述べる。彼らの言い分は共通している――記録の誤記、代行の存在、あるいは契約上の不正確さ。だが私が差し出した写しは、写しの写しとして複数の独立した手筋で確認されており、言い逃れは難しい。


 その時、会場の扉が開いた。入ってきたのはマルクスと二名の王城の騎士、その後ろには書記官と一名の若き王太子の侍従がいる。侍従の顔にはひどく青ざめた色があり、掌には小さな封筒を握りしめていた。私の目は彼に留まる。封筒の紋は――竜の鱗の模様だ。ローベルトが見た紋と一致する。


 マルクスは大きく息を吸い、会場の空気を整えるように言った。「ここにある封筒の中身は、昨夜王城の北門で受け渡されたものと一致する可能性が高い。侍従殿、差し出していただけますか」


 侍従は震える手で封筒を開け、中から取り出したのは――金銭の封と一つの小さな書付だ。書付の文字は震えていたが、そこには「受領:E.(私室)」と記されていた。会場は一瞬にして静まり返る。顔色を変える者、顔を伏せる者、怒りを露わにする者。侯爵は震える手をこらえ、息を詰めた。


 だがその瞬間、扉の陰に一つの影が現れた。黒外套の男ではない。薄絹の外套を纏った人物――見慣れた輪郭だ。私の胸の奥で、思い出がまぶたを叩く。彼は、舞踏会の夜にもいた、王城側のある人物の姿に似ている。しかし記憶の像は揺れている。仮面を付け替える術は、ここでも働いているのか。


 その人物は穏やかに一歩を踏み出し、皆の前で頭を下げた。静寂を破るその声は、冷たく、かつ礼儀正しかった。


 「私は、この一連の事案について、王の名のもとに中立的な監査を行う者である。――しかし、今は一つの事実を付け加えよう」彼は書類を取り出し、朗読した。そこには取引の相手先の名と、受領の署名と、さらに一行、刺々しい字で書かれていた――「承認:顧問団 匿名署名」。


 朗読の後、会場は完全に割れたようにざわめいた。誰かが叫び声を上げ、誰かが席を立ち、侯爵は顔を真っ赤にして俯いた。私の心臓は早鐘を打ったが、同時に確かな冷静を保つ。証拠はここにある。王城の手の一部が、露わにされ始めている。


 だが、私は同時に気づいていた――黒外套の男は、まだ何も失ってはいない。彼は舞台の後ろで糸を引き続けるだろう。だが今日、私が得たのは一つの勝利だ。糸は切れるのではなく、局面が変わる。私たちは檻の中で声を上げ、公に訴える場を得たのだ。


 会場のざわめきが高まる中、私は侯爵の顔を見下ろし、静かに言った。


 「ここからは正義の手続きを信じます。だが同時に一つだけ言わせてください。私を道具にした者たち、その設計者に、必ず最後の答えを聞かせてもらいます。名を曝し、顔を剥がし、彼らの所行を世に問う。それが私の望みであり、この国の望みでもあるはずです」


 声は小さかったが、それは会場のどの叫びよりも確かに届いた。外套や仮面や紋章が如何に華やかであれ、最後に残るのは記録と声だ。私はその夜、己の刃を公の檻へと投げ入れた。檻は静かに閉じられ、しかしその格子の向こうには、まだ多くの影が蠢いている。


(つづく)

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