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まだ誰も知らない、ゆっくりの価値

湖畔での静かな時間――それが、僕の新しい日課になっていた。

 仕事を終えた夜、部屋の明かりもつけずにゴーグルを手に取る。


 目を閉じて、意識を合わせる。

 そして次に目を開けると、そこはもう見慣れたヴェリディアン・リアルムズの草原だった。


 今日もまた、釣り竿を湖に向かってゆっくりと振る。

 浮きが水面に落ちて、小さく波紋を描く。

 時間が止まったような静けさ。世界が僕の呼吸と一緒に、そっと動いている気がする。


 遠くからは、プレイヤーたちの声が聞こえる。

 剣がぶつかる音、魔法の炸裂音、敵の咆哮と叫び声。


 彼らは大冒険の真っ只中。名声、強さ、財宝……そのすべてを求めて走っている。

 でも、僕は違う。僕はただここで、静けさを味わっている。


 思考が空っぽになり、体が軽くなる。

 現実で感じていた頭痛も、肩の重みも、不思議と消えていた。

 釣りをしながら、何も考えず、ただ風の音に耳を澄ませる。


 魚が釣れる日もあるし、何時間も何も起きない日もある。

 でも、僕にとってはどちらも同じくらい価値がある。

 大事なのは、結果じゃなくて、この穏やかな「待ち時間」なのだから。


 ある日のことだった。


 いつも通りに釣り糸を垂らしていたら、浮きが不自然な動きをした。

 ふわっと沈むのではなく、ぐっと下に引っ張られるような挙動。

 反射的にリールを巻く。けれど、いつもより力が必要だ。


 糸の先に、重みを感じる。腕がわずかに引き戻される感覚。

 水面から姿を現したのは、今まで見たこともないような魚だった。


 巨大で、うろこは紫色に輝いている。

 これは、ただのゲームの魚じゃない――そう、直感した。


 「《謎の紫魚》:希少種。釣りスキルが必要です」


 そんな文字が、魚の上に浮かび上がった。


 ……釣りスキル?


 今まで、そんなもの意識したことすらなかった。

 好奇心に駆られて、メニューを開いて「スキル」欄をタップする。


 確かにあった。「釣り」というスキル。レベル1。進行度は0%。

 説明にはこう書かれていた:

 「スキルを上げることで、より珍しい魚や大物を釣ることができます」


 驚いた。僕はただ、癒されるためにここに来ていただけだった。

 スキルを育てるつもりなんて、まったくなかった。

 でも――この紫の魚は、僕の心に小さな灯をともした。


 これは単なるコレクションかもしれない。

 でも、だからこそ惹かれたのかもしれない。


 「釣り」スキルを育てる? いや、焦らなくていい。

 今までどおり、ゆっくり、穏やかにやっていけばいい。


 再び、糸を水面へ。今度は、自分の中の変化に気づく。

 釣れる魚が楽しみというよりも、

 この行動がスキルにどう反映されるのか、それを知りたいという好奇心。


 とはいえ、やっぱり焦らない。

 急いでレベルを上げようなんて、そんなの僕には似合わない。


 しばらくすると、横に別のプレイヤーが現れた。

 ギラギラと輝く鎧に身を包み、大剣を振るって近くのモンスターを次々と倒していく。


 彼はこちらに気づきもしない。

 その視線は常に目の前の敵へとまっすぐ向いていた。


 僕はそんな彼をただ横目に見ながら、黙って釣りを続ける。

 お互い、まったく違う冒険をしているのだと、あらためて感じた。


 彼にとってのこの世界は「戦うための場所」。

 僕にとってのこの世界は「休むための場所」。


 「釣り」スキルだって、のんびりと上げていけばいい。

 たぶん、この紫の魚は何かの鍵になるのだろう。

 でも、それを知るのは……きっと、もっとずっと先でいい。


 今は、ただこの静けさに身を任せる。

 風が吹き、湖面に小さな波が立つ。

 糸を伝ってくる、かすかな振動に心が癒されていく。


 夕日が湖を橙と桃色に染めていく。

 空のグラデーションが、まるで本物のように綺麗で、息をのむ。


 ――こんな景色、現実ではなかなか見られない。

 でも、ここではそれが日常になる。


 また一匹、魚が釣れる。今度は、よくある普通の魚だった。


 でも、それでも僕は笑う。

 この時間があれば、もう何もいらない。

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