閑話 目的
「おい!お前いったい何のつもりなんだ!!」
荒々しく扉が開け放たれ、一人で書類の処理をしていたアザレアがため息をつきながらめんどくさそうにペンを置いた。
そんな彼女に怒鳴り声をあげながら鼻息荒くウツギが近づいていき、力に任せて机を殴りつけたがアザレアはしらけたような表情でそれを見つめる。
「なにかしら。いくら義理の兄とはいえ私はこの家の当主よ?仕事中くらい最低限の礼節は弁えてもらえないかしら?それともそんなこともできないくらい頭が腐り落ちたのかしら」
「うるせぇ!そんなこと言ってる場合かよ!そもそも腐った真似してんのはお前の方だろうが!黒髪のガキの次は何を拾ってきたんだ!おかしいだろあんなの…!!」
「あぁそのこと」
アザレアは何でもないことかのように興味なさげな反応を返した。
それを受けたウツギはさらに表情に怒りを滲ませ、再び机を殴りつける。
数日前アザレアはメアと共に一人の少女を無色領から連れて帰っていた。
ノロ…そう呼ばれることになった赤い少女を。
しばらく家出をしていたために、今日になってようやくそのことを知ったウツギは一目散にアザレアのもとに向かい、今こうして問い詰めようとしていたのだった。
「そのことって…あの女は一体何なんだ!あんな…あんな…!!」
「グダグダ情けない声出さないでようざったい。怪我をしている女の子を保護した…それ以上の何でもないでしょう?」
「怪我?怪我だと?あんなのが怪我のわけないだろうが!あんな状態でまともな人間が生きていられるわけねぇだろうが!何を連れて帰ってきたんだって聞いてんだよ!」
「実際生きてるんだからあり得てるのよ。見たものを信じなさいな。名前はノロ…それ以上のことは何もわからない。ハイ終わり」
ガンッ!と再びウツギはテーブルを殴りつけた。
インクの納められていた瓶が倒れ、机の上を黒く染めていく。
「ふざけるなよ…そんなんで納得ができるか!しかもよその領から連れてきただなんて何がしたいんだよお前!こんなことがバレちまったらただでさえ他所から爪弾きにされてるウチがさらに孤立しちまうだろうが!そうなったら何もかも終わるんだぞ!?この家が無くなってもいいのかよ!」
「いいわよ?むしろアンタ、私がこの家を守ろうとしているとでも本気で思ってるの?」
「…っ!」
黒い…一寸の光すら見えない底のない穴のような瞳を向けられてウツギが数歩後ずさる。
何の感情も見えない瞳をアザレアは眼鏡のレンズの奥に隠した。
「私はね幼いころに無理やりこの家に連れてこられたの。アンタの伴侶になってこの家に尽くすためにね。その結果…たった一人の妹を失って…いいえ、それだけじゃない。私は何もかもを失くした。そんな家を守ろうとしているって本気で思うの?」
「て、てめぇは当主だろうが!それなら家のために尽くすのは当然で…」
「違うわね。当主だからこそこの家の行く末を好き勝手にできるのよ。家のために当主がいるんじゃない。当主のために家があるの。だから私はアンタの父親を殺してこの座を奪ったのよ。文句があるなら同じように私を殺せばいいのよ。そうすればアンタが当主よ?お金だって使いたい放題で好きにできるわ。まぁできないか。しょせんは金をせびるだけの小悪党だものねアンタ。間違っても人を殺す勇気なんてわかないでしょう?」
「っぐ…!話をすり替えんじゃねぇ!今はあの妙な女の話で…!!」
「当主がどうこう言いだしたのはアンタでしょうに。ほんと馬鹿ね。まぁいいわ…ノロを見たのならわかるでしょう?あの子は確かに異常よ。人として異常でない部分を探すのが難しいほどに…連れて帰ってきてから時間が経ったけれど、あの子まだ一度も食事をしていないの。なんでかわかる?」
分かるわけがないとウツギは黙り込む。
「…あの子…目に見える部分以外にも「足りていない」のよ。私は医者じゃないから正確なことは分からないけれど…お腹を目視して触っても見た感じ…内臓もほとんど無かった。胃や腸は確実にないと思う…だから食事ができないのよ」
「は、はぁ…?な、何を言ってんだよ…そんなわけ…ねぇだろ…?そんなんでどうやって生きてるって言うんだよ!?」
「だから何もわからないって言ったでしょ。そうだ、あんた知り合いに医者とかいないの?わけのわからないチンピラ連中とつるんでるんだから闇医者の一人くらい捕まえてきなさいよ」
「そんな奴いるわけないだろうが!てかマジで人間じゃねぇって事じゃねぇか!ありえねぇ!そんなんだから人に出ていかれるんだろ!?あの黒髪のガキを連れて帰ってきてから使用人もほとんどみんな怖がって出て行っちまった!わずかに残っていたやつらも、あの妙な女を見て今度こそいなくなった…教会のシスターや信徒もだ!どうするんだよ!!どうするつもりなんだよ!これから!!主治医もそれでいなくなっちまって…なぁおい!どうしたいんだよ!!」
ウツギの言葉通り、アザレアがメアを拾ったあの日から彼女たちの屋敷からただでさえ少なかった使用人たちが去って行った。
完全な黒髪という悍ましいものと一緒に生活をすることはできないと…。
だが彼女たちが住むその場所は黒神領…この世界のどこにも居場所がない者たちが最後に行き着く世の掃き溜めとまで言われる場所だ。
屋敷を逃げ出しては生活の当てがないというほど追い詰められた一握りの者たちは残っていた。
だがそんな者たちも…次にアザレアが連れて帰ったノロを見て逃げ出してしまった。
どこにも逃げ場所がなくとも…ここにはいられないと。
そしてアザレアが当主を務める家にはもう一つの顔があった。
それは黒神領での教会としての役割も兼任しているという事だ。
この世の掃き溜めに教会を建てる余裕などなく、赤神領にいる大司教も黒神領に教会を建てることはしなかった。
故に黒神領を統治しているエナノワール家が教会も兼任することで対応していたのだが…そこに努めていたシスターや、自らの境遇を呪い、神に縋ろうとしていた信徒たちもいなくなってしまった。
もはや名家としても教会としてもエナノワールは機能していないといってもいいほどにまでなっていた。
「いいじゃない。そもそも大きいといっても黒神領ではって前提が付くくらいの物よ?私一人でも十分回せるし、人手が欲しければそこらへんでたむろしている人を捕まえればいいだけでしょう。そもそも私はね?この家に勤めてるやつらも全員嫌いだったのよ。殺したいくらいに」
「は、はぁ…?おまえ…何を言って…」
「だってそうでしょ?自分たちだって追いやられてここにきてるくせに、ちょっと大きな家に運よく拾われたからって誰も彼もがやれ黒髪がどうのって…馬鹿馬鹿しいとは思わない?自分たちだって「黒」って世間では言われて、追いやられる惨めさも、辛さも悲しさも知っているはずなのに…メアたんを見て悍ましいとか気持ち悪いとか口にするのよ?自分より下を見つけて嬉々として悪意を叩きつけ出したのよ?そっちの方が悍ましいわ」
「んなこといったって…仕方ねぇだろ!?」
仕方がない…ウツギが口にしたその言葉をアザレアは言葉にせず口の中で転がして…鼻で笑った。
そう…世間で見ておかしいのはどちらかと一般人100人に問えば100人がアザレアがおかしいと答えるだろう。
異端なのはアザレアなのだ。
だが…それでも彼女の最愛の妹は黒髪だった。
だからアザレアだけはそれを否定することはできない。
しかしその妹を失い、長い時間…狂った環境で熟成され続けたその想いは…やがて真っ黒な悪意へと変わってしまった。
「あはっ…ねぇウツギ。ノロを見てどう思った?異様な姿に驚く前に髪が真っ赤ですごいって思ったでしょう?」
「あ…?そりゃあ…そうだが…」
「そう赤いのよあの子は。私たちとは大違い…世界で尊いと貴ばれ…誰からも羨ましがられて崇められる純粋な赤をもつ女の子…それが無色領の何もない薄暗い小屋の中で鎖で吊るされていたのよ?それに全身が傷だらけ…腕も足も最初から無いのではなくて、明らかに人為的に切断された跡があった。内臓だっておそらくそうよ。お腹に縫い痕があったもの」
「…」
「守られ保護され崇められるはずの存在が…この世で最も尊いはずの存在がそんな仕打ちを受けていた…ねえわかるかしら?ノロはね存在自体が「おかしい」のよ。あの子は間違いなく教会という組織が隠している何かを暴くカギになる…それを暴けたらとても面白いことになるとは思わない?」
ニッコリとアザレアが普段は見せない満面の笑みをウツギに向けた。
アザレアは控えめに言って一般的に見ても美しいといえる容姿をしていた。
ややタレ気味でもあるが、鋭さも同居する瞳にかけられた眼鏡が知的さを演出し、聡明な美人という印象を持たせる。
そんな美人が屈託のない笑顔を浮かべているというのに、ウツギはそこに恐怖以外の感情を覚えることができなかった。
狂気に彩られ…だからこそ純粋なその笑顔が…ただただ恐ろしかった。
「そ、そんなもんが本当にあるとして…暴いてどうなるって言うんだよ…」
「さぁ?それはやってみないとわからないわ。でももしかしたら今までの価値観が全てひっくり返る…なんてこともあるかもしれないわ。そうすれば私から大切なものを奪った世界に、くだらない選民思考に捕らわれた馬鹿たちに対してこれ以上のない復讐を果たすことができる!黒髪の子供たちが受けた仕打ちを…そのまま返してあげてもいいかもしれないわね?うふふふふふ!…なーんてね」
笑顔を消してアザレアは机の上の零れたインクの掃除を始めた。
そして今までのはすべて冗談よ?とそれまでの雰囲気を一変させる。
そのレンズの奥の瞳を…ウツギは直視することはできなかった。
ただその場から逃げ出したくて…一歩…また一歩と後ずさる。
「あぁ…一応言っておくけれど無色領や、別のところに密告なんて真似はやめた方がいいわ。すればアンタの大好きなお金は少しくらい貰えるかもだけど…でもアンタだって無事にはすまないわよ?共犯として確実に粛清されるわ。それにこの家もなくなる…そうなるのは嫌なんでしょう?」
「…っ!…い、いってろ!イカレ女が!」
そう言い残してウツギが走り去り、一人残されたアザレアは椅子に座って天を仰いだ。
「イカレ女、か…。言われなくてもわかってるわよ…自分がおかしくなってることくらい。だけど…ねぇ…間違っているのは本当に私なのかしら?…はぁ…メアたんに会いに行きたい…あのポンポコリンなお腹に顔を埋めたい…」
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エナノワールの屋敷から逃げ出したウツギはしばらく走ったのちに潰れてしまった酒場の扉を開き、中に入った。
その途端にウツギはガラの悪い男たちに囲まれ、そのうちの一人がウツギの肩にガッ!と手を置く。
「あ、アニキ!金は…金はどうでした!?」
男はウツギを兄貴呼び、何よりも先に金の話を始めたがウツギはゆっくりと首を横に振った。
「なんつーか…そんな話どころじゃなくてよ…一応出てくる前に金目の物だけでもって思ったんだが…それも無理だった。あいつ…家の財産が置いてある部屋に頑丈なカギを付けてやがって…」
「そ、そうですか…じゃあ金はねぇんですね…」
ガラの悪い男たちの間に重たい空気が広がった。
そんな場を何とかしようとウツギは慌てたように取り繕う。
「わ、悪い!でも何とかすっから!なんたって俺様はエナノワールだぜ!?金なんていくらでも…!」
それが虚勢だという事はウツギ本人が何よりもよくわかっていた。
個人の財産などとっくに使い果たしており、アザレアが当主に収まってからは家の金を一切自由にすることができなくなった。
そこからは苦肉の策で家から金を盗み出していたが、当初は少しだけ大目に見てくれていたアザレアだったが、前回の騒動での言葉通りにウツギに対して家の金品に一茶触れることができないように対策を施してしまい…もはやウツギ個人が家から持ち出せる金は存在しないといってもよかった。
また男たちもそんな空気を察してか何も言葉を発さず、ただ痛々しくウツギが吠え続けるだけの場が出来上がってしまい、どうすることもできなくなっていた。
やがてウツギの勢いも弱まり…冷めきった空気が酒場に充満しかけた時、ゆっくりと何者かが酒場の扉を開いた。
「もし、どなたかいらっしゃいますかな?」
それは一言で表すのなら怪しい中年男性だった。
老人…というほどではないが顔には皴が浮かんでおり、そこそこの年齢を重ねているように見えた。
腰はやや折れ曲がり、猫背となっていて元々は白かったであろう変色したボロボロの白衣を身にまといっている。
そしてくすんだ銀髪を目元まで垂らし、その顔には怪しげな笑みを浮かべている。
どう見てもまともな人間ではない。
それがウツギが男に抱いた第一印象だった。
「だ、誰だアンタ」
「ひっひ!この私が何者か…それを語るには少々余裕がないので今は割愛させていただきたい。もしよければ少し頼みを聞いてはいただけないでしょうかねぇ」
「素性も話さないやつの頼みを聞けだと?舐められたもんだな。オイ」
ウツギが腕を振るとガラの悪い男たちが怪しい中年を取り囲む。
その手には鉄の棒や、ナイフなどの狂気が握られており、中年を威嚇するかのように時折音をたてる。
「おやおや…そんなつもりはないのですが…先ほども言った通り、私自身のことを話すのに余裕がないのです。なので私の頼みと言うのはその余裕を作っていただきたいという事でして…ひっひ!」
「わかるように言えや。それとも…痛い目にあいたいのか?それが嫌ならとっとと帰るんだな」
「そう言うわけにはいかなくてですねぇ…こちらにも事情がありましてねぇ…ひっひ!いえ実は外からあなたたちの話声が聞こえていたのですが…お金に困っているとか?どうでしょうここはひとつ…私があなたたちを支援するというのは」
男が懐から小さな袋を取り出し…地面に落とした。
口の開いていた袋からは金色の硬貨が零れだし、地面に散らばる。
周囲の男たちも呆気に取られ動きを止める。
「なっ…!あんた…いったい…」
「ひっひ!お望みならもう少し出すことも可能ですよぉ?ただその対価をいただきたいのです…えぇ」
男が懐からもう一つ袋を取り出し、ウツギに見せつけるように揺らして見せる。
「…何が目的だ。言っておくが舐めたことを要求しようってんならアンタを痛めつけてその金を奪うこともできるんだからな」
「それは困りますねぇ…しかしやめておいた方がいい。その方があなた方にとっても得だ。なぜなら私はこの場に財産のすべて持ってきているわけではないからです…要求を呑んでくれるのなら私はこれ以上の金を用意できるという事ですよ、ひっひ!私をここで殺せば楽かもしれませんが…長い目で見れば生かしたほうが得だ…そうではないですかぁ?」
「目的はなんだって聞いているだろうが!!」
「おおっとこれは失礼…ひっひ。いやぁなに、実は私は訳あってこの土地に少しばかり滞在しようと思っている放浪者なのですが…いかんせんどれだけ探そうとも宿等がなく…困っていたところでしてねぇ…見ての通り少しばかりお金はあるので、それを対価に民家にでも泊めてもらおうと思ったのですが…この土地ではお金はあまり価値がないようだ」
黒神領は世界から見捨てられた地だ。
それゆえに他の領との交易などはほとんど行われておらず、生産性も高いとは言えない。
故に金を持っていたとしても領内ではほとんど意味をなさず…食料や日用品のほうが価値があるくらいだった。
「それが分かっても私には人に喜ばれるような物品はなく…困っていたところにあなた方の声が聞こえてきたというわけです、えぇ…ひっひ!何に必要なのかわかりませんがあなたたちにはお金はお金としての価値があるようですし…どこか泊まれる場所を、できればしばらく腰を落ち着けられる場所を提供していただきたいのですよ…ひっひ!」
「それだけか…?ほかに要求することは何もないと?」
「ええそれだけです。できればさらに生活の保障もしていただけると助かりますが…ひとまずは寝泊りできればそれで構いませんよ、えぇ…」
ガラの悪い男たちがウツギに目配せをして指示を仰ぐ。
どう考えても怪しいが目に前に転がされている大量の金をウツギはどうしても手に入れたかった。
さらに男の面倒を見ればこれ以上の金を用意できるという…断るという選択肢はなかった。
「…用意する宿はどこでもいいのか?」
「えぇひとまずは…いずれ可能ならもう少し要求を通したいと思いますが今は寝れるだけで十分ですねぇ…ひっひ!最低限宿としての体裁が整えてあるのならそれで…ひっひ!」
ウツギは少しばかり考え込み…とあることを思いだした。
「アンタ白衣を着ているようだが…もしかして医者か?」
「いえどちらかと言えば研究者ですねぇ…とあることについて調べている最中でして、えぇ…ひっひ!ただそちら方面に対しても全くの専門外という事でもないので医者が必要なら少しばかりはお力になれるかと…ひっひ!」
「そうか。ならこの領内で用意できる最高の宿を用意してやる…その代わり俺たちからも「二点」ほど要求させてもらうがいいな」
「えぇえぇ無茶なものでなければ…ひっひ!ただし私たちは金銭のやり取りという前提での交渉の最中です…そちらからの金銭的以外の要求…となれば少しばかり考えなければいけないことが増えるかもしれませんねぇ…ひっひ!」
「あぁそれで構わない…お前らもいいな」
ウツギの言葉にガラの悪い男たちが頷き…武器を納めた。
「なら話そうじゃねぇか…まぁまずは座れや」
「ええそれでは失礼しますよ…ひっひ!」
その数時間後…ウツギはエナノワールの屋敷に中年の男を連れ込んだのだった。