祝福を求めて
この世のどこにあるのか誰も知らない薄暗い闇に満たされたその場所で、フードを目深にかぶった教皇が宙に浮かぶ半透明な鏡の前に座っていた。
「それで?いつまでお前はそっちにいるつもりなんだ?それともそんなに無色領が気に入ったのか?大司教」
鏡には深々と頭を下げている老人…大司教の姿が映っており、半ば同情を覚えてしまいそうになるほど、大司教は小さく丸まっている様子だった。
「は…そ、それが…こちらの教会の者や哀れな民に是非滞在をしてほしいと泣きつかれておりまして…大司教としてもそのような者たちを見捨てるわけにもいかず…その…もう少しだけ滞在させていただければと…」
「お前がそこまで仕事熱心だとは思わなかったよ」
「は、はは…お言葉ですが教皇様…私ほど神やあなた様に忠実な僕は他にいないかと…」
「だといいがな。それで?「宝」の様子はどうだ?」
教皇が宝と口にしたその瞬間、大司教が大げさなほど息を呑み…慌てて咳払いをしてごまかした。
「よ、様子は何も変わりません!依然そのままで…はい…この私めが預かっているので当然ですぞ!」
「そうか、それはよかった。呪骸はどうだ?まさか失くしたりはしていないだろうな?」
「そんなことあるわけがありませんぞ!ワシ…私が教皇様からの授かりものをなくすなど…さすがにあなた様ご本人の言だとしても言い返さずにはいられません!」
「そう興奮するな。年なのだから身体は労われ…。確かに言葉が過ぎたかもしれないな、すまなかった」
「い、いえ…そんな…」
「まぁいいさ。そういう事ならば今しばらくそちらで職務に励んでくれ…ではな」
最後にもう一度、額が地面につくのではないかというほど深くお辞儀をして…鏡が消え失せた。教皇は「ふん」と鼻で息を吐き、立ち上がって薄暗いその場所を数歩進むと、それは聞こえてきた。
「かわいそうにね、あのお爺ちゃん」
それは幼い子供の様でありながら、冷たく無機質で…大人の女性のそれにも聞こえるなんとも形容しがたい声だった。
「…なにがだ」
「くすくす…見てたでしょ?あんなに怯えちゃってさ…かわいそう、かわいそうに。こわーい教皇様が「全部知ってる」とも思わずにね。あははははははは!」
声は笑っていたが…しかし聞こえてくるそれはどこまでも無機質だ。
いや…声だけを聴くのならば間違いなく楽しそうに笑っているのだが、教皇にはそこに感情というものを感じることができなかった。
故に無機質。
「はぁ…それにしてもあそこまで愚かだとは俺も思わなかったがな」
「んふふふふ!というかさぁ、なんであのお爺ちゃんを大司教なんて立場に置いているんだい?どう見ても分不相応じゃないか」
「貴様…」
教皇が何もない暗闇を睨みつけた。
「あれぇ?どうしたの?なんで怒ったのかなぁ~?」
「…あの男を大司教に据えるように言ったのは貴様のはずだ」
「あれぇ?そうだっけ?あぁいや…言われてみればそんな気もするねぇ~…あっはっはっは!そうだそうだ思い出したよ、思い出した。そう言えばそうだったよ」
「ふざけているのか」
「真面目だよぉ~まじめまじめ。いたって真剣だよ。少しど忘れしてただけじゃないか…うん、完全に思い出したぁ。そうそうあのお爺ちゃんさ面白いから大司教にしちゃったんだよね、そういえば」
「面白いだと?」
「うん、面白いでしょ?あんなに高齢でもう老い先も短いのにさ…くっくっく…アンタに隠し事してまで「生」にしがみついてる。いいよねぇああいうの!馬鹿みたいでさ!あははははははは!そうそう!人間はああでなくっちゃ…生きてるんだから生きることに貪欲にならなくちゃね…うふふふふ!」
ガァアアアアアアン!と教皇がローブの下から取り出した剣の柄を地面に叩きつけて笑い声を遮るように大きな音をたてた。
しかし声は教皇を挑発するようにして笑い続け…やがて飽きたのか声はふっと止んだ。
それを待っていたのか教皇は口を開く。
「…それでこれからどうするつもりだ」
「んん?どうするってぇ?」
「この状況はお前の待ち望んでいた状況ではないのか?」
「さぁ…どうだろうねぇ。「あの子」が消えて呪骸が埋め込まれた魔物もあなたの手下以外の何者かに倒された…確かに状況的には待ち望んでたものかもしれないけれどね」
「なにか不満なのか?」
「いや?ただまだ確定じゃないでしょって話よ。此方の待ち望んでいたものが…黒の祝福が本当にきたのか…それともただの偶然なのか。まだまだ分からないからねぇ。「あるはずのない」ものが「もしかしたらあるかもしれない」くらいになった程度だよ」
「確かめに行けばいい。そろそろ貴様も動いてみたらどうだ」
「嫌だよ。違ったら悲しいじゃない。それに…本当に「黒」が現れたのなら此方が動かなくても勝手に運命は回るわ…ただ待っていればいいのよ此方達は。そしてあなたも覚悟をしておきなさい」
カツン…カツン…と小さな足音が暗闇の中に聞こえてくる。
姿は見えないが教皇の傍に…何者かがいるのだ。
「覚悟だと?今さら何を言っている。貴様とこうしている時点でそんなもの――」
「実際に起こるのかもわからない世迷言に乗ってみたのと…実際に起こりうる可能性を突きつけられたのとじゃ心持が変わるでしょう?改めて聞いてあげてるのよ此方は」
教皇は手にしていた剣を闇の中、振りぬいた。
そこに一切の手ごたえは感じられなかったが、その代わりにと小さな笑い声が帰ってくる。
「…それでも俺の答えは変わらない。すべて覚悟の上だ」
「あははははははは!ほーんと面白くない男…死ねばいいのに」
瞬間、周囲に漂っていた闇が無数の冷たい刃に変わったかのように教皇には思えた。
しかしそれには一切臆さず、剣を握り直し…カチャリと小さく金属音がなった。
「…なーんて!うそうそ。死んじゃだめだよ。生きなきゃ…生きて生きて、死んでも生きて。どこまでもあさましく、どこまでも惨めに生き抜いて。死なんて振り切るほどに…うふふふふふ!」
闇の中で遠ざかっていく足音と共に…笑い声も小さくなっていき、やがて何も聞こえない静寂が周囲を満たしたのだった。
分かりにくいかもですが謎の声さんは此方という一人称です。「こなた」ではなく「こちら」です。