湖畔の静寂
ヴェリディアン・リアルムズでの最初の日が、こうして始まった。
喧騒に満ちた街を抜け、辿り着いたのは静かな湖。
そっと釣り糸を垂らす。浮きが水面にふわりと揺れる。
周囲の風景は、現実とはまるで違う。
誰からも何も求められず、焦る理由もない。
緊急のタスクもなければ、提出期限が迫るレポートもない。
ただ、僕は座っているだけ。釣竿を手にし、頭の中は空っぽだ。
耳に届くのは、小鳥のさえずりと、風が木の葉をなでる優しい音。
それだけで、心がふわりと軽くなる。
現実では得られなかった、深い癒しがここにある。
遠くから、他のプレイヤーたちの声が微かに聞こえる。
剣戟の音、魔法の炸裂音。きっと今も彼らは、戦いの真っ只中なのだろう。
でも、僕は違う。僕の冒険は別の場所にある。
僕の優先事項はただ一つ――「落ち着くこと」。
やがて、浮きがすこしだけ沈んだ。
胸がわずかに高鳴る。この感覚、現実の職場で感じる緊張とはまるで違う。
純粋な、とても穏やかな興奮だ。
ゆっくりと竿を引くと、糸に小さな重みが伝わってきた。
水面に、きらりと光る魚の姿が現れる。
小さな魚。その鱗は太陽の光を浴びて、まばゆいほどに輝いている。
――これが、初めての一匹じゃない。
でも、何度釣っても、この喜びは変わらない。
魚を丁寧にインベントリへ入れ、再び釣り糸を垂らす。
ここでは、時間の流れが消えていく。
分なのか、時間なのか、感覚があいまいになる。
ただ、その一瞬一瞬が、かけがえのない宝物に感じられる。
頭痛もしない。肩の重さも感じない。
身体は軽く、心は穏やかだ。こんな感覚、いつ以来だろう。
時々、ゴーグルを外して現実の部屋に視線を向ける。
部屋は薄暗く、相変わらず静かだった。
体には疲労が残っているはずなのに、なぜか心がとても軽い。
再びゴーグルを装着し、ヴェリディアン・リアルムズの湖へ戻る。
釣りを続ける。ときおり、大物が釣れることを夢見る。
でも、釣れなくても気にならない。
この「過程」こそが、僕にとっての全てだ。
今夜の夕飯を何にするかも、明日の会議のことも考えていない。
ただ、浮きの動きに意識を向けている。
水面のさざ波、かすかな風――それだけでいい。
思考はゆっくりと消え、ただ「今」に没頭する。
この静けさ、まさに僕が求めていた「逃げ場」だ。
他のプレイヤーたちは、どんどんレベルアップしていく。
きっと、もう伝説のダンジョンへと向かっているかもしれない。
でも僕は、未だにこの初期エリアの湖にいる。
それでも、何の問題もない。
ここにいるだけで、十分だから。
空を見上げれば、白い雲がゆっくりと流れている。
水面には木々のシルエットが映り込み、まるで本物のようだ。
この技術、すごすぎる……。
現実のストレスを、これほどまでに忘れさせてくれるなんて。
僕にとって、釣りは瞑想だ。
一投、一呼吸ごとに、心が浄化されていく。
脳内の騒音が、すっと静まっていく。
その代わりに、内側からじんわりと温かな安らぎが満ちてくる。
また一匹釣れた。今度は、少し大きい。
でも、興奮の度合いは同じだ。
魚のサイズなんて、問題じゃない。
釣り竿をもう一度握りしめ、そっと水面へ糸を落とす。
まだ、ここにしばらく居たい気分だ。
この湖こそ、僕の避難所。
現実の全ての疲れから離れられる場所。
ここで、リョウとして。
本当の自分として。
ただ、静けさを味わっているだけ――それだけで、十分だった。