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第一章 祝宴の蝋燭

 燭台の炎が、絹のドレスに小さな星を散らしている。王都の夏は湿り気を含んだ空気で満ち、暖簾の向こうからは馬車の轍と遠い笑い声が漏れていた。大広間には宴の祝辞と器楽が混ざり、銀の皿は光り、杯は高く掲げられる。私はその中央に、白い花を胸に抱いて座っていた。


 「侯爵家の令嬢、アレクサンドラ・リヒャルト。どうぞ皆様、ご歓談を」


 夫の声音が大きく響く。彼は穏やかな笑みを湛え、私の手を軽く取った。外面のやさしさはいつもそうだ。私にとって、それはいつまでも馴染み深い仮面であり、同時に鋭い刃でもあった。


 乾杯――。杯がぶつかる金属の音が、私の耳に細い針のように刺さる。周囲の祝福は鮮やかな布のように私を包み込んだ。私は笑って見せた。笑顔は得意だ。誰にも気づかれぬように、私は考えを巡らせた。これが終われば、庭園の小径で執事に命じることがある。侯爵家の貸金庫にある古い巻物の所在を確認させるように。小さな疑念——それらは私の胸のうちで、細い灯火をともしていた。


 やがて、音楽が一段と高まりを見せたとき、誰かが私の足元に小さな箱を落とした。金糸の箱。中には、見慣れた黒曜石の指輪が収まっている。会場から温かな驚きの声が上がる。私の夫は微笑を深め、指輪の贈呈を口にしようとした。


 その瞬間、何かがずれた。世界の焦点が甘くなり、空気が急に冷たく沈んだ。私は夫の瞳を見た。――そこには、見慣れた柔らかさの奥に、静かな計算があった。視線は私の頬の淡い紅に留まり、軽く触れる手のひらは、いつものように暖かかった。だが、その暖かさが次の瞬間には刃の冷たさを思わせる。理解は一秒で形成された。これは祝福ではない。手の中の花も、指輪も、すべて計画の一部だと。


 「アレクサンドラ、少し――」


 夫の声が囁いた。耳元で羽が擦れるような、柔らかな命令。私は返事をする間もなく、視界が歪み始める。頭が重く、光が碎ける。誰かが叫び、椅子が倒れ、銀の杯が床に砕ける音が遠ざかっていった。


 床の冷たさが頬を打つ。私は最後に、夫の顔を見た。彼はまだ笑っている。美しい仮面は壊れてはいなかった。彼の掌には、小さな銀針のようなものが残っている。私の心はそれを拒絶した――拒絶したが、身体は言うことを聞かない。


 「――どうして」


 声は殆ど音にならなかった。口の中で言葉が溶け、意識という帆が引き裂かれる。最後に見たのは、夫の瞳の奥で光る、冷たい確信のようなものだった。私を必要としない者の顔。そこに愛はなかった。


 ――闇。


 それが終わりだと思った。だが、物語はそこで終わらなかった。


 次に気づいたとき、私は白い光に包まれていた。肉の感触が戻ってくる。息が肺に戻るたびに、世界が段階的に色を取り戻していく。最初は痛みも熱もなく、ただ奇妙に空虚な安心があった。私は手を見た。指は細く、爪は短い。血の匂いがほんのわずかに鼻腔をくすぐる。


 「……戻ったのか?」


 どこか低い声がした。視線を上げると、薄暗い窓辺に執事の影が立っていた。彼の顔は驚きと安堵が混ざっている。長年の忠義が、その目に刻まれている。執事の名はマルティン。私が幼い頃から家に仕える老臣だ。彼の手の甲には、私が伝えた暗号の痕跡がある。私が息をするごとに、彼は細く笑った。


 「お戻りになりました、令嬢様。何があったのか、説明を」


 私の記憶は断片的だった。宴の灯、夫の笑顔、銀の針。そこから先は黒い断片が裂けている。だが、確かな感覚があった。私は殺された。確かな死の感覚。冷たさ、澱んだ血の感触、力の抜けた瞳。だがそれを超えて、もう一つの景色があった。薄暗い廊下の記憶、古ぼけた書棚、そして誰かが囁いた言葉——「戻す術はある。しかし代償が必要だ」と。


 「私……殺されたのね?」


 問いは空気に溶けた。答えは、マルティンの瞳に浮かんでいた。否定も肯定もせず、ただゆっくりと頷く。


 「はい。しかし、令嬢様。御身は戻られました。何かが、令嬢様を選びました」


 選ぶ――。言葉の重みが胸に沈む。私は震えた。復讐の考えが、焦点の定まらない記憶の隙間から顔を出した。もし本当に殺されたのなら、誰がそれを望んだ? そして、誰が私を――戻したのか。


 戻った私を待っていたのは安堵だけではなかった。廊下の外には、まだ宴の喧騒が薄れて耳に届く。夫はその中で、相変わらず人々に微笑みかけているだろう。外面の笑顔は、私が死んでさえ色褪せることはないのだ。怒りが、胸の奥で静かに燃え上がった。


 「マルティン。情報を集めて。あの夜のこと、すべて。それから侯爵家の者たちの動き、夫の出入り、どんな些細なことでもいい。私の知らないことを探して」


 声は冷たく澄んでいた。復讐の火は、まだ形を持たないけれど確かにそこにあった。私は自分の手の指輪を思い出した。夫が私に見せた黒曜石の指輪。それは単なる装飾ではない。何かの印であり、あるいは契約の象徴かもしれない。私が戻った理由も、そこに繋がっているだろう。


 「答えを見つけたら、どうするつもり?」


 マルティンが尋ねる。問いは温かく、同時に恐れを含む。私がどのような道を選ぶかで、家の運命も、関わる人々の運命も変わるのだ。


 私はゆっくりと笑った。笑みは以前のものより冷たく、計算されたものになっていた。


 「慰めは要らない。私を殺した旦那様に、今度こそ復讐を誓います。静かに、確実に。刃は見せずに――心を抉る。」


 マルティンの瞳に尊敬と恐れが混ざるのが見えた。彼は黙って頭を下げ、手に巻かれた包帯の端を指で弄った。私の内側では、かつてとは違うものが動き出していた。死を越えた女は、ただ泣き叫ぶだけの被害者ではいられない。私は学ぶ。仮面の読み方を、陰謀の嗅ぎ分け方を、そして人の心を操る道具の使い方を。


 廊下の向こうで、宴はまだ続いている。蝋燭の炎がゆらぎ、誰かの笑いが跳ねる。私は息を整え、身体を起こした。窓の外、王都の灯が小さく瞬いている。それらは遠く、美しく、そして容赦がない。


 戻った以上、選択は一つだ。真実を暴き、私を奪った手に罰を与える——そのためには、私自身が誰よりも冷静でなければならない。愛していた記憶も、嘘だったと証明するために利用する。味方に見せかけた者を罠にかけ、敵に微笑みかけながら糸を引く。


 第一の一歩は、夜が明ける前に始まる。静かな復讐のための、静かな準備。私は立ち上がり、窓に手を置いた。外の風は、軽く私の髪を揺らした。その冷たさを、私は心地よく受け止めた。

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