喪失のアザレア1
黒神領でのセラフィムを中心とする話し合いはほとんど丸一日行われ、そのなかでいくつかの今後の行動が定められた。
第一に黒神領での復興作業を進めると同時に避難準備を進めること。
二度の枢機卿の襲撃が合った以上はこの語の襲撃があると考えて行動すべきだという意見が採用された形だ。
ただしいくつか問題もあり、まず逃げるとして黒神領の民たちに行き場がない事。
セラフィムは以前から黒神領を捨てるという選択もあるとアザレアに勧めており、その際は白神領を一時的な避難場所として提供する準備もあった…のだが、白神領で起こった呪骸の暴走事件のせいで余裕がなくなってしまっており、受け入れ態勢が崩壊してしまったのだ。
そしてもう一つはアザレアが頑なにセラフィムの提案を拒んだ理由が不明であること。
黒神領には何かがあり、それをアザレアは知っていて動くつもりがなかった…その場合、枢機卿の一人がその謎を調べていたという事もあり、この地を破棄してはそれこそ向こうの思惑通りに進んでしまうのではないかという懸念があるのだ。
さらに不穏なニュースとして確かにセンドウがとどめを刺し、その死体を鎧の女騎士…タンも目撃していたのだが、その死体がきれいさっぱりと消えてしまっていたのだ。
まさか生きているとは思えないが…それでも相手は枢機卿…もしもの場合を考えなければならないと警戒する必要が出てきてしまったのだ。
以上の事から少なくとも今すぐに黒神領を放棄するというのはデメリットも多く、あくまで準備を進めはするが状況次第でどうなるかは変わる…というある意味で先送りのような結論となった。
これには何故か黒神領の放棄に猛反対をしたソードとセンドウの意見も多分に含まれている。
次に第二の取り決めとしてエナノワールの屋敷を本格的に調査することになった。
第一の理由にもつながるが、アザレアが何かを知っているのかという疑問を解消するために、ウツギの手によって執務室の、セラフィムの手によってアザレアの私室の簡単な調査が行われたのだが、めぼしいものは一切出てこなかった。
となれば気になるのは子供のころにウツギが見たという「なぜかたどり着けない部屋」だ。
ウツギ本人は子供頃の記憶なので信用しないでくれと言っていたが、何らかの手段を用いらなければ入れない部屋があるというのなら何かを隠すのにうってつけだ。
そういうわけで屋敷の調査をすることになったのだが…この件に関して真っ先に手を上げたのはまたもやソードとセンドウの二人だった。
「その調査なら僕らに任せてくれ。僕は一応監察という立場にいたからアザレアに屋敷の構造は聞いていてね…それなりに詳しいと思うんだ、うん」
「えぇえぇその通りですねぇ…この私もアザレアさんから研究に役立つならといろいろと見せてもらったことがありますので…その知識が役に立つのではないかと…えぇ…」
何故か若干挙動不審になりながら目を泳がせつつ手を上げる二人だったが、ソードはともかく枢機卿とのつながりがあったセンドウにそれを調べさせるのはどうなのか?という疑問が持ち上がり、結局はセンドウはアザレアに毒を飲まされていることを考慮されて、ウツギを監視役に加えて三人での調査が行われることに決まった。
最後に捕らえた枢機卿と執行官の二名についてだが、これはセラフィムが預かり白神領で預かることとなった。
理由は黒神領に未知数の相手を監禁しておけるような場所が存在していないことに加え、何らかの爆弾が眠っている可能性のある黒神領に枢機卿を置いておきたくなったとという事。
これから行われる尋問や赤神領との交渉等も白神領でのほうがやりやすい…という様々な理由から自然とそう言う形に落ち着いた。
それと並行してネムの処遇をどうするべきか…と言う話にも発展したのだが、こちらは結果として一旦黒神領での預かりとなった。
セラフィムとしてはネムにそこまでの責任を問うつもりはなかったが、しかしそれでも被害にあった民たちの中にはネムの姿を目撃している者もおり、全てを見なかったふりして無罪放免…とはいかない状況だ。
故にネムにも詳しい話を聞く必要はあったが、白神領にも大規模な復興作業が必要であり、枢機卿を捕虜として抱えている状況下でそこまで手が回るのかと問われれば答えは難しいと返すしかない。
しかし不可能ではないので連れ帰ろうとはしたのだが、くもたろうとニョロによる大反対が起き、「決して逃げない」「責任を取れという話になれば無条件で全ての判決を呑む」とネム本人が持ち掛けたためにいったん保留となり、黒神領に残ることになった。
そのほかにも細々とした取り決めや議題はあったのだが、彼女たちを最も大きく悩ませたものが最後に残った。
それこそが───
「はい、ウツギさんどうぞ。お茶を煎れてみたのですけどお口に合いますかしら」
「え…?お、おう…あ、え…?」
会議から翌日、執務室で大量の書類と向き合うウツギの前においしそうな香りをたてるお茶が置かれた。
暖かな湯気が立ち昇るそれを持ってきたのは…アザレアだった。
「どうかしました?一応くもたろうさんに教えてもらって煎れたので変な味はしないと思うのですけど…」
メガネの奥の瞳を不安そうに揺らしながらウツギを見つめるその姿は…彼に恐怖を与えるには十分すぎる光景だった。
記憶を失ってしまったアザレアは、その性格まで変わってしまったようで、こうやって仕事をしている者たちにお茶やお菓子を配って周ったり、屋敷の掃除をするなどまるで使用人かのようなことをして過ごしていた。
気性も穏やかを通り越して気弱になり、ちょっとした物音にも驚いてビクつくほどだ。
そんな変化に慣れずウツギはアザレアと屋敷内で出会うたびに冷や汗が止まらない。
「い、いや…ありがとな…も、もらうぜ…」
これはすべて演技で、その実このお茶の中に仕込んだ毒で自分の事を殺そうとしているのではないか…そんな予感すら浮かんでカップを持つ手が震える。
だがそんなウツギの恐怖をよそにアザレアはおどおどとして不安そうな顔を向けてくるわけで…。
飲まないわけにはいかないと、恐る恐る口を付けて…ちびっ…と飲み込む。
「…うまい」
「あぁ!よかったです!お仕事で疲れてるかもと思ってリラックスできるお茶を選んでもらったんですよ。あ、でもお仕事中にリラックスしちゃうのはダメですかね…!?ご、ごめんなさい!よく考えもせず私ったら…」
ペコペコと頭を下げるアザレアをウツギは慌てて止める。
普段の苛烈で我が強すぎる姿を知っている身としては下でに出られているという状態が恐怖以外の何物でもないのだ。
「い、いや!いいから!大丈夫だから!すっげぇ助かったから!だから顔をあげてくれ!な!?」
「はい…優しいんですねウツギさんって」
「うぇぇ…ま、マジで何を言って…」
「あ、あの!」
ずいっと突然アザレアがウツギに顔を近づけた。
メガネを挟んで目と目が合い…そこでウツギは初めてアザレアの瞳をこんな近くで見たかもしれないと、何とも言えない気持ちになった。
「な、なんだよ…ちけぇって…少し離れろよ…」
「あ、すみません…でもあの!その!えっと…ウツギさんって私の…「お兄さん」なんですよね…?」
「…は?」
思わずカップを落としそうになった手になんとか力を入れ、皿の上に戻す。
突然の発言に動揺を隠せなかった。
まさかアザレアの口から兄なんて言葉が出るだなんて思わなかったからだ。
「あの…皆さんに聞いたんです。ウツギさんは私のお兄さんだって…ほら私どうも記憶喪失…?らしいじゃないですか。それで皆さん良くしてくれるんですけど…私は誰のこともわからなくて…不安だったんですけど、お兄さんが…家族がいてくれてホッとしました。あの良ければ私の事を教えてくれま──」
「やめてくれ!」
ウツギは作業をしていた机を殴りつけ、せっかく置いたカップも転がり中身が手にかかってしまった。
「わ、わ!大丈夫ですか!?お兄さん!大変…早く冷やさないと手が!」
「だから…やめてくれ…」
「え…?でも跡が残ったりしたら…」
「そんなのどうでもいいから!…頼むから俺を兄だなんて呼ぶな…」
「なんでです…?お兄さんなんですよね…?」
「書類上はな…ただそれだけで血も繋がってねぇ…それに…俺はお前にそんな風に呼ばれる資格なんてねぇんだ」
「…兄に資格なんているんですか…?」
「いるんだよ!…少なくとも俺はお前がその言葉に抱いてる期待に答えられる人間じゃない…忘れてるからって俺みたいなのに近づくな。思い出せないのならそれでいいから…俺みたいのにかかわらないほうが絶対にお前にとっていいことだから…お前に…兄なんていなかったんだ。それでいいんだよ!」
ウツギはたまらずその場から逃げ出した。
まだ治り切ってない傷が全身に激痛を与えてくるが、それでも逃げた。どこへともなく目的地もなく、ただただ走って逃げていくウツギの顔に浮かんでいたのは…追い詰められた人間のそれだった。
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「…逃げられてしまいました…もしかしてあまり仲のいい兄妹ではなかったのでしょうか…それはとても残念なことです…」
一人残されたアザレアは落胆の色を浮かべながら、零れたお茶の掃除をしようと執務室の机に近づく。
かなり使い込まれているらしく、所々に傷やインク染みなどがあって、それが模様の様になっていた。
「あら…?なんだかこの机…見覚えがあるような…」
その模様を見ているとなにか身体の奥を燻られるようなもどかしさを感じ、アザレアは机に手を伸ばす。
ひんやりとして、ややざらついている触り後心地がやはり何かを刺激する。
「確か…ここを…こうやって…」
それは消えた記憶というよりは、身体に染み付いた習性としての動きだった。
なぜそんなことをするのか、そんなことは一切思い浮かばないまま、机に備え付けられているいくつかの引き出しを開けたり絞めたりを繰り返した。
すると…カチャリと音をたてて机の天板部分の底から本のようなものが地面に落ちた。
「これは…日記…?私の…?ここって執務室だよね…?なんでこんなところに…」
まさに降って湧いてきたかつての自分の日記をアザレアは思わず開いてしまった。
そしてそれを読み進めていくうちに…その目は驚愕に開かれ、表情は青ざめていくのだった。




