言葉の魔法
「なんすかそれ…」
ボソリと呟いて、くもたろうがふらりと立ち上がる。
その瞳は暗く、そして鋭く細められてネムに向けられており、不穏な空気を感じたのかニョロが引き留めるようにくもたろうのスカートの裾に噛みつく。
視線を向けられているネムは逆にくもたろうと目を合わせようとはせずに、明後日の方向を向いたままどこにも視線を合わせない。
「なにが…かな」
「なにがじゃねぇっすよ。お前…あの時ウチらがどんだけ心配したと思ってんすか!急にいなくなって…人間たちが攻めてきたときも知らないところで殺されたんじゃないかって…なのに!」
ニョロを振り切り、くもたろうがネムに掴みかかる。
まだ片付けられていなかった鍋の道具やテーブルがその拍子に倒れかけたが、メアが全て受け止めたおかげで事なきを得た。
しかしくもたろうとネムの間に流れる空気は今にも崩れて崩壊してしまいそうなほどに張りつめている。
「…それは悪かったと思ってるよ」
「思ってたってしょうがないでっしょ!ほんとうにどれだけ…なのに誰にも言わずにお嬢様の仇を追ってた!?ふざけんのもたいがいにしろっす!なんで…なんでうちらにも何も言わずになんてそんなことを!」
「だから…言ったらくもたろうくん達もついてくるって言うかもでしょ」
「あぁもちろん言ったすよ!当り前じゃないっすか!それの何が問題なんすか!言ってみろ!」
「巻き込みたくなかったから。家族が死ぬのを…もう見たくなかった」
「うちらが付いて行ったら死んでただろうから置いていったって言ってんすか?」
「…そう聞こえたのならそうなんじゃないかな。そっちが心配してたって言うのなら…私だって心配してたんだよ」
「この…!!」
くもたろうの服の背中が破れ、黒く大きな節足が一本飛び出してネムに向かって行く。
人の形をとっていようとくもたろうの本質は蜘蛛型の魔物だ。
頭に血が上り、咄嗟の衝動に身を任せるとどうしても本来の身体が飛び出して動いてしまう。
そして視線を合わせていなかったとしても、ネムにはその一連の動きが完全に見えており後追いにもかかわらず、ほとんど同じタイミングで手刀を繰り出した。
お互いに冷静ではない感情に任せた口喧嘩の末の暴力。
その行動の勝敗は…。
「ぶみゅ」
間に挟まってきたメアの頬が両サイドから潰されるという結果に終わった。
「お嬢様!?」
「メア様!?」
蜘蛛の脚と手刀…それらが深々と突き刺さっているように見えるが子供特有のまんまるとした頬はそれらを優しく受け止め、深々と沈み込ませており二人の触覚に心地よい柔らかさを伝えてくる。
だがいつまでもそうしているわけにはいかないのですぐに離れ、メアの頬を解放したのだった。
「ほぉ~ちょっと痛かったかもちれない」
「だだだだ大丈夫でっすか!?お嬢様!」
「ご、ごめんなさいメア様!周りが見えてなくて…!」
先ほどまでの雰囲気はどこへやら、慌ててぺこぺこと両サイドから下げられまくる二つの頭にメアは優しく手を添える。
「まぁまぁおちつきたまえ。私のほっぺたは強いから大丈夫。アザレアがことあるごとにプニプニしてくるからね。指で100回くらい連打してきたり火が出そうになるくらい頬同士でこすり合わせてきたりで鍛えられてるんだよ」
「「…」」
一瞬だけ二人の殺意が別の方向に飛んで行ったが「だからおちつきなさいってー」とメアが抑え込む。
「いいこいいこ。あのね私は喧嘩は実は推奨派だけどね、今回は二人がそれをするのはちょっと違うかなって思うから止めちゃった。ごめんね」
「いえ…こちらこそ…頭に血が昇っちまってたっす…」
「ごめんなさい…」
「うんうん、でもね今回謝らないといけないのは…」
ばっ!とメアが突如としてその場で天井に届きそうなほど高く跳びあがり────両手と頭を下にして床に墜落した。
その姿は殻にこもった小動物のようであったが、それはまさに土下座だった。
彼女の母の記憶にある最大級の謝罪のポーズだ。
「お、お嬢様…?なにを…」
「あ、あの!よくわかりませんけど頭をあげてください!メア様!」
「いやですん!」
「「かたくな!」」
くもたろうとネムが両サイドから無理やり頭をあげさせようとするも、まるでその形に削り出された金剛石かの如くメアはびくともしなかった。
「…今回の件はね、全部私がダメだったと思うんだよ。だからごめんなさい。もう少し…私は私以外の事を考えるべきだった」
「いや!そんなことはないっす!」
「そうです!メア様が悪い事なんてなにも!そもそもあんなことになるなんて誰にも想像なんてできなかったじゃないですか!」
「でも実際に起こったよ。私は…みんなの上に立つドラゴンとしてそういう事態も考えてないといけなかったんだって思う。現にこの場所のボスだったアザレアはいつもいろんなことを考えてた。せーさんもそう。私は…自覚が無かったんだと思う。だからとても反省。すごくごめんなさい」
「お嬢様…」
半ば床を貫通していた顔をあげメアはネムとくもたろうのてを取る。
「だから二人が喧嘩をする必要なんてないんだよ。私がごめんなさいってだけ…だから仲直りしてくれる?せっかくまたこうして会えたんだもん…楽しくしたいよ」
「…それもそうっすね。ごめんっすネム。なんか…うちは頼ってもらえなかったことが…なんつーか悔しくて…癇癪ったっす。大人気がなかったすよね」
「ううん、こっちこそ…結局私のとった行動なんてほとんどが間違ってたんだと今になって思うし…あの時は馬鹿だったって思うもん。だからごめん」
お互いに謝り合い、気恥ずかしげに笑いあう。
それを見ていたニョロも嬉しそうに喉を鳴らし、破裂しそうだった空気は完全に霧散、喧嘩はおわった。
「あ、ねぇねぇネムちゃんネムちゃん」
「はい?なんですかメア様」
「何か悩み事があるのかい?」
「え…」
「なんだかずっとしょぼしょぼしてるような気がしたから。どうかしたのん?」
「いえ…ただ…私はこれからやったことの責任を取らないといけないので…それで…」
これでお別れなんです。
その一言をネムはどうしても口にすることができなかった。
このままではまた…誰にも告げず消えることになる。それはとても心苦しく、避けたかったけれどどうしても伝えることができない。
そうして無意識に下を向いてしまう頭をメアが小さな胸にそっと抱きしめた。
「大丈夫だよ大丈夫」
「…」
「あのね、何がそんなに悲しいか私にはわからないけど…でも大丈夫だよ」
「大丈夫…」
メアはその言葉を口にするときほとんど理由を話さない。
ただ大丈夫だと伝えるだけ。
根拠もなければ確信もない…ある意味で最大級に無責任なその言葉だが、不思議とこの人が言うのなら大丈夫なのかと思わされる。
「うん、なんとかなるしなんとかするよ。私にとって母はどうあっても母であるように、私にとってネムは何があっても大切な子供みたいな存在だから…だから大丈夫。私がいるよ」
「…はい」
ネムは母の温もりなど与えられた経験は一切ない。
物心ついた時にはそのような分類に位置される人間は存在しなかったのだから。
でも…それでも今この瞬間、顔に感じるこの小さなぬくもりが、この暖かさが…母のそれなのかもしれないと甘えるようにすりついた。
「いい子いい子。今日まで頑張ったね、偉いね。もう大丈夫だからね」
「…うん…おかあ…さん…」
よしよしと甘えてくるネムを撫で続け、そんな様子をくもたろうとニョロが生暖かい目で見守る。
そんな家族の団欒がそこに確かにあったのだった。
「グギギギギギギギギギギギイィィィィィィッィィイイあの小娘ぇぇ…!!おぎゃりの気配を感じてきてみれば…よくも私のぷにぷにママを…!!!!」
窓の外から覗く邪悪なオーラを纏う眼鏡をした怪異を除いて。




