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第十一章 木箱の聲

 オルフェウス号の甲板は潮の匂いと油の匂いで満ち、夜の空気は鋭く肌を刺した。私たちは偽の検査官に扮し、朝の検査が来る前に船底へ潜り込む段取りをつけていた。フォルクは船員の一人に成りすまし、マルティンは乗組員の動線を封じる役目。私は胸に小さな燭台を隠し、冷静さを保った。偽札の検査証を首から下げているだけで、人は信じるということを知っている。権威は衣服から伝わるのだ。


 「静かに、声を立てるな」フォルクが低く囁く。彼の瞳は鋭く、夜に慣れた捕人のそれだった。


 船長室を抜け、甲板の端に回る。甲板下へと続く梯子は狭く、湿った木の匂いが鼻をつく。下へ下へと潜ると、貨物の区画は暗く、箱と袋が雑然と並んでいる。私は胸の奥が小刻みに震えるのを感じた。紙一枚、帳一本で、人の運命は動くのだ。


 「ここだ」フォルクが身をかがめて指差す。そこは他よりも雑に積まれた一隅、隠し棚のように見えるが、よく見ると床板の継ぎ目に違和感がある。ローベルトの証言通りだ。木箱が底板の間に押し込まれ、石梁の偽りの下に隠されている。私は息を止め、指先で蓋の端を探った。


 蓋は固く、錠前に小さな鍵穴がある。ここで時間をかければ船員らの巡回に引っかかる——だがフォルクは落ち着いている。彼は小さな器具を取り出し、軽く錠を扱った。耳に届くのは自分の鼓動だけのように思えた。


 “カチリ”という小さな音と同時に、錠が外れた。私は蓋を開ける。中は木箱二つ、革紐で縛られた帳面の束、そして油紙に包まれた幾つかの封筒。紙の匂いが私の鼻腔を満たし、胸の中に一瞬の温度が戻った——それは希望とも恐怖とも言える感情だ。


 「確保した。持ち帰る」フォルクの声は低いが確かだった。だがその時、背後の梯子の方でかすかな物音がした。誰かが上って来る。早い。計画よりはやい。私の心は瞬時に警戒色を帯びる。


 「急げ。外へ運ぶまで時間はない」マルティンが囁く。私は帳面を慎重に抱え、箱をもう一つ手にする。ここで手を滑らせれば、すべてが露見する。だが指は冷静に動いた。外へ出ると、甲板には一つの影が止まっていた。その輪郭は黒外套の影を思わせる。


 「声を出すな」私はフォルクに合図し、三人で影の向こうへ回り込む。影は帽を深く被り、顎を引いている。すぐ近く、ロープの固まりにもぐりこんでいた小さな漁夫が、私たちを見て目を潤ませた。彼はフラッシュのように箔付いた目でその影を見上げ、そして小声で何かを呟く。


 「『先生』が来た。さっきの荷は目につきやすかった、準備するようにと言ってた」彼の言葉は震えていた。


 その声で、私は確信した。黒外套の男が此処にも足を伸ばしている――私たちの動きを何者かが読んでいる。だがどうやって。情報の流れは思ったよりも速く、より深く屋敷の外へ伸びている。


 「先に行け」フォルクが指示する。だが私の足は一瞬止まる。箱の中にある封筒のひとつが無造作に端から覗いているのを見つけてしまったのだ。封筒の封蝋には、あの三日月の紋章と――別の小さな印が押してある。印の輪郭は見覚えがある。侯爵家の紋章の端に、細い線で刻まれた人物の名らしきもの——それは、私の胸に小さな凍りを落とした。


 「行くわよ」マルティンが私の袖を引き、私は我に返って甲板を駆けた。外の空気は冷たく、舵取りをする人影が甲板の端で何事かを叫んでいる。だが私の耳にはそれらは届かない。頭の中で一つの問いがぐるぐると回る——あの封蝋は、誰の指示でここにあるのか。


 私たちは帳面と封筒を屋敷へ運び戻した。階段を駆け上がる途中、フォルクが低い声で言った。「誰かが我々を試している。先ほど港で見たあの影が、ここにも顔を出すとは。奴らは念入りに網を張っている」


 書斎に戻ると、マルティンはすでに火鉢に火を入れ、写しを並べる準備をしていた。私は革紐を解き、慎重に一冊目の帳面を広げる。紙は古く、インクは褪せかけているが、整然とした筆跡が列をなしている。出金記録、受領名、日付、それらが淡々と並んでいる。だがページを繰るたびに、私の胸は沈むものと跳ねるものを同時に感じた。


 「ここに……」フォルクが小さな声で指差す。そこには、南方商会の名、受領者の代名、そして金額が並び――そして受領先欄に、小さく「E.」と記され、その横に括弧書きで「私室」とある。アルファベットの筆記は乱暴で、だがその「E」の字は侯爵の名で始まるイニシャルと重なる。私は指先が冷たくなるのを感じ、顔を上げた。


 「E.……エドゥアルト? 本当に?」マルティンの声は震えていた。私はそのページをめくる。次の頁にもまた、「E.」の記載が連なっている。日付は舞踏会の前後に集中していた。だがそれだけで断定するのは危険だ。偽装も可能だし、なにより黒外套の者たちは「似せる」術に長けている。


 「我々はこれをどう扱う?」フォルクが低く問いかける。彼の顔は鋭い。私は帳面を抱きしめるようにして、言葉を選んだ。


 「証拠を公的に提出する前に、検証をする。筆跡の一致、押印の真正性、支払元の送金経路。…それから、我々側の動きをもっと隠す必要がある。奴らは我々を試した。次はもっと苛烈に来る」


 だがその時、書斎の扉がゆっくりと開いた。影が入ってくる。誰かが立っている。振り向くと、そこにいたのは──黒外套の男だった。彼は夜の闇をまとい、その笑みは皺の深いものだった。


 「驚いた? まさか、ここまで辿り着くとはね」彼の声は低く、湿っていた。書斎の火が彼の頬を薄く照らし、目の奥で何かが光るのが見えた。彼の来訪は唐突で、だがどこか紳士的な礼儀を伴っている。その対比が逆に不気味だった。


 私は立ち上がり、帳面を胸に抱えたまま、冷静を装う。「ここで何をする。あなたがいるべき場所ではないだろう」


 彼はゆっくりと部屋の中を巡り、私の前で立ち止まった。「そうかもしれない。だが私は芸術家だ。人々の心を操るのが仕事だ。だが君は面白い。君は怒りを飼い慣らして、じょうずに使っている。皆、君を賞賛しているだろう?」


 フォルクが前に出る。「あるいは、彼を連行するべきだ。令嬢」だが黒外套は肩をすくめるだけで、冷たい笑いを洩らした。


 「連行か。だが現実は劇場のように出来ている。君が掲げる真実もまた一つの演出だ。だが一度だけ忠告をしておこう――糸の長さを過信するな。君の夫の名がそこにあるように見える。公に晒す前によく考えろ。疑惑だけが先に立てば、君もまた演者として消費される」


 その言葉で、私の手がわずかに震えた。彼は封蝋の印をちらりと見ると、にやりと笑った。「だが、君が望むならここで帳を見せてやろう。だが覚えておけ、真実を曝せば、それによって動く糸は数倍になる。君はそれを制御できるのか?」


 彼の挑発は抑圧的で、同時に機会でもあった。相手は私を惑わせるために来たのか、脅しに来たのか、それとも手元の情報を引き出しに来たのか。私は静かに帳面を引き寄せ、ページをめくって彼に示した。黒外套の男の顔には、一瞬だけ驚きが走る。次の瞬間、彼は掌を合わせ、低く礼をしたように見えた。


 「見事だ。君は我々の演出を暴いた。だが──」彼は言葉を切り、部屋の奥に目を走らせた。「ここで終わりだと考えるな。もっと大きな舞台がある。そして、その中心には君の知らぬ名が居る」


 その言葉とともに、彼は静かに部屋を後にした。扉が閉まる音が残響したあと、私たちはしばらく動けずにいた。黒外套の男は去ったが、その影は重く、そして確実に私たちの周囲を締め上げていた。


 帳面はここにある。封蝋はここにある。だがそれが示す真実は、まだ完全ではない。彼の言う「もっと大きな舞台」と「君の知らぬ名」が、私の胸に新たな不協和音を刻んだ。だが一つは確かだった――私の復讐は今、王城の影と真正面からぶつかる段階へと入ったのだ。

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