喪失のアザレア2
黒神領───そこは世から隔絶された国であり、否…数年前までは文化どころか国としての形も最低限しか維持されていないような場所であったが、現在では大幅に環境が改善され、国民にも余裕が生まれ、その結果としてようやく黒神領にも独自の文化というものが発展していった。
その最たるものが国民のほぼ全員が参加している独自の宗教だ。
世界の常識としてすべての民は住まう国を管轄し、治めている教会に属するのだが、黒神領には教会は存在せず、教会に所属している者もソード等の例外を除いて住んではいない。
ならば彼らは何を崇め、信仰しているのだろうか?それは語らずともその宗教の名を知れば理解できるだろう。
メア様教。
それが黒神領の民たちが入信している宗教だ。
今となっては誰が始めて、誰が名付けたのか知る由もない。
少なくともその名を冠されている本人に許可は取られておらず、言ってしまえば完全非認可どころかよく理解すらされていないありさまだ。
それにつけこんでいる…と指摘されれば誰もが目を反らすであろうが、同時に黒神領で公認されている宗教でもある。
その理由は黒神領の事実上の統治者であるエナノワール当主が全面的な協力をしているからだ。
本人には認可されていないが、国のトップが黙認どころか最前線を爆走している…そんな理解が難しい状態にある宗教ではあるが、教徒たちはそんな状況に対して特に思うところはなかった。
メアが現れてからというものの黒神領はまさに波乱万丈…見たこともないモンスターの襲撃や、なにやらよくわからない敵の襲来。
次々と巻き起こる非常識的な現象の数々。
もはやメア様教の教徒たちの精神的強度は巻き起こる嵐にすら微動だにせず、その姿はまさに不動明王が如くだ。
しかしそんな彼らが息を呑んで動揺する事態が現在起こってしまっていた。
教徒たちを取り仕切るリーダーであるシルモグと幹部であるカナリ、そして数人の教徒たちは民家の影に隠れてその光景を見ていた。
それはなんと…外に備え付けられたベンチに腰を掛けて涙を拭っているアザレアの姿だった。
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黒神領においてアザレア・エナノワールの名を知らぬ者はいない。
そしてそれはどちらかと言うと恐怖に近い感情での面で知れ渡っていた。
メアが現れる以前の劣悪な環境の黒神領において不満を集めやすい上流階級の人間だったにもかかわらず、目立った反乱などが起こらなかったのは、それが全てではないがアザレアという人間が国を治めていたからと言うのも理由の一つだ。
黒神領にあって毅然とし、自ら国民に関わることはなかったが、ひとたび敵対すればその根っこごと踏みつぶされる。
多くを求めることはなかったが、逆に求めることも許されず…ある意味において暴君ともとれた苛烈にして寡黙な女王…それが国民が持つアザレアの印章だった。
それはメア様教が生まれた現在でも変わらず、多少は距離が縮まって溝が浅くなったとはいえイメージ自体は変わっていなかった。
そんな彼女が今…それまであった顔の険しさを取り去り、普通の…いや、儚げな乙女の様に一人涙をこぼしているのだ。
それまでを知っている者たちからすると、驚かないほうが嘘である。
「あ、あの…大丈夫ですか…?」
意を決した様子でメア様教のローブを羽織り、黒く小さなうさぎを抱いた少女がアザレアに声をかけた。
彼女こそメア様教一番の新人であり、同時に幹部である少女リンカだ。
メア様教はただメアを愛でるだけの宗教団体ではない。
当然それが最も重要な位置を締めてはいるが、どん底にあった黒神領をより良い国にしたいと思う者たちの集まりでもある。
故にいくら恐ろしい当主が相手だとしても、黒神領で一人泣いている者を放置などしないのである。
彼らはアザレアの現在の事情を聞かされており、話し合いの末に似たような境遇に置かれ、かつその親しみやすい性格と容姿からリンカに白羽の矢が立った…という事である。
また彼女はメアの可愛がっているウサギ…うさタンクの世話係であり、それもあり幹部となっているので、もしなにか問題が起こっても後々アザレアから処分は降ることもないだろう…という打算も含まれているのは内緒の話である。
「あなた…ごめんなさい私記憶がないらしくて…お名前を教えてもらっても…?」
慌ててレンズの下の涙をぬぐい、アザレアは赤く腫れた目で取り繕うようにほほ笑む。
その姿からは…やはり今までの気丈さは感じられなかった。
「あ…ごめんなさい、私はリンカって言います。えっと…メア様教の所属で…以前はアザレアさんにもお世話になったんです」
「そうなんですね。もしかして…お友達だったとかですか?」
少し期待するようなその視線に申し訳なさを感じつつ、やんわりと否定したのちに許可を得てから隣に座る。
今度は一転、落ち込んだ少女のような姿を見せるアザレアにリンカも動揺を隠せない…が、それでもリンカはその動揺を飲み込んでアザレアに声をかける。
「泣いていたのが見えましたので…あの…私では力不足かもしれませんが…少しお話をしませんか?」
「え…?」
「えっと…実は私も記憶喪失なんです。それでどうしようもなくて困っていたところをアザレアさんに拾っていただいてここにいるんです」
「まぁ…そうだったんですね…」
「はい。なのでその…気持ちがわかる…なんて言うとおこがましいかもですが、不安な気持ちは分かるつもりです。なので…吐き出せるものならそうしたほうがスッキリするかもしれませんよ」
「…」
その言葉にアザレアは口を開き…声を出す前に閉じるという行動を何度か繰り返し…やがて覚悟を決めたのかようやく声を発した。
「リンカさんは…記憶を失う前の自分をどう…捉えていますか?」
「どう…とは?」
「いえ…その…例えばですが記憶を取り戻したいだとか思ったりしますか?」
「うーん…そうですね…実はそこまで取り戻したいとも思っていないんです」
「そうなんですか?その…以前の自分がどんな人で、どんな交友があっただとか気になったりしないのですか?」
「はい。全く気にならないって言ったらうそになりますし、記憶喪失を自覚してすぐのころは自分が誰なのかもわからなくて不安で仕方がなかったですけど…今はそうでもないですね。皆さん良くしてくれますし、志を同じくする同志…仲間にお友達もできて、ここは居心地がいいですから…あ、あとうさタンクちゃんもいますし」
リンカがその腕に抱いたうさタンクを持ち上げてほほ笑む。
そのモコモコとした風貌に小ささからどう見ても毛玉だが、黒から覗く赤い二つの瞳に、飛び出た耳が辛うじてそれがウサギであると主張しているそれにアザレアは恐る恐ると手を伸ばし、触れる寸前で手を止める。
「う、うさ…?かわいいですね…触っても大丈夫でしょうか?」
「今は大人しいので大丈夫だと思いますよ」
「じゃ、じゃあ少しだけ…」
触るというよりは指先をその小さな頭にのせてモフっと毛の塊の中に沈める。
ふわふわとした感触と、動物特有の温かさが癖になったのか、次はちょっと大胆に頭を撫で始めるが、うさタンクは一切の身動ぎすらせず不動であり、その佇まいは小動物であってまさに騎士のような在り方だ。
「かわいい…」
「でしょう?本当ならメア様が面倒を見ている子なんですけど、今みたいに不在の時は私がお世話をさせていただいているんです」
「メア様…あの…よく名前を聞くのですけどその子って…あぁ…いえ、やっぱりいいです、忘れてください」
「え…!?」
メアの話題に喰いつかない。
普段のアザレアならば絶対にしない言動であるために、記憶を失っているという事を忘れてリンカはついつい声を出してしまった。
「なにか…?」
「あ、ごめんなさい、なんでもないんです」
「そうですか…リンカさんはすごいですね、記憶を失った後にお友達を作れたなんて…私は全然です。そもそも以前の私には…そんな風に言える人たちがいなかったみたいで…どなたも私と仲良くという感じではお話してくれませんし、兄にも振られてしまいました…なんていうか怖がられてるみたいで…以前の私ってどんな人だったんでしょうか…きっといい人ではなかったのですよね」
「それでも悪い人でもなかったと…たぶんですけど思います…よ?」
なんとかフォローをしようとはしたが、リンカもそこまでアザレアと親交があったわけではなく、恩義を感じながらもやはり怖い人であるという印象も強かった。
善人であるのか、悪人であるのか…それすらも断言は難しい。しかし一方的に唾棄される悪人ではない思いたい…それ以上にリンカが言えることはなかった。
恩義はあるが、それ以上は何も知らない…そう言う意味でやはりリンカではアザレアの抱える不安の払拭はできないのだろう。
申し訳ない気持ちから思わず頭を下げ…その行為がさらにアザレアの顔に影を落とした。
気まずい空気が流れる中、不意にうさタンクがリンカの腕から抜け出し、どこかに向かって走り出してしまったのだ。
「あ!待ってうさタンクちゃん!あ、えっと…!」
「行ってあげてください。何かあったら大変ですから」
「も、申し訳ございません!失礼します!」
パタパタと走り去ってしまったその後ろ姿に虚しさを感じ、またアザレアの瞳から涙が零れる。
その涙は…膝の上に置いてあった黒い日記の上にぽたりと落ちた。
「…「申し訳ございません」「失礼します」…やっぱり私には…対等に話をしてくれる人もいなかったのですね…」
孤独。
記憶を失い、自身が誰かもわからない中で親しい友人もおらず、こちらから話しかけても委縮させるばかり…ようやく向こうから話しかけてくれる人がいたかと思えば対等な立場の者ではなかったらしく、終始こちらに気を使っていて…その中にはやはり畏怖や恐縮という感情が見て取れた。
それを孤独と言わずなんと言うのだろうか。
そしてアザレアを真に追い詰めていたのは涙のシミができた黒い日記、その中身だ。
なぜならそこに書かれていたのは────
「あ…」
不意に誰かの声が日記に注がれていたアザレアの顔をあげさせた。
おそらく散歩でもしていたのだろうか、かなりラフな格好…いや、なぜか所々に穴が空いたり鎖がたらされていたり継ぎ接ぎだったりする服を着た黒髪の女と目が合った。
「アザレア…」
「あなたは確か…私の…」
アゼリア、もしくはネム。
二つの名を持ち、そしてアザレアの生き別れの妹の姿がそこにはあった。
アザレアさんはこの作品において唯一私の手を離れて勝手に喋っている人だったのですが、今は完全に手の中に戻ってきたために執筆カロリーが上がってしまっていますね。




