釣り糸の向こうに見えた影
湖畔での静かな釣りの時間は、今日も変わらず続いている。
現実の疲れや喧騒をすべて置いて、僕はヴェリディアン・リアルムズのこの場所に身を預ける。
釣り糸をそっと湖に投げ入れ、浮きの動きをじっと見つめる。
それだけで、心が静まり、肩の力が抜けていく。
先日見かけたあの魔法使いたちや騎士のことを思い出す。
あれ以来、他のプレイヤーたちに対する見方が少し変わった気がする。
彼らの剣さばき、呪文の詠唱、スピード感のある動き。
それらを遠くから観察することで、改めて自分との違いを感じる。
彼らは速さを求めている。緊張感と刺激を。
僕は、遅さと穏やかさを選んでいる。それが、心地いい。
そしてその選択に、いまは確かな自信がある。
今夜も釣りをしていると、一人のプレイヤーが近づいてきた。
今回は、ひとりきりで。パーティでもなく、戦闘中でもない。
くたびれた革の鎧を身に着け、手には鈍く光る短剣を持っている。
まるで長い戦いを経てきたかのような風貌だ。
彼はゆっくりと、僕の隣に立つ。
「やあ」
声は低く、どこか疲れているようだった。
一瞬どう反応すべきか迷った。普段、他のプレイヤーとは関わらないようにしていたから。
「……こんばんは」
少し戸惑いながらも、僕は挨拶を返す。
彼は僕の釣竿を見て、それから湖へ視線を移す。
「ここで、ずっと釣ってるのか?」
「うん。たいてい夜に来るんだ」
僕がそう答えると、彼は小さく頷いた。
「俺にとって、この辺りはいつも戦場だった」
彼は深く息を吐きながら、そう言った。
その横顔を見ると、確かに顔には深い疲労の色が浮かんでいた。
「終わりのないクエストばかりでさ……」
そう呟きながら、短剣を腰のポーチにしまう。
僕は再び浮きへと視線を戻す。彼もまた、同じように静かに水面を見つめている。
沈黙が流れる。でも、不思議とその沈黙は重くなかった。
彼の存在は、僕の静けさを壊すどころか、逆に心を落ち着けてくれる。
「なあ……時々思うんだ。こんなに走り回る必要って、本当にあるのかなって」
彼の声は、少しだけ柔らかくなっていた。
僕は彼の方を向く。彼の目は、どこか遠くを見ていた。
「……たぶん、ないよ」
それだけを答えた。
ちょうどそのとき、浮きが小さく揺れた。
ゆっくりと釣り上げると、小さな魚が掛かっていた。
それをインベントリに入れて、また竿を構える。
彼は、僕の動きを黙って見ていた。
「戦わないのか?」
彼の目が少し見開かれ、驚きと好奇心が混じっていた。
「戦うつもりはないよ」
僕は首を横に振る。
「じゃあ……何をしてるんだ?」
「釣りだけさ」
思わず笑みがこぼれる。
彼はしばらく黙ったまま、湖の水面を見つめていた。
「なんとなく……分かる気がする。お前、静けさを求めてるんだな」
「そうだね」
「俺も……今度試してみるかもしれない」
その一言に、僕は少し驚いた。
これまで、他のプレイヤーにはあまり理解されなかったから。
彼はしばらく隣に佇んだあと、ゆっくりとその場を離れていった。
去っていく背中を見つめながら、ふと感じる。
彼もまた、どこかでこの静けさを必要としていたのかもしれない。
この出会いが、僕の日々のルーティンにささやかな彩りを加えてくれた。
それでも、僕は僕の道を進む。
ここ、湖のほとりで。静かに、穏やかに。