チサト−1
チサト−1
私は「千の顔を持つ英雄」を芝生の上に置くと、ふうとため息をついた。なんとなく髪を弄る。
私の名前はチサト。時々本を持って、太陽の下で本を読む。ここはルシタニア王立科学アカデミアの中庭。月桂樹の木陰にいる。私はアカデミアの生徒で、今は夏休み。なんとなく学校に来てる。
アカデミアの授業はひどくつまらないけど、全く役に立たないわけじゃない。だから一応は聴いてる。ノートも一応取る。
私は、大事なことは、魂を浄化してくれる本を読むことだと思う。私の考えは、見たり聴いたりしたことで構成されている。私たちは、その構成されるものを選べるのだ。
私は図書館で借りて来たその本をまた持つと、文字を追い始めた。太陽の光が文字の一つ一つを照らす。この文字のひと連なりが人の意志や考えを示しているなんて、にわかには信じがたい。
私は最近アカデミアにやってきた。ここの教授に呼ばれたのだ。確かゴローという名前だ。
アカデミアに限らず、教授は変わった人が多いけど、あの教授は特に変わっている。
私みたいな人間を買ってくれてるのもそうだけど、タバコを咥えていて、なおかつ、それに火をつける様子が全くない非喫煙者だ。「伊達眼鏡」ならぬ「伊達タバコ」というべきだろうか。
このアカデミアの雰囲気は悪くないとは思っている。私自身あまり交流するのが好きじゃないし、そういう私でも受け入れてくれるところがある。いい意味でほうっておいてくれるのだ
アカデミアに来てから知り合った人物として、ユータとキョウコがいる。彼らもよくわからない人たちだけど、悪い感じじゃない。
ユータからは、暗号数学の本をもらった。時々読んでいる。
暗号は世界を守っている。その事実は、私たちはあんまり意識することはない。
暗号の本は、私の魂を浄化してくれるだろうか?私は、事実のみが精神を救済してくれるとは思っていない。
キョウコは、まあ、明るい子だと思うけど、ユータと同じく、何か焦燥感を持っている気がする。私がそう思うだけで、根拠はない。もしかしたら、私と同じく、浄化されない魂、救済されない精神を持っているのかもしれない。
ふと顔を上げると、キョウコがいた。ふむ、今日はユータがいない。ショートカットのキョウコは、いつもの屈託のない笑顔で、私に話しかけてくれる。
「チサトも休みなのにアカデミアいるのね」
そう言うと、キョウコは私の隣に座る。綺麗に手入れされた芝生の上。
「ええ」
そう素っ気なく言うと、私は本に目を移した。別にキョウコに去ってもらいたいと思ってるわけじゃない。ただ、話を交わす必要がないと思っただけだ。
キョウコは私の隣に腰を下ろし、本を取り出した。暗号数学の本。
「暗号?」
私はつい声に出す。意外な本を読んでいたからだ。
「そう、暗号」キョウコは答える。
私はカバンの中の同じ本を取り出した。黄色の表紙の、「暗号数学入門」という本だ。入門と言っても、簡単に理解できるものではない。「入門」と書いてある数学の本はだいたい難しいのである。手触りのいい表紙は、奇妙な波模様が描いてある。私はこの本の少し凹凸がある手触りが少し好きだ。
「彼バカなの?二人の女の子に同じ本プレゼントして、それが同じ暗号の本?」
ちょっとムカムカして、本をトントンと指先で叩いた。キョウコは答えず、その本をパラパラとめくり、読み始めた。その本には色々と折り目や付箋がついている。
意外だった、キョウコはそういう本も熱心に読むんだ。私はあんまりその本はそこまでは読んでない。
遠くに緑色の海軍の軍用船が飛んでいる。この国は、歴史的経緯により、海軍しか存在しない。ルシタニア王国海軍のその船は、プロペラの音を立てながら、東から西へ飛行していた。
そのずんぐりとした機体は、その重量を反重量パネルと核融合リアクターで支えながら、平原の上を航行していた。
グランダニア平原の東の端に海軍基地があるのだ。ユータの両親もそこに勤めていたらしい。ユータの両親は、今はどこにいるのか知らない。
「ユータは来ないのね。」
そう、私は言った。
「今クレア行きのスーパーエクスプレスの中。多分寝てるわね」
キョウコはそう答えた。
「クレア?何しに?」
私は訝しんで聞いた。
「ぶらっとひとり旅ですって。いい気なもんね」
キョウコは少し怒っているようだ。私は人間関係の機微についてはよくわからない。どちらにせよ私にとっては関係ないことだ。
私にとって重要なのは、この世を構成している法則を理解すること。
私は事実のみが魂を浄化してくれるとは思っていない。いや、全ての事実が魂を浄化してくれるとは限らないと言ったら良いのだろうか。ちょっと矛盾したことを我ながら言っているけど、事実にはたくさんのものがあり、例えば、数多ある魂が浄化されているとは限らないみたいに、数多ある全ての事実が浄化されているとは限らない。
つまり、私は浄化された事実のみを知りたい。それは、AIであるビリーの無垢な魂の中にも感じるし、ユータを育てたボブKPEにも感じる。
ユータが一度言っていたことがある。ユータの両親はユータを育児放棄している。
戦争でどうしようも無かったのかもしれない。ユータの両親は数学者で、当時数学者は軍事技術の関連上、公安にマークされていた。
育児放棄したその後グランダニア平原は戦場になった。私はその時のことはよく知らないが、周りの大人はよくその時のことは口にする。ユータの両親は軍に呼び出され、ユータは家に置き去りにすることになった。
ユータを代わりに育てたのは、軍用ロボットであるボブKPE、通称ボブだ。
「だから、僕を育てたのは機械だ。僕に言葉や読み書きを教えたのも機械であるボブなんだ」
そうユータは言った。ユータはそのことに対してほとんど負い目を感じていないし、心なしか誇りにしている感じだった。
私は人間の両親に育てられた。私の親はあまりいい親ではなかった。もしかしたら、私たちの子供の世代を育て教育するのは、私たち人間ではなく、機械なのかもしれない。
キョウコはふとこんなことを言った。
「ユータちょっと最近心配になるのよね。ちょっと焦りすぎで、心配になる」
ユータの最近の焦りようは、ユータの生まれと関係があるんだろうか。
「そう」
私は素っ気なく答えた。ユータは確かにちょっと焦りすぎだ。心配になる。あんまり焦りすぎて、自己破壊的にならなければいいが。