直線距離
セラフィム達が牢獄に向かうより少しだけ前。ストガラグは無機質な部屋の中で目を覚ました。
「ここは…?」
頭にはぼんやりと霧がかかりうまく思考が働いていないが、身体はすぐに違和感に気が付いた。
寝慣れていないベッドに見覚えのない天井。鉄臭く…そしてじめついている空気…思考以外のすべてが、五感がその場所は自分の知らない場所だと伝えてくる。
そしてそうなればストガラグの脳もすぐに社会人モードに覚醒し一気に霧が晴れる。
「…そうか…あのまま俺たちは捕まったのか…だとすればここは黒神領か…?いや…」
ゆっくりと身を起こすとギシッと寝かされているベッドが軋み、音をたてる。
古いものなのか、それとも安物なのか…すぐには判断がつかないがどちらにせよ寝心地は悪く、おおよそ客人に宛がう代物ではないだろう。
ならばやはりこの場所は牢屋なのだろうと頭を振りながらストガラグは立ち上がり、改めて周囲を見渡す。
不気味なほど静かで…天井のさらにその上を何かが反響するような音が微かに超えてくる以外は何の音もなく、何の飾りもないどころか塗装すらない…むき出しの鉄の壁に囲まれ、前方だけ格子状の柵になっている…誰がどう見ても牢屋としか言いようのない場所だ。
「身体の拘束自体はされていない…だが後ろ手には縛られているか…些か不用心だと思うがね」
此方を見張っている者がいないかを確認しつつ自由な指で自らの腕を拘束している何かを確かめるようになぞる。
「ふむ…金属でできた…手錠か?この程度ならどうにでもなるが…脱出するとなると難しいか…いや…あの異常な戦力を鑑みるに大人しくしているのが最善か?今優先されるのは生き残ること…か。ならば次だ」
行使の隙間から外を覗いてみるが見張りの類はいないようだ。
ならばと思い切ってストガラグは声をあげた。
「スレン!近くにいるか!いたら返事をしたまえ!」
この部屋に捕らわれていたのはストガラグ一人だけ。
ならば同じようにどこかに捕らえられているはずだと予想したが…。
「う、ううん…ストガラグ…さ…ん…?」
「っ!隣か!」
少しは距離を話されているかと予想していたが、それに反し呻き声はすぐ隣から聞こえてきた。
「…見張りを置かないのならば意思の疎通が取れないようにされていると思っていたのだが…罠を疑っていても仕方がないか…幸運だと信じるしかないな…スレン大丈夫かね?自分がどういう状態なのか説明ができるか?」
「せつめい…?…なにを…あれ…ここはどこだ…?」
「ゆっくりでいい、だが騒ぐな。焦らず冷静に状況を飲み込んで整理するのだ。俺の声が聞こえているだろう?安心しろ上司である俺がいる。だからとにかくパニックにはなるな」
「は…はい…じょうきょう…じょうきょう…アレ…なんか俺…縛られて…っ!!ここは…!なんでこんな!」
「落ち着け大丈夫だ、とにかく焦るな。今周囲には誰もいない。パニックで叫んで呼び寄せるような真似をすれば事態を悪化させる。俺を信じろ、社会人として部下は守ってやる」
「うっ…す、すみません…取り乱しかけました…あの…俺なんか後ろ手に拘束されてるみたいで…部屋には何もなくて…あ、ベッドはあります…トイレも…それ以外は何も…」
しばらくお互いの資格情報を共有し合い、ストガラグはとにかく細かい部分まで何度も何度もスレンに説明をさせた。
それはお互いの置かれている状況の把握という理由の他にゆっくりと、そしてしっかりと口を動かし言葉を紡がせることで乱れた心を落ち着かせるという意味もあった。
その回もありスレンも次第に普段の様子を取り戻し、やがて捉えられている牢屋の状況も把握できた。
「こちらと同じ作りのようだな。であるならば脱出はできる」
「本当ですか!?」
「あぁ…だがそれが最善の選択なのか…少々計りかねている」
「え…なんでですか…?」
「意識が途切れる寸前に俺は投降の意を示した。だが社会人として不甲斐ないばかりだが…それを受け入れられたのかどうかの確認を終えるよりも前に意識を失ってしまった。ここで問題になるのは俺たちがどういう名目で捕らえられているのかという事だ」
「投降を受け入れられて捕虜扱いになっているのか、それとも…侵略者を尋問或いは拷問するために…って言う話ですか…?」
「その通りだ。前者の場合はこの場にとどまるのが最善だ。むしろ脱走などしようものなら不要な不和を生むだろう。だが後者の場合はすぐにでもこの場から逃げる必要がある。それ自体は可能だがどちらを選択すべきかとな」
「なるほど…」
縛られて牢に捕らえられているという現状だけを考えるならば良い方向には考えられない。
だが自分たちに黒神領の人間が見ている肩書は前振りも何もなく現れた侵略者以外の何物でもない。つまり交渉の余地があるのだとしてもやはりこの状態は適切なものだと思える。
だからこそ判断に困るのだ。
「やはり諸々を考えるとこのまま大人しくしておくのが得策か」
「そ、そうなんですか…?」
「おそらくこの場所は地下だ。頭上を何か工事しているような音が僅かに聞こえるだろう?」
「…あぁ本当ですね。カンカンって耳をすませれば聞こえている気がします」
「となれば逃げ道…通路はおそらく一つしかないだろう。あっても非常口がもう一つくらいか。そんな狭い通路に俺たちが戦ったリムシラと同等の戦力が配置されていればすぐには逃げられず、応援を呼ばれてしまうだろう。そうすればひたすら状況は悪くなる…。脱走を選択するのなら開けた場所まで誰にも会わない…そんな幸運にかけるしかない。社会人として危険だと分かっている橋をおいそれと渡る選択をすることはできない」
「で、でも…もし俺たちを拷問するつもりならこのまま待ってる方が悪くなりませんか…?」
「そうなれば力づくで逃げるしかないだろう。それならばどっちにしろ…などとは考えるなよ。先の戦いで思い知ったようにある程度の準備をしていても負けたのだ…こんな状態で正面から戦えるはずがないからな」
二人の間を沈黙が流れる。
全くと言っていいほど他の気配がない牢の中…二人とも黙ってしまえばすぐに不気味な静寂が襲い掛かる。
唯一頭の上に工事をしているような音が反響しているが、その音は慰めになるどころか心臓の動きを急かされているかのようにさえ感じさせ、焦りを積もらせてくる。
じんわりとゆっくり…そして確実に足元から染みわたってくるような感情。
これこそが恐怖というそれなのだろう。
ストガラグでさえ微かだがそれを感じているのだ…スレンはその何倍もの恐怖に襲われているだろう。
ならば社会人として、上司として部下を安心させなくてはならない。
「すぅ…ふぅ…」
一度だけ小さく深呼吸をし、ストガラグは縛られている両腕から力を抜く。
そして次の行動を起こそうとした時、隣の牢からバタンと大きな音が聞こえてきた。
「っ…どうしたスレン!なにかあったのか!」
「い、いえ…なんでも…そういえばストガラグさん、どうして今日は呼び捨てなんですか?あぁいややめてくださいって話じゃないですよ。ただいつもはスレン特務執行官って他人行儀な呼び方だったので珍しくて…」
「ここは敵地のど真ん中だ。わざわざお互いの身分を吹聴して回るのは問題にしかならないだろう。キミも気を付けたまえ…もっとも何か聞かれたのならキミの方は全て「何も知らない」「上司である俺に命令された」で押し通すんだ。わかったな」
「…」
スレンは了承を返さなかった。
そして会話している間にも牢からは暴れているような音が聞こえてくるのだ。
「スレン…本当に何をやっている。大人しくしているんだ」
「いや…どこにも…どこにもないんですよ」
「ない?まさか何かを探しているのか?」
「そう、です…あれが…あれさえあれば…」
「何を言っている?あれ?何を探しているというんだ」
「そんなの…【呪骸】に決まってるじゃないですか!あれが…あれさえあれば…!」
息を呑むとはまさにこのことなのだろう。
ストガラグは言葉を詰まらせ、数舜の間だけ呼吸さえ忘れてしまった。
そう…彼は忘れてしまっていたのだ。
リムシラとウサタンクとの戦いの際にスレンは呪骸に触れ、それを使ってしまった。
幸いにも彼は呪骸に侵食はされなかったが…別の形で問題は現れていた。
「…呪骸など回収されているだろう。もしくは触れられずその場に残されているか…」
「じゃあ早く戻らないと!やっぱり脱出しましょうストガラグさん!」
「落ち着け…確かに呪骸を失うのは痛手だが取りに行っても──」
「あの力があれば!黒神領の人間なんてみんなやっけられます!俺にはわかる…あれはすごい力だったんです!あれさえ…あれさえあれば…」
「…」
スレンは確かに逆適合を起こさなかった。だが…彼はとりつかれていた。
呪骸を手にしたものだけに伝わる圧倒的で強大な力。【死】から零れ落ちた権能…それを腕を振るうだけで行使することのできるという事実からくる高揚に万能感。
力を得たことで肥大化した傲慢の感情と力に対する執着。
絶対的な力を手にしたからこそ、それを振るいたくて仕方がないと思い、そして失うことを恐れる。
まさに呪いだ。
「呪骸…俺の…どこに…!あれがあれば…あれがないと…あれさえあれば…!」
「落ち着けスレン!ないものに頼っても仕方がないだろう!現実を見るのだ!」
「…そうだストガラグさん。あなた呪骸持ってますよね!?」
「持っていない。俺が使っていた物も回収されている」
「いいえあなたは持ってます!だってあなたはストガラグさんだから…あなたは社会人としていつも何重にも備えをしている…今回だってそのはずだ。だからこの場所から脱出しようと思えばできるなんて言ってたんでしょ!?ねぇ!ストガラグさん!」
実のところスレンの言葉は当たっていた。
社会人たるものいつだって全力で確実に仕事に取り組まなければならないが、失敗した時の備えも同時にしておかなければならない。
その備えという名の最終手段がストガラグには残っていた。
だがそれをストガラグは伝えるつもりはない。
「持っていないと言っているだろう。仮に持っていたとしても俺は二度とキミに呪骸を使わせるつもりはない」
「どうしてですか!俺はあの力を使える…完璧に!俺がアレを持てばもうどこにも敵なんて…!」
「今一度自分を顧みろ。力に思考を左右されるな。力に使われるな。我々は理性を持つ人間なのだ。巨大な爪と牙を振り回す獣ではないのだから。自分の心を、意志を、信念を忘れるな。俺は何度も言っているはずだ…我々社会人は社会という大きな仕組みの歯車でなければならないが、物言わぬ歯車であってはいけないのだ。己の意志で回転し、周囲を動かす歯車でなければならないのだと。それが社会人だ」
「そんなわけのわからない話は今はどうだっていいじゃないですか!今は呪骸が…!」
ここが牢であることも忘れ、言葉に感情という熱が乗る。
この若く青く…そしてだからこそ死に取り込まれようとしている部下を上司として止めなければと次に投げかけるべき言葉を考える。
だがその思考を頭上の「カンカン」という音が邪魔をする。
先ほどよりも大きく聞こえるそれはもはや騒音のようにさえ感じられて…。
「いや…まて…この音…段々とこちらに近づいている…?っ!!上だ!スレン!上に気を付けるのだ!」
「は…?上って…」
ストガラグとスレンが各々の牢の中で上を見上げたその時だった。
カンッ!と一際甲高い音が反響したかと思うとスレンの牢の天井の一部が崩れて落ちたのだ。
「う、うわぁあああああああ!?」
「どうした!何があったのだスレン!」
「て、天井が抜けて…!え、あ…?だ、誰…?」
「だれ…だと…?誰かそこにいるのか!無事なのかスレン!答えろスレン!」
ストガラグが呼びかけた先…そこから帰ってきたのはスレンの声ではなかった。
「あれ?こっちじゃない?」
それは女性の…いや、幼い少女のような声色でスレンのそれとは似ても似つかない。
明らかに自分たちではない第三者が…現れた。
「っ!スレン!少し待て!すぐに行く!」
ストガラグはその場にしゃがみ込み、縛られた腕を伸ばすと足で跨ぐように通してぐるりと縛られたままで身体の前に回して見せた。
そしてその腕で鉄の格子に触れようとしたその瞬間…スレンの捉えられていた牢のある方向の壁が吹き飛び…巨大な穴が空いた。
「なっ…」
ストガラグはまだ何もしていない。
何もしていないのに…勝手に壁の方が吹き飛んだのだ。
そしてその穴からひょっこりと顔をのぞかせたのは…長く伸ばした黒髪が印象的な幼い少女だった。
「お、今度は正解~」
「子供がなぜ…こんな場所に…そもそもどうやって…」
「んん?どうやって?上から穴を掘ってきましたけども。やっぱりほら、まっすぐ進むのが一番速いから」
「…」
さすがのストガラグでの社会人の頭脳を持ってしても意味不明すぎる状況だ。
幼女が穴を掘って天井を突き破り、さらにはそこから壁を吹き飛ばしてこちらにやってきたというのだ。すんなりと飲み込めというほうがおかしいだろう。
そもそもこの幼女は誰なのか…そんな思考が頭の中でぐるぐると渦巻く。
「いや…まて…その顔…黒髪…どこかで…」
そしてようやく繋がった。
ストガラグはその姿を一度目撃したことがある。
「銀神領で逆適合を起こした銀龍を制圧した子供…!」
「う?」
まさかの出会いにストガラグの脳内はさらに混乱を極めるのだった。




