肌色の虫
エリカは思わず叫んだ。
虫だ。黒い虫がいたのだ。それはカサカサと動き回っていた。しかも一匹ではなく、数匹。エリカは頭をもたげた。
仕事の帰りに、こんなものを見るなんて。最悪だ。部屋はきれいにしていたはずなのに。
身近に殺虫剤がないか探す。
キッチンの上の棚を見たが殺虫剤はなかった。仕方なく、玄関にあった新聞紙をまるめて、虫に立ち向かった。
「死ね!!」
叩くだけでは、死なななかった。新聞紙を広げて、足で踏みつぶすことにした。虫には羽があるようだったが、飛ぶ気配はなかった。
足に、間接的に虫が当たるのがわかった。
「気持ち悪い」
新聞紙をぐっちゃぐちゃにして、袋に入れ、密封してごみ箱に突っ込んだ。
残るはあと一匹。エリカは気合を入れなおした。
憎い。憎い。憎い。家族は皆殺しにされた。最後にちらりと見えた家族の死体は、内臓が飛び出ていて、顔もぐちゃぐちゃになっていた。憎い憎い憎い。絶叫が聞こえた。何を言ってるかはもうわからない。咆哮だった。私は逃げるしかなかった。羽は折れていたので、使えなかった。足を使って逃げるしかない。この大きな二本足から逃げるしかない。
圧倒的力を前にして、もう逃げられなかった。壁際に追い詰められた。
死ねばこの憎さから逃れられるだろうか。足の触感を感じながら、目を閉じた。
次に目を開いた瞬間、目を開いたと同時に腕がびくっと動いた。その次に足が動いた。筋肉に力が入り始めたのだった。鏡が目の前にあった。鏡…なぜ鏡だとわかったのか。
黒々とした二つの点。二つの穴と、その下に、一つの穴。これは顔なのだ。そう直観した。そして、これは私たちの天敵の顔だった。そうか、私は人間になったのか。その考えに至るのに間はなかった。
よく動く手足が面白くて、手足をバタバタ動かした。きっと羽があったらこんな感じなのだろうと考えた。
「ただいま」
声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。そうだ。死の間際、私は、この声を聴いたのだった。絶叫を思い出し、心が震えた。
「何しているの?」
私はまだ床で手をバタバタしていた。
「なんか気持ち悪い。虫みたい。」
「そうそう、この前虫が出て大変だったんだから。」
その人間が私の目をじっと見ていた。
「ああ、ごめん俺がわるいんだ。」
ついて出た言葉に、私は驚いた。どうも私はこの身体になじんでいる言葉をとっさに発したようだった。「俺」という言葉と「ごめん」という言葉は、特に身に染みているようだ。
手足をまたバタバタしたい気持ちにかられたが、ぐっとこらえた。
「…結婚の話だけれど。入籍いつにしようか?」
投げかけられた疑問に、私はまごついた。
「俺は…どうしたら…」
「俺」という言葉は自然と出てきたが、そのあとは続かなかった。
結婚はもう済んでいるのだ。とても美人なあの子と。こんな黒い点だらけ、穴だらけの顔でなく、もっと素敵なあの子と。
「俺は、誰なんだ?」
俺は、という言葉をつなげることで、なんとか言葉を発することができた。
「とぼけてるの?○○は私の恋人。もしかして、付き合って何年か忘れちゃった?エリカと5年も付き合ってるのに。」
○○というのが、私の個体名だということは、自明だった。エリカというのが今私が見ている人間のことだということもまた。
気を失いそうになった。でも、そんな瞬間は訪れなかった。考えるしかなかった。
この人は、私と結婚するということを言っている。私は、人間になって、私を殺した、家族を皆殺しにした人間と結婚しようとしている。この身体は誰のものなんだ。私は愛する人を失い、人間になってしまった。
このまま人間として生きるしかないのか。何か戻る手段は。
そこで、もう死んでいることに思い当たった。死んでいるのだ。私は。もう元の体に戻ることはできない。
「エリカ愛しているよ。」
私は、言い慣れているであろう言葉を使ってその場を切り抜けた。
日常は当たり前のように過ぎていった。
1年がたち、私たちは結婚していた。
たまに手足をバタバタさせて、羽の感覚を楽しんでいた。
私は虫であり、人間なのだ。一年かけてそのことがわかっていった。
ある日、エリカの絶叫が聞こえた。
「いやああああああああ。また虫いいいい。」
「きもすぎ。しばらく出てなかったのに。殺すの手伝って。」
「いいよ。」
優しく言った。いいよ、とは全肯定の言葉だ。
私は立ち上がり、右手に新聞紙を持った。黒く走っていく虫を追いかけた。すばやいな。もっと早く動かなきゃ。ようやく壁際に追い詰めた。
「死ね。」
勢いよく、新聞紙をかざして、踏みつぶした。
ぷつり、と死の音がした気がした。