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「これがローゲル邸か……」
俺は父を連れ、ローゲル邸へと辿り着いた。まず目を引いたのが正門だった。十人分ほどの高さは見るものを威圧し、金色に彩られた鉄格子は一目見るだけで中にいる者がどれほどの権力者かを知らしめた。金色の正門に圧巻していると、扉がゆっくりと開きだし、中から数十人の使用人が列をなして現れた。
「お待ちしておりました。ロザリアナ様。ソルベリア様」
使用人たちは俺たちの所へ来るなり、手に持っていた荷物を素早く運び出した。『お持ちします』の一言だけで俺たちの荷物は奪われてしまった。
「ご案内します」
メイド長らしき女は俺たちの前に立つと、舗装された庭を優雅に歩き出した。随分若い女で、俺と一回り程しか変わらない年齢のように見える。
「ここの庭はよく手入れが行き届いている……」
「この庭は旦那様が全て管理しておられます。植物の手入れから噴水の掃除まで、我々使用人の手を一切借りず、全てお一人でこなされています」
「これを一人で……」
俺にはそうは思えなかった。この庭の広さは尋常じゃない。複雑に入り組んだ生垣に、眼を見張るほど美しい花園、これをたった一人で管理できるはずがない。父もそう思っているか、メイド長を訝しんだ眼を向けている。
「到着しました」
自然の牢獄を抜け、俺たちはようやくローゲルの住む館へとたどり着いた。あの正門から予想はできたが、やはり大きい。ガルデント家もかなり大きいと思っていたが、この館とは比べ物にならない。
「ようこそ、ローゲル家へ」
メイド長に続いて館に入ると、荘厳な景色が広がっていた。本で見たことがあるような彫刻や絵画が脇を連ね、床に敷かれたレッドカーペットには一点の汚れもない。まさに、貴族の家の模範解答のような内装であった。その内装に委縮することなく、父は館の内部を見回している。
「アルダイト伯爵はどこに?」
「旦那様なら――」
「私ならここだ」
靴音を鳴らし、気品に満ちた態度で階段を降りる男。舞踏会で出会ったあの男が、俺たちの目の前に現れた。
「ようこそ、ガルデント家のみなさん。今夜は歓迎しますよ」
ローゲル伯爵は、実に穏やかな声で手を差し伸べた。しかし、何故だろう。やはり全身に悪寒を感じる。体に巡る遺伝子が、目の前の男が危険だと伝えている。
「ご招待ありがとうございます。今宵は実に有意義な会にいたしましょう」
父はそれを慣れた手つきで掴み、固い握手をした。一見、父は何も不快な感情を持ち合わせていないように見える。だが、俺は知っている。ローゲル伯爵が現れた瞬間、父の眼には途轍もない憎悪が湧き出ていたことを。
「それでは、食堂にご案内しましょう」
「よろしくお願いします」
俺は一刻も早くここから立ち去りたかった。二人の牽制し合う視線は、研ぎ澄まされた刃のように鋭い。これがしばらく続くとなると、胃に何か所か穴が開くだろう。
「あ!ロザリアナ!」
丸いテーブルで手を振るステラが見えた。この瞬間、俺はステラと友達になってよかったと思った。ステラがいてくれるだけで、幾分かこのプレッシャーに耐えられる。
「ステラ!元気にしてた?」
「ええ。あんたも元気そうね」
どこか安心したような笑みを浮かべるステラは、舞踏会の時よりも一段と大人びている。俺は迷うことなく、ステラの隣に座った。
「子供の友情は素晴らしいものですね」
「ええ、全く」
「我々もあれほど有効な関係が築ければいい、そうは思いませんか?」
「……ええ、そうですね」
互いに離れた席に座った父とローゲル伯爵は、他愛のない話をしていた。だが、父の方は気が気じゃないだろう。父にはきっと、目の前の男が得体の知れない化け物のようにでも写っているのだろう。
「ねえロザリアナ……」
突然、ステラが耳打ちをしてきた。
「お父様たちって仲が悪いのかしら?あんな声色のお父様見たことなくって……」
「そ、そうだね……きっと大人には色々あるんだよ……」
そうか、ステラは知らないのか。自分の父が如何にして伯爵にまで上り詰めたかを。
「まあそっか……ところでさ、食事が終わったらあたしの部屋に来ない?お菓子とか沢山あるよ」
「行く!行きたい!」
前世の頃はあまり自覚していなかったが、この世界に来て砂糖がいかに素晴らしいかに気づいてしまった。お茶菓子は、俺の数少ない娯楽の一つとなっていた。
「じゃあ、早く食べちゃいましょ」
机に並べられた食事をよそに、俺はお菓子に思いをはせた。
「お邪魔します……」
約束通り、俺はステラの部屋を訪れた。だが、とても子供の部屋には見えなかった。壁には本が敷き詰められ、その中央にはクマのぬいぐるみがポツンと置かれている。
「ようこそ!あたしの部屋へ!」
ステラは椅子を引きずると、そこに座るように合図した。
「そこで待っててね!」
ステラはぬいぐるみを抱きかかえたまま、部屋から姿を消した。
「待っててねって言われてもなぁ……」
正直、後ろの本が読みたくてたまらない。年端もいかない少女の秘密を垣間見るのは、人としてどうだろうか。そんな微かな罪悪感すらも、牛革に包まれた本の前では無力だった。
「政治学、社会学……こっちは経済か……」
欲望に負け、次々と本を手に取る。俺が想像していた可愛らしい恋愛小説などは存在せず、あるのは内政や社会に役立つような本ばかりだった。
「ステラってこんな本読むのか……?」
「読まないよ。そんな本」
いつの間にか、ステラが後ろに立っていた。
「体が跳ねちゃって面白―い。猫みたいだったよ?」
「か、からかわないでよ!」
いたずらっぽく笑うステラにつられて、俺も笑ってしまった。ステラは勝手に部屋を物色した俺を叱ることなく、手に持ったショートケーキを差し出した。
「いただきます!」
ステラから渡されたケーキは生クリームに埋もれており、頂上に乗ったイチゴ以外の部分は白一色に染まっていた。一口食べるだけで口の中に生クリームの甘ったるい味が広がり、思わずめまいがしそうになる。きっとこれは上等なケーキとは呼べないのだろう。だが、その甘ったるいケーキは、今まで食べたケーキの中でも群を抜いていた。
「美味しかった~!ごちそうさまでした!」
「ご馳走さまでした」
ケーキを食べ終えた俺たちは、舞踏会ではできなかった話をした。どんなものが好きなのか、歳はいくつか、勉強はできるか、本当に他愛のない話ばかりを繰り広げた。正直、くだらないと思った。ステラから情報を聞き出すには、まず彼女から信頼されることが必須。中身のない話でも、興味がある風に聞かなくてはならない。そう思っているとは露知らず、身の回りの話をするステラは、星空のように瞬いていた。
「ロザリアナってさぁ、好きな子とかいるの?」
「好きな子?」
いきなりの質問に戸惑ってしまった。これまでの人生、前世も含めて、異性を好きになったことはなかった。元より男には興味はなかったし、女も可愛いとは思うことはあっても好きと言う感情にまでは至らなかった。
「いたことないかな……」
「え~ほんと~?」
本当さ。今も、これからも、好きという感情が湧くことはないだろう。少なくとも、俺の心をさらけ出せる者でもできない限りは。
「それよりさ、なんでステラの部屋にはこんなに本があるの?自分では読まないんでしょう?」
「それは……」
あんなに明るかったステラの顔が一瞬、光が消えたような気がした。
「……お父様があたしに読ませたいって……」
「これ全部?」
ステラは静かに頷いた。数冊取っただけでわかる。この本は子供に読ませるものじゃない。少なくとも、ステラには政治よりも恋愛小説の方が何倍も似合っている。
「『お前には知恵が必要だ』っていきなりこんなものを部屋に……」
「知恵……」
子供に賢くなってほしい。ローゲル伯爵はそう願ったのだろう。ローゲル伯爵がどんな人間だとしても、子供を思う心だけは本物だと思えた。それ故に、ステラは困っているのだろう。そんな親の期待が、彼女にとって外れない足枷になっているのだから。
「ステラはさ、どうしたいの?」
「どうしたいって……?」
「この本、読みたい?」
「それは……」
「じゃあさ、それ伝えに行かない?」
「へ?」
「ローゲル伯爵にさ『こんな本読みたくないです!』って正直に話すの。親ならきっとわかってくれるよ」
ローゲル家にここまで踏み込む義理はない。そう思っていても、どこか気になってしまう。俺にケーキを振舞った少女に対して、ほんの少しだけお礼をしたかっただけだ。
「どうする?」
「あたしは……」
ステラの眼は泳いだまま、正しい答えを探していた。
「ステラ、こっちを向いて」
「ロザリアナ?」
「舞踏会の時、ステラは私に話しかけてくれたよね。すごくうれしかった。だから、私もステラに同じようにしたい。もし、怖いなら私の手を取って。今度は私が連れて行くから!」
出過ぎた真似かもしれない。だが、手に伝わる体温がそれを否定してくれた。
「お父様、かなり話してるね」
父とローゲル伯爵は長いこと食堂で話し込んでいた。扉越しに聞く限り、彼らの話は特段変わった様子はなかった。父は、何がしたいんだろう。
「やっぱり、今日は止めとかない?」
「駄目。今日思いついたんだから今日行動しないと意味ないよ」
聞き耳を立てながら、二人の会話の隙を探す。ほんの少しでもいい、二人の会話が止まる瞬間さえあれば……
「そう言えば、貴方の娘さんには感謝していますよ。ステラと仲良くしてもらって」
「!!」
「左様ですか。そう言ってもらえるなら、ロザリアナも喜ぶでしょう」
ますます入りずらくなった。流石の俺でも、俺の話題が出ている場所に顔が出せるほど強靭な精神はしていない。
「私はステラとすれ違うことが多くて……ステラとの接し方がわからないのです」
「お父様……」
「私も同じようなものです。娘が優秀ですと、同じような悩みを持ってしまいますな」
最悪のタイミングだ。ステラにこれ以上、この会話を聞かせるのは酷だ。やはり一旦戻るべきか……
「それでも、私は信じています。彼女がいつの日か、私の思いを理解してくれることを。それまでの辛抱ですよ」
「…………」
ローゲル伯爵の顔は分からない。だが、きっと爽やかな顔をしているだろう。娘も同じ表情をしているのだから。
「……やっぱり、少しでもいいから読んでみる」
「いいの?」
「あたしも理解したいもん。お父様のこと」
ステラと共にそっと食堂を離れる。きっとこれでよかったのだ。それをステラの顔が物語っている。
「部屋に戻ろう、ロザリアナ」
「うん。よかったねほんと――」
「待った」
暗闇から声がする。後ろを振り向くと、背の大きな男が立っている。先程、食堂で話し込んでいた男だった。
「ローゲル伯爵……!?」
暗闇の中、俺の心臓は鼓動を速めていた。