表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/94

疲れた社会人、釣り職で生き直す

外では、すでに月が空に昇っている。

 空は深い闇に覆われ、かすかに星がまたたいていた。


 アパートの玄関を開けた瞬間、腕が重くなり、背中に鈍い痛みが走る。

 一歩足を踏み入れるだけで、全身から力が抜けそうになる。


「ふぅ……」


 靴を脱ぐためにかがむと、膝が軋むように痛んだ。

 鼻に漂うのは、古くて少し埃っぽい、我が家の匂い。

 ゆっくりと深く息を吸う。これが、いつものルーティンだ。


 朝、アラームに叩き起こされ、ぎゅうぎゅう詰めの通勤列車に乗り、夜遅くに家へ帰る。

 そんな毎日が、変わることなく繰り返されている。


 仕事は常に集中力を求められ、パソコンの画面を見つめ続けるうちに目がしょぼしょぼになる。

 帰宅した頃には、脳みそが完全にしびれている。

 休むためのエネルギーすら残っていない。


 昔は趣味がたくさんあった。

 水彩画を描くのが好きで、週末にはレコードを聴いたり、古本を読んだりしていた。


 けれど今では、乾いた筆と埃をかぶったレコードが棚に眠るだけ。

 読まれぬままの本が、本棚にずらりと並んでいる。


 時間も、気力も、もう残っていない。

 ただ、ぐっすり眠ることだけを望んでいる。


 そんなある晩、深夜にスマホをいじっていたときのこと。

 一つの広告が目に留まった。


「完全没入型VRMMO『ヴェリディアン・リアルムズ』――」


 いつもなら、そんな宣伝はスルーする。

 どうせ、派手な剣と魔法と、モンスターとの戦闘ばかり。


 でも、この動画は違っていた。

 巨大な怪物が現れた直後、一転して映し出されたのは、どこまでも続く緑の森。


 澄みきった川の水面に、小さな魚が泳いでいる。

 木漏れ日が葉の間から差し込み、きらきらと輝いていた。


 その光景は、心の奥を優しく撫でるような、そんな静けさを持っていた。


「……少し、気分転換になるかもしれない」


 そんな思いが胸に芽生える。

 現実のしがらみから解放され、静かに過ごせる仮想世界。

 それは、ただの逃避ではなく、救いのように思えた。


 翌日、仕事から帰ってきたその足で、VRゴーグルを調べ始めた。

 値段を見て一瞬たじろぐが、あの映像が頭から離れない。


「……これで、少しでも楽になれるなら」


 悩んだ末、一番コスパの良いと評判のモデルを注文する。


 二日後、待ちに待った荷物が届いた。

 大きな段ボールを部屋に運ぶだけで、胸が高鳴る。


 机に座り、慎重に開封する。

 中から現れたのは、艶消しの黒が美しい、未来的なデザインのゴーグル。


 丁寧にセッティングを進め、センサーを部屋の角に設置する。

 パソコンにソフトをインストールしながら、まるで儀式のように手を動かしていた。


 全ての準備が整ったとき、静かに深呼吸。

 顔にゴーグルを装着し、コントローラーを手に取る。


 真っ暗な視界の中、まばゆい光が広がった。


 そして現れる七つの種族のシルエット。

 彼らが、こちらを見つめているようだった。


「ようこそ、冒険者よ――」


 重みのある、どこか厳かな声が響く。


「種族を選択してください」


 エルフ、ドワーフ、オーク、人間、ノーム、マーフォーク、トロール。


 だが、どれにも興味が持てなかった。

 僕はただ、目立たない存在になりたかった。


「……人間でいいや」


 次に表示されたのは、職業選択画面。

 戦士、魔法使い、弓使い、暗殺者――どれも煌びやかで、強そうだった。


 だが、その一番下に、小さなアイコンが表示されていた。

 釣竿とスコップのマーク。「採集者」


 思わず笑みがこぼれる。

 まさに、僕が求めていたものだ。


「名前を入力してください」


 本名は避けた。

 この世界には、現実の重みを持ち込みたくなかった。


「……リョウ」


 新しい名前、新しい始まり。


 確認ボタンを押すと、白い光が辺りを包む。

 気づけば、騒がしい都市の中にいた。


 石造りの建物、走り回るプレイヤーたち。

 戦士や魔法使いたちが、武器を振るい、スキルを試している。


 だが、その喧騒は、どこか遠くの出来事のようだった。


 僕は静かに都市の外れへ向かう。

 ごちゃごちゃした街を抜け、門をくぐると、視界が一気に開けた。


 どこまでも続く草原、遠くにそびえる山々。

 そのふもとには、ダンジョンらしき入口が見える。


 風が頬を撫で、鳥のさえずりが耳に届く。

 目の前に広がるのは、透明に輝く湖。


 画面越しではない、“本物”のような景色。

 自然と笑顔がこぼれた。こんな気持ち、久しぶりだった。


 インベントリに、初期装備の釣竿が自動で入っていた。

 まったく迷わず、それを手に取る。


 ゆっくりと湖へ近づき、そっと釣竿を振る。

 糸が空を裂き、水面にぽちゃんと落ちる。


 ただ、それを見つめる。

 それだけで、心が落ち着いていく。


 現実では、時間に追われる毎日。

 ここには、そんなものはない。


 浮きを見つめながら、思考が静かに溶けていく。

 仕事のストレス、通勤の雑踏、未読のメール……すべてが遠のいていく。


 ただ、僕と湖。釣竿と風。


 やがて浮きがゆらりと揺れる。

 胸が少しだけ高鳴る。


「……かかった、のか?」


 ゆっくりと糸を引くと、小さな魚が水面に顔を出す。

 キラキラと陽を浴びて輝いていた。


 小さな魚。でも、僕にとっては大きな成果。


 釣った魚をインベントリに入れ、もう一度釣竿を振る。


 これが、僕の冒険だ。

 誰とも戦わず、ただ静かに、生きる。


 ここ、「ヴェリディアン・リアルムズ」で。

 ただの釣り人として。

 そして、癒しを求める一人の男として。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ