静寂に差し込む他者の足音
湖畔のこの場所が、今や僕の定位置になっている。
毎回ここに来ては、変わらぬ静けさと癒しを求めている。
ヴェリディアン・リアルムズで過ごす時間は、現実の疲れを忘れさせてくれる。
ここでは、僕と釣り竿だけ。余計なものは何もない。
釣りスキルは、少しずつだが確実に上がっている。
メニュー画面を開くと、進行ゲージがほんのわずかに伸びているのがわかる。
それを見ると、心がほんのり温かくなる。
焦らずに、自然のままに――それが僕のやり方。
今日もまた、浮きが水面に落ちる音を聞きながら、無になっていく。
心の中が空っぽになっていく感覚が心地よい。
何も考えず、ただこの瞬間に身を任せる。
そんなある日、浮きが大きく沈んだ。
釣り糸が強く引かれ、手に緊張感が走る。
これは、いつもの魚よりずっと大きい。
腕にかかる重みが、その大きさを物語っている。
やがて水面を割って姿を現したのは、青く輝く鱗を持つ巨大な魚だった。
大きな目がこちらをじっと見ているような気がした。
画面に浮かぶテキスト。
《謎の魚:希少種》
以前釣り上げた紫の魚とはまた違う。これは青い。
けれど、今回もインベントリに入れることはできなかった。
「釣りスキルが不足しています」
その一文が表示されたとき、不思議とがっかりはしなかった。
むしろ、まだ知らないことがこの世界にはたくさんあるんだと、少し嬉しくなる。
ヴェリディアン・リアルムズには、まだ僕の知らない発見が詰まっている。
釣りですら、冒険の一部になり得る。
再び、釣り竿を振る。
今度は、新たな疑問が頭をよぎる。
この希少な魚たちは、何に使えるんだろう?
料理? 交換素材? それとも、何かの鍵?
でも、そんな疑問すら、心をざわつかせない。
好奇心はあれど、焦りはない。これが、僕のペースだ。
しばらくして、背後に気配を感じた。
振り返ると、数人のプレイヤーがこちらへ向かってきているのが見えた。
煌びやかな刺繍の入ったローブを纏った者たち――きっと魔法使いだろう。
その隣には、重厚な鎧を身につけた騎士の姿もあった。
彼らはまっすぐ湖のほとりへ向かい、近くの林の中へと入っていった。
目的があるようで、何かを探している様子だ。
「このあたりにエレメンタルスピリットが現れるはずだ!」
「地図ではこの位置を示してる」
彼らの会話は大きな声で、僕の耳にもしっかりと届く。
そのせいで、今まで聞こえていた鳥のさえずりがかき消されてしまう。
でも、僕は何も言わない。ただ静かに、竿を持ち直すだけだ。
彼らは、きっと戦いやクエストを求めてここに来たのだろう。
釣りなんて、目もくれないはずだ。
騎士が剣を抜くと、鎧が金属音を響かせた。
魔法使いの一人が空に杖を向け、蒼い光を放つ魔法を放った。
空に花火のような光が広がる。
まるでショーでも見ているかのようだ。
僕とはまるで違う遊び方。
彼らにとってこの世界は、スリルと興奮の舞台。
でも、僕には僕の楽しみ方がある。
穏やかで、静かで、急がない。そんな時間が、今の僕には一番大切だ。
木々の間に、確かに何かが光っている。
たぶんそれが彼らの探している「エレメンタルスピリット」だろう。
でも、僕はそちらを見ようともしない。
再び視線を水面へ戻す。浮きが、風に揺れて小さく揺れている。
僕にとって、今一番大事なのはこの「赤い点」が沈む瞬間だ。
周囲の音はさらに騒がしくなる。魔法の発動音が連続して聞こえてくる。
たぶんもうすぐ戦闘が始まるのだろう。
でも、僕は自分の世界に没頭し続ける。
浮きを見つめ、呼吸を整える。ただ、それだけで満たされている。
新しい出会いがあっても、思いがけない展開が起きても、
この静けさを失わない限り、僕の釣りは続いていく。
――ここは、僕のヴェリディアン・リアルムズ。
戦わなくても、急がなくてもいい。
僕は、ただ、休んでいる。