プロローグ
―男が嫌いだ―
父はいつも、俺にぬいぐるみや可愛らしい服を着させようとした。幼い頃に死んだ母に似ているからだろうな。好きな女の面影を自分の子供に重ねる、何とも身勝手で、気色の悪い行為だ。皆が皆、俺の容姿を見ていた。高校に入って初めて仲良くなった男友達も、結局は体目当てだった。嬲るような視線を浴びれば、嫌でもそれがわかってしまう。男は、俺のことなど見てはいなかった。
―この体が嫌いだ―
望んでもいないのに、股から血が流れてくる。月に一度襲ってくるこの血は、不快感と共に絶望も運んできた。だから剣道を始めた。その絶望を、少しでも遠ざけるために。最初はうまくいったさ。男たち相手にも引けを取らなかったし、取られるなんて毛頭思わなかったからな。いつからか、男たちの力に勝てなくなっていた。力業で竹刀を叩き落とされ、重い一撃が俺の体を何度も襲う。いつしか、道場の隅で見学することが増えた。俺の体は、あの衝撃に耐えられなかった。
―自分が嫌いだ―
本当はもっと真っ直ぐ生きたかった。親が望む可憐な少女像を跳ね除け、俺の望む姿をして生きていく。そんな妄想をしながら、俺は結局親の望む姿のままだった。物語の中で、我を貫く人物は数多くいた。彼らは傍若無人で、周りに嫌というほど自分を押し通していた。俺は憧れずにはいられなかった。だが現実はどうだ?自分を変えようともせず、周りに流されるばかり。行動するのを怖がっていた弱い自分が、醜くて、醜悪で、気持ちが悪い。
―嫌いだ―
自分を否定して生きてきた。それももう疲れた。ここに来る理由は、それで十分だったんだ。これ以上なにを話せばいい?天使とやら。
「……それがここに来た理由ですか?」
「ああ、そうだ。胸の内は全部話した。もうこれでいいだろう?」
天使は難しい表情をしながら考え込んでいる。俺は今、裁判所にいた。いや、裁判所というには風景が違いすぎる。天使の右半分は美しい花園が広がっており、そこから漂う花の香りは今まで嗅いだどの花とも違い、奥深く、そして芳醇であった。逆の左半分には溶岩が海のように広がり、その異様な熱気は俺の体に纏わりついて離れない。その中央には裁判長である天使と、被告人である俺がいた。
「何をそんなに迷う事がある?決めれないのなら、さっさと地獄に落としてしまえばいい」
「迷っているというか……気の毒というか……」
「はっきりしないな。それでも天使なのか?」
「天使だからって判断が早いわけじゃないんですよ」
唸っていた天使は覚悟を決めたような表情を浮かべ、机の中から一枚の紙を取り出すと、そこにペンで何かサインを書いた。
「えっとですね、貴方の処遇についてお話します」
「やっとか。待ちくたびれたよ」
地獄ってのはどんな場所なんだろうな。痛いのかな、辛いのかな。けど、もう自分のことを痛めつける必要もない。それだけで、多少は気がまぎれる。
「塩花 茜さん。貴方には生まれ直してもらいます」
「…………は?」
何だ?今こいつは何を言ったんだ?
「今、生まれ直すとかなんとか聞こえてきたけど?」
「そう言いました。貴方には今の記憶を持ったまま、もう一度生を受けてもらいます」
「生を受ける?」
「分かりやすく伝えると、今の世界とは全く違う世界で生まれて貰い、そこでの行いで天国か地獄かを判断します」
「俺は地獄に行くんじゃないのか?」
「そもそも、貴方は今のままでは天国にも地獄にも行けないんです」
「い、行けないって……なぜだ?」
「判断材料が足りないんですよ。人生を歩めば歩むほど、その人には善悪の経歴がついていく。若くして死んだ人はそれが少ないんです」
「そうか、そうなのか……」
地獄に行かなくてもいい。普通の人ならどれほど喜べただろう。だけど、俺からしたら生まれ直す方が地獄なんだ。この矛盾を抱えたままもう一度生きるだなんて、地獄以外のなんだって言うんだ?
「生まれ直す時は今の状態、生活水準や顔なんかもなるべく同じようになります。育つ環境が違っては正しく判断できませんから」
顔。顔が同じ。あの忌々しい顔として生まれる。それはつまり……
「俺はまた……女として生まれるのか?」
「…………残念ながら」
膝から崩れ落ちた。もしかしたら、今度は男として生きられるのかもしれない。ありもしない幻想を、まるで事実かのように受け止めていた。
「……俺にまた地獄を味わえと……?」
「そうは言って……いえ、貴方にはそう受け取られてしまうのも無理はありません……」
「そうかよ……あんたが難しい顔してたのはこれが原因か……」
ああ、こいつは天使なんだ。人間じゃない。人の心なんて微塵もないのだ。彼女の顔を見なければ、心の底から思っていただろう。だが、彼女からは罪悪感が溢れている。天使であるはずの彼女は、俺に間違いなく同情していた。そうでなければ、俺は溶岩に身を投げていただろう。
「貴方の心は……とても細部まで入り組み、傷ついています。それがわかるからこそ、辛いのです。それでも……例え貴方から憎悪を向けられたとしても、私は、私の仕事を果たさねばなりません」
「……わかった。そんな気持ちにしてしまって申し訳ない」
「ですが、出来る限りのサポートはします」
突然、目の前に机が現れた。机の上には書類があり、天井は雲に遮られて見えないほど高く積まれている。
「それは貴方を飛ばす世界の一覧です。その中で三つ、候補を決めて下さい。その世界で今の地位に近い家系へ生まれ直してもらいます。それが私にできる最大限のサポートです」
「本当にいいのか?」
「構いません。さあ、選んで下さい。貴方が、認められるような世界を!」
天使、やはりこの言葉は間違いではなかった。慈愛に満ちた存在は、確かに俺の目の前で翼を広げている。その言葉を、最大限の感謝を持って答えよう。
「これも違う……これも、これなんか駄目だ……」
積み重なった書類の一枚一枚を丁寧に仕分けしていく。砂漠に埋め尽くされた世界や、星が降る世界など、幻想的な世界は山ほど存在したが、俺の目指す世界には天候なぞさほど重要じゃない。
「よし、出来た……」
俺が望んだ世界。俺のような人間を簡単に受け入れてくれる、そんな世界だけを選び抜いた。これでいい。この世界なら、俺は我を貫ける。
「出来ましたか?確認しますので――」
「待った!」
咄嗟に口を押さえる。なぜ、俺は今叫んだ?
「どうされました?」
「最後の確認がしたい」
「……わかりました。じっくり選んでください」
「ありがとう」
今、俺の望む世界が目の前にある。我を貫ける世界に行けるんだ。なのに、俺は何を躊躇っている?この選択が間違いである、俺の心根はそう叫んでいる。自分の心が、自分の行いを否定している。
「これでいいのか……?」
無意識に口に出ていた。そうだ。俺は言ったじゃないか。真っ直ぐに生きたかったと。我を貫き、嫌なものは嫌と言える自分、そうなりたかった。そうだ。俺は俺を好きになりたかったんだ。今選んだ世界なら、俺はきっと受け入れられるだろう。それはどれほど素晴らしいのだろう。きっと苦しまずにすむ。
「……嫌だ……」
その選択は何も変わらない。弱いまま、生涯を終えてしまう。それだけは絶対に嫌だ。俺が、俺が望む世界は、こんなまやかしなんかじゃない。
「選んだぞ」
「ありがとうございます。それでは…………!!」
提出した書類を見て、天使は目を見開いている。
「……本当にこれでよろしいのですね?」
「ああ」
天使に頼んだ世界は、元いた世界と対して変わらなかった。現代よりも古く、そして差別的な時代。中世の貴族への道を、俺は行く。
「理解できない……」
「俺は俺が嫌いだ。なりたい自分になれない、それを言い訳にして逃げた。ここで、自分が認められる世界を選んだら、俺は何も変わらない……そうじゃないんだ!!好き勝手に振る舞って、我を貫きたい!誰かに認められたいわけじゃない!俺は!俺を認めるために生きる!」
「…………今まで見てきた人間で、ここまで言い切る人はいませんでした」
女、男、性別なんて関係ない。俺は、俺の目指す俺になる。女なのなら、男にも勝るほど高みへ昇る。
「この生まれ直しにデメリットはあるか?」
「そ、それは……」
「いや、今ので十分だ」
デメリットはあるのだろう。だが、デメリットがあったとしても、それを打ち消すほど強くなればいい。
「では、覚悟はいいですか?」
「答える必要あるか?」
「そうですよね」
天使が放り投げた書類は、宙を舞いながら細かい霧へと姿を変えていく。冷たくて、どこか懐かしい香りだ。ひどい眠気の中、俺はひっそりと笑ってみせた。