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第九章 断ち切る手

 朝の薄光が書斎の机を斜めに撫でるころ、屋敷の空気は針で突かれたように緊迫していた。押さえられた男──港の仲買人アルノは青白く震え、唾を飲む音だけがやけに大きく聞こえる。フォルクが背後で腕を固く縛り、マルティンが熱い茶を差し出すふりをしながらも、問い詰める覚悟を固めている。


 私は椅子に座り、アルノの目をじっと見つめた。目の奥には底知れぬ怯えと、どこかしつこい自己保身の光がある。昨夜の闇で聞いた断片は、ここで意味を持つはずだ。静かに、だが確実に圧をかける。


 「アルノ、君は港でどのくらいの荷を扱っている?」

 私の声は低いが、冷たさを孕んでいる。尋問は暴力ではない。相手の良心の脆さを突くこと。多くは金か恐怖で崩れる。


 「…そこまで多くは…私はただ、荷を取り扱うだけで…名前は知らない…」彼は言葉を引き伸ばし、口を濁す。


 「誰がその荷札を出した? 誰の指示で『指定倉庫』へ運んだの?」

 私は手元の帳面を一枚突き出した。セラが控えめに集めた写しの一つだ。アルノの指先が小刻みに震える。


 彼は唇をかみ、やがて恐る恐る口を開いた。「…中間役は、普段は“小さな船宿”の者だ。名は…ローベルト。だがローベルトの上に別の人間がいる。—『先生』と呼ぶ声を聞いたことがある。黒い外套の男が指示を出す時、皆は彼をそう呼んだ。『先生の意向だ』と…」


 「『先生』──黒外套の男をそう呼んでいたと?」私の心臓が静かに高鳴る。情報は少しずつ、しかし確実に繋がる。


 「はい。私はただ、金を受け取るだけで…顔は見せぬように言われた。だが先日は違った。港に来た者の一人が、薄い紙片に何かを書いて渡し、言った。『次は大きくやる。侯爵家の庭で』と」アルノの声が震える。言葉は欠け、断片は鋭く胸に刺さる。


 「侯爵家の庭で――」私の唇がわずかに引き締まる。昨夜の舞踏会、廃塔、港。すべてが互いに結ばれている。黒外套の男は、単なる傍観者ではない。計画を段階的に進め、次なる「大きなやり方」を用意している。私はその大きさが何を意味するかを想像する。人心を操作する演出か、或いは更なる犠牲──どちらにせよ、許せぬ。


 アルノの口が再び動く。疲れきった声で、しかし一つの名を落とした。「ローベルトは俺に、侯爵の屋敷の一部を“整理”するよう言った。報酬は良かった。だが、『先生』は人を操るのがうまい。彼は、我々が居なくても事は回ると言った。だが昨日のことは想定外だ、とも」


 私は椅子から立ち上がり、窓の外の庭を見た。噴水の水は静かに流れ、花弁は朝露に濡れている。美しい光景だが、その背で人が計略を巡らせ、命が秤にかけられている。私は深い息を一つつく。


 「アルノ、君にもう一つ聞く。昨夜、廃塔のそばで君は何を見た? 黒外套の男は何と言っていた?」

 彼は唾を飲むと、怯えたように視線を泳がせた。「男は…静かに、『実験は続ける』と言った。だが、我々はその詳細を知らぬ。彼らは外側の目を避けるために、商会や小さな運び屋を使う。だが…」彼の声が途切れる。


 その「だが」の先を、私は待たなかった。私は問いを変え、焦燥を油断させる術を使う。人は自分以外に火の粉が飛ぶ可能性が出ると、口を滑らせやすい。


 「ローベルトの報酬は、どこへ?」私は金の流れを示すことで、黒外套の背後に広がるネットワークの端を裂こうとした。


 アルノは震えて、そして小さく嗚咽した。「…大半は現金で、南方商会を通じて送られる。だが…一部は王城へ返された。封筒に入れて、ある使いの者が王城の北門で受け取るのを見た。彼は『王のため』とだけ言った」


 その瞬間、書斎の空気が凍った。王城──私たちが戦いを正しく導こうとしていたその「公」の場と、密接な接触があったとは。顧問の名前、王城の陰影、南方商会の箱。糸はより深く、より太く、私を絡め取ろうとしている。


 アルノの証言を固めるため、私は更に綿密に尋ねた。場所、時間、運び屋の特徴、封筒の紋、受け取った人物の身振り。アルノは震えながらも供述を続け、細かな線を描き出した。フォルクが逐一それを書き取り、マルティンが外の動きを気にしながらも、証言の信憑性を逐一確かめる。


 やがて、アルノは息を切らして止まった。顔には疲労と安堵が混ざる。供述は私の求める方向へとまとまった。黒外套の男──「先生」は、王城の上層と商会の中継を繋ぐ役割を担い、次の段階のために更なる舞台を用意していた。舞台は、大きく、そして公の場であった可能性が高い。


 私はその夜、すぐに動いた。マルティンに指示を出し、ローベルトの所在を突き止めさせると同時に、マルクスに慎重な知らせを流した。王城の内部で信頼できる窓口を通じてだ。だが同時に私は別の手も動かす──匿名で回した写しの一部を再調整し、外部の中立的な使節へと送る準備をした。王城が遅滞すれば、世の耳目を活かして自分たちの手で状況を動かせるようにするためだ。


 夜が深まる前、フォルクは一つの情報を持って戻った。ローベルトの泊まる小屋の場所、彼の動き、そして彼の口癖──それは「北門で受け取れ」と繰り返すことだった。フォルクの顔にわずかな疲労が見えたが、その目は確かだった。彼は今や私の“内側の目”である。


 「準備しろ」私は冷たく短く告げた。「今夜、我々は彼を連れ出す。だが注意深く。生け捕りにして、彼を王城の公開尋問に繋げる。もし彼が逃げれば、黒外套の男は更に警戒を強めるだろう」


 フォルクは深く頷き、マルティンは小さく合図した。アルノはまだ震えていたが、その瞳にどこか救いの色が差し始めている。自らが取引の一部を喋ったことで、彼の運命は変わり得る。私が望むのは裁きであり、安堵だ。だが裁きは血でない理であるべきだと、私は信じていた。


 夜の帳がゆっくりと降りる。屋敷の影は伸び、道はやがて一つの点に収斂する。私は窓に手をつき、遠くの王城の影を見据えた。糸を断つための手は今、確かに動き出している。だがその先に待つもの──露わになる顔、そして取り返しのつかない損失──を思えば、胸の奥に冷たい石が落ちる。


 それでも手は引かねばならない。真実は、何よりも先に切り裂かれるべきだ。私は息を整え、夜の作戦へと乗り出した。誰の糸が長くとも、切るべき糸は必ず見つかるはずだから。

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