戦いの歴史
「それはとにかく特徴のない男でした。全身を覆い隠すほど大きなローブを頭から被っていて、それ以外は何もわからなかった。そしてその男は我々龍の前に突然現れ…こう言ったのです」
――人間のもとに降れ。
それはある種の宣戦布告だった。
龍と人の関係は友好的な関係は龍側の寛容のもとで培われ、成立していたものだ。
概念を司り、強大な力を振るう事の出来る存在…ひとたび龍がその気になれば人間など抵抗もできず蹂躙され、世界にそのような種が存在していたという事実ごと消えてなくなるだろう。
しかしそうはせず龍はそのほとんどが人との友好的な関係を望んだ。
だというのにその男は人の身でありながら龍にそれまでの関係を捨て、人の下に…対等ではなく隷属せよと口にしたのだ。
当然そのような一方的な話を受け入れる龍などおらず、ある龍は狂人のたわごとと笑い飛ばし、またある龍は礼を失しているとして激怒した。
「どちらにせよ男の話を受け入れる龍はいませんでした。当然この私も…当時の私に黒龍…そしてもう一柱のとある龍はその騒動には関わらないように遠くに離れて事の成り行きを見守っていました。それは「何か嫌な予感がする」と口にした黒龍の提案によるものでしたが…その予感は現実のものとなってしまったのです」
どうであれ受け入れられる話ではないと一蹴する龍たちに対して男は無謀ともいえる提案を出来るに値する切り札を切った。
当時の龍たちをまとめ上げていた龍の王…そう呼ばれていた龍に赤い柱が天から降り注いだ。
龍の中でも格別の力を持っていたとされる王はその光になすすべもなく飲み込まれ…そして塵一つ残さず消滅してしまったのだ。
その男が行使した力こそが…。
「呪槍とよばれる力だったのです。絶対の存在であったはずの龍にすら「死」を押し付ける…悍ましき力」
龍たちの間には瞬く間に動揺と混乱が広がり…そしてそれらはすぐに人間に対する敵意に変わった。
――戦争。
人と龍の戦争…歴史には語られなかったがそれは人龍戦争として一部の間では語り継がれることになった。
「人龍戦争…ねえ待って、その話が五百年ほど前で…今現在世界を牛耳っている生物はどう考えても人間だわ。その戦争…人間が勝ったという事なの?その…呪槍の力というやつで?」
アザレアの疑問にセラフィムは頷きを返して肯定した。
「でも…少し違和感があるわ。少なくともセラフィム・ホワイト…あなたは当時から生き残っているし、いまだ人に対して戦いを挑んでいると言っていた。それにメアたんの義母様に…話を聞く限り他にもまだ龍はいるのでしょう…?こう…うまくは言えないけれど、気持ち悪いわ。頭に何かが引っかかっているみたいで…龍たちは呪槍という神をも殺す力に屈した…そういう事でいいのかしら?」
「というよりはほとんど引き分けで…どうしようもない膠着状態にまで追い込まれたのです。そうなれば繁殖力という点において龍の何倍にもなる人間が世界を埋め尽くし、そして支配するのにそう時間はかからなかった…そういう事です」
「膠着…ということはあなたたち龍にも呪槍に対するなにか身を守る方法があるという事かしら?そうでなくては一方的に敗北するはずよね?」
「いいえ、五百年前から今までで呪槍に対処する方法は何も見つかっていません…放たれれば終わり…確実に対象となった龍は殺されます。そもそもあれがどういう力なのかすらわかっていないのですから当然ともいえますが…」
「ならどうして…」
「連発ができないのですよ。呪槍の唯一にして最大の弱点…神をも殺すことのできる最強の力は一度放てば次に放つまで最大で数年もの時間を必要とするのです。つまり龍は…一柱がその身を犠牲にすることで数年の人間を攻める時間を手にすることができるのです」
「…ならやっぱりおかしいじゃない。それなら人道には反する行為かもしれないけれど、一人の犠牲でそのほかの龍はその力を遠慮なく振るえるのでしょう?とても人間側が勝てるようには…」
セラフィムは目を閉じてゆっくりと…そして深く息を吐いた。
目の前の皿に盛られたクッキーを一つ手に取り、アザレアにそれを投げ渡す。
「なにを…」
「龍の中に裏切り者が出たのです。とある龍が二柱…人間についた。あれらが何を考えてそちらに着いたのか…知る由もありませんがそれによって事態はさらに龍に対して不利な方に流れていきました」
呪槍で確実に障害となる龍を排除し、次に使用可能となるまでの時間を人間側についた二体の龍が稼ぐ…そうやってゆっくりと、そして確実に龍たちは力削がれていき、世界の主導権を実質的に人間に奪われてしまう事となった。
そこからの人間たちの…いや、龍に宣戦布告を果たした男の行動は速かった。
瞬く間に人間たちを統一し、教会と言う機構を作り上げ各地を国という形に分断した。
生き残った龍たちは教会にて皮肉を込めて神と祀り上げられ、やがて男は「教皇」と名乗り、赤の神が住まうとされる地にて人々に崇められるようになった。
「これが現在に至る我々龍と、人間たちの始まりでした」
「…教皇が実在すると?いいえ、実在していた?」
「実在していますよ。腹立たしいことにいまだに存命です」
「いやいや、おかしいでしょ…五百年前の話なのよね?もし教皇が本当に人間ならそんなに生きていられるわけが…」
「生きているのですよ。どういうカラクリかはわかりませんが、生きているのは確かです」
「…龍が力を貸しているという事かしら?それこそ…人間たちが信仰している神の正体が龍だというのなら、赤神領にいるとされる赤の神…赤龍とか」
セラフィムは首を振ってそれを否定した。
「赤龍という存在はいないのですよ。先ほどは説明のために口にしましたが…しかし龍の歴史が始まって以来、「赤」に分類される龍が現れたという事実はありません。しかし教皇と名乗るあの男が何の力も持たない真人間であるはずがないというのもまた事実…必ず彼に力を与えた何者かは存在しているはずなのです」
「…裏切ったという龍はどうなの」
「あれらが人間…教皇についたのは戦争が始まってからでした。仮に事前に話が付いていたのだとしても…教皇には説明できない点のほうが多い。呪槍の出所が分からない以上、対策も立てられず…こうして無様を晒しています。せめてもの抵抗にと白神領を私の支配下に置き、隙を見ては喰い殺してやろうとしているのです」
「殺されるかもしれないのに抵抗をしているというのね?」
「私に対して呪槍が撃ち込まれるというのなら、それはそれでチャンスが生まれるのです。何発も打てない以上は向こうもやすやすとは使えない。そして人間たちについている龍たちも、無償で動くわけではありません。紫神領の話は知っているでしょう?」
アザレアの脳裏に数年の事件が浮かぶ。
突如として襲撃してきた魔物に紫神領が壊滅まで追い込まれ、現在は人間の住めない魔の都に変貌してしまっているという事件の話が。
リンカはそうやって紫神領を追われたかつての名家だった者たちが大司教に唆されて送り込まれてきたのだ。
その関係もあり、ちょうど調べていた事件だけに記憶に新しかった。
「まさかあれがその数年前の戦争に関係していると?魔物って龍の事…?」
「ええそうです。でも私たちではありませんよ。紫神領を占拠した龍は教皇の手の物です。イルメアに呪槍が撃ち込まれたことを知り、赤神領に対して戦争を仕掛けた私たちの前にその龍は立ちふさがり、まんまと時間を稼がれてしまいました。おそらくその働きの代償としてあの龍は紫神領を要求し…そして教皇はそれを呑んだのでしょう」
「赤神領を守るために紫神領を龍に差し出したっていうの…?そこにいる人間たちを犠牲にしてまで…」
「教皇とはそういう男です。自分以外のすべてを、誰も知らない目的のために切り捨てる…今まで嫌と言うほど見せつけられました…人々に崇められ、社会の頂点に座る男はその実、人間のことをなんとも思ってなどいないのです。人間の世に「髪色による格差」…などと言う意味の分からない制度を持ち込んだのもおそらく彼でしょう。おおよそ人のために動いているとは思えません」
部屋の中に痛いほどの沈黙が流れた。
沈黙がもたらす、重たい空気の中でメアがテーブルをその小さな両手で叩きながら勢いよく立ち上がった。
「せーさん!」
「どうかしましたか?」
「その話おかしいよ!」
「どこか疑問がありました?」
「うん!だって…母がいたんでしょ!?私の母は強いもん!最強だった!たとえ何が相手でも絶対に負けない!呪槍なんてものにも!実際にこの身体に受けたからこそわかる…あんなものじゃ母を倒せるはずがない!だから龍が負けただなんて信じられないよ」
セラフィムに向けられたその瞳は曇り一つない、まっすぐなものだった。
一滴の濁りも、そして強すぎる光も湛えていない…盲信でも驕りでもない…ただ純粋に心の底からメアは母のことを信じているのだ。
いや…信じているという言葉も正しくはないのかもしれない。
母は最強で誰にも負けない。それはメアにとって食事をしなければお腹がすく…と言うのと同じくらい当たり前の事なのだから。
「ふふっ…そうですね。彼女は確かに強かった。当時の龍王どころか今まで出会ったどんな存在よりも…あの黒龍は強かった。最強とは彼女のためにあった言葉なのでしょうね。もし彼女があの戦いに参加していれば結果は変わっていたのかもしれません」
「え…なにせーさんその言い方…母は戦わなかったの…?」
「そうですね。あの人は人龍戦争には参加しませんでした。彼女を知る様々龍が力を貸してほしいと頼み込みましたが、それでもあの人は戦わなかった。そしてさらに深く…人目のつかない場所に身を隠したのです」
「まって…まってよ!それじゃあまるで母が逃げたみたいじゃん!おかしいよせーさん!だって母は強くてかっこよくて、すごくて大きくて…だから逃げるはずなんてない!」
「その通りですイルメア。あなたはあの人を良く理解している。確かにあの人の行動を逃げたと糾弾する龍はいました…ですが彼女はそんな龍じゃない。むしろ…そう、むしろ火種があれば自ら飛び込んで高笑いするようなそんな龍でした。でもあの時彼女は戦わなかった…それは――」
「な、なに…?」
メアはセラフィムの言葉の先をじれったそうに求めたが、それを引き継いで口を開いたのはアザレアだった。
「メアたん…龍の生態って言うのを私はまだ理解できていないけれど、その当時すでに義母様にはあなたがいたのよ。その…卵?を授かっていた後の話なのでしょう?人龍戦争って」
「え?あ…え…?」
「ええその通りです。あの人は卵を…イルメア、アナタを抱えていました。だから戦いには参加せず…いえ、戦いに赴くのではなく、アナタと共にあることを選んだのです。今思えばあの時すでに彼女は己の死期が近いのを悟っていたのでしょうね…殺すよりも愛することを選んだのです。もしあの人が戦っていれば状況は変わっていたかもしれない…でも変わらずに多くのものを失うことになっていたかもしれない。ならばこそ、私は…少なくとも私だけはあの人が逃げただなんて思いません。そうでしょう?」
セラフィムの同意を求める言葉に対し、誰も何も言わなかった。
沈黙の中に込められたのは…無言の肯定だった。
ただ一人、メアだけは呆然とした顔でソファーに座ると顔を覆って俯く。
「姉さん…」
ソードが立ち上がり、手を伸ばそうとしたがセラフィムがそれを手で制し、ゆっくりと首を振った。
「イルメア…いえ、今はメアでしたか。これまでの話を踏まえて一つ提案があります。私たちと共に来る気はありませんか?」