その名は──
ストガラグとスレンを飲み込むはずだった炎が抉った地面の中心で、眠そうに欠伸を繰り返す幼い少女。
今の今まで…いや、この瞬間も命のかかった極限の環境に身を置いていたはずなのに、ストガラグとスレン、そしてリムシラまでもがその場違いな子供に目を奪われていた。
「す、ストガラグさん…あの子供…さっ、さっきの子ですよね…?俺の足と…ストガラグさんの腕を潰した…」
「ああ…間違いはないだろう。あそこまでしっかりとした黒髪を見間違えるとは思い難い」
その子供は癖だらけでふわふわとした黒髪を足元すれすれまで伸ばしており、完全な黒髪と言うのはかなり珍しいうえに、黒髪を持つ者は周囲の目を少しでも避けようと髪を短くするのが普通なので、そのインパクトは忘れようとしても忘れられるものではない。
ましてやスレンの言う通り、リムシラと出逢う直前に身体の一部を潰されているのだ。
わざわざ確認するまでもなくその姿は記憶に焼き付いている。
「な、なんで…?今…俺たちを助けてくれましたよね…?炎に飛び込んで…」
「確かに状況だけはそのように見えたが…油断はするな。たまたまそうなった…と言うほうが説得力がある」
「もちろんですよ…俺だってさすがにあんな事されてまで呑気に考えるほど馬鹿じゃないです…でも…じゃあなんで?って思って…」
「…ゆっくりと後ずさるぞ。リムシラもアレに気を取られているようだからどちらも刺激しないように…ゆっくりと距離をとるんだ」
スレンは重々しく頷き、ストガラグと共にゆっくりと生きを殺しながら後ろに下がっていく。
だが、まるで連動しているかのように逆にリムシラは前に前にと歩いてくる。
「っ!やっぱり逃がしてくれそうにはないですね…」
「いや…やつは俺たちを見ていない。進んでいるのは…あの子供に向かってだ」
謎の子供は直線で結んだストガラグ達とリムシラの間に挟まるようにして佇んでいる。
そして進んでくるリムシラの腕に抱えられた頭部の視線は…ストガラグ達ではなくその子供に向かっていた。
そこからはただただ衝撃だった。
リムシラが唐突に抱えていた自らの頭部を乱暴に首の切断面に乗せ、外していたチョーカーを改めて切れ目を隠すように巻いた。
どう考えてもそんなことで首がくっつくはずがないのにもかかわらず、溢れ出していた血はピタリと止まり、歩いていてもズレることもない。
さらに次の瞬間、リムシラが長いスカートの裾を掴み上げ、全力疾走を始めたのだ。
「うわぁ!?ストガラグさん!!?」
「落ち着け、こっちに向かってきてるわけじゃない。どんな時でも慌てるな。仕事に慣れてきたときと、不測の事態に冷静さを失った時が最も仕事のミスが起こりやすいのだ。社会人ならば常に冷静であることを心掛けろ」
ストガラグの言葉通り、リムシラは二人には目もくれずに子供の元まで走り…いや滑り込んだ。
ザリザリザリと焼けこげた地面で顔面を削るその姿は首を垂れる下僕そのものだ。
「あるじさまー!どどどどどうしてお姿をー!?ここはこのわたくしめに任せてくれるという話だったはず!?」
「ふぁ…ねむねむ…」
「あぁ!おねむなにさらないでくださいませ!これから私はどうすればいいのかだけでもー!」
「ふあぁ~…「殺すなって言ったのに殺そうとしたからわざわざ出てきてあげたんでしょうが!この役立たず!」むにゃむにゃ…」
「あぁっ!申し訳!申し訳ありません―!ストガラグさんが主様を侮辱するようなことを言うので頭に血が上ってしまいまして、ついー!?」
何度も何度も額を自ら地面に叩きつけながら何らかの伺いを立てているリムシラの様子も異常だが、眠たげにしている子供の口から突如として別人のような声が飛び出してきたのもまた異常で…全てを飲み込めないのでストガラグは絞り出すように一つだけ質問を吐いた。
「…リムシラ…その子供は…いったい「何」だ?」
瞬間、鋭く尖らせた瞳でストガラグを睨みつけながらリムシラは子供を抱き上げ──ようとしてビンタされて阻まれていた。
「何とは無礼な…!この方こそ顕現せし我が神にして至高なる御身…その名も…さめミサイル様であらせられますよ!」
ドドン!と擬音が聞こえてきそうなほどの大仰な動きでリムシラが子供を讃えた。
「さめ…?」
「ミサイル…?」
あまりにも聞きなれなさすぎる言葉だったためか、ストガラグもスレンもそれが名前だと認識することができずに緊迫した状況でありながらも呆けたような声で復唱してしまう。
その時だった。
子供が軽やかに地面を蹴って飛び上がったかと思いきや、鞭のようにしなやかで鋭い蹴りをリムシラの首に向かって放ったのだ。
「あいた!?な、何をされるのですか主様ー!?」
「「名前が違うって何回言えばわかんのよ!このあほ!!」ふぁ…むにゅ…」
「ええ!?そんなはずは…私が主様の名前を間違えるなんてそんなことあるわけが…」
「ねむねむ…「ならもう一回!言ってみなさいよ!」」
「え…えっとぉ…さ、さめ…」
子供がゆっくりと拳を持ち上げ、見せつけるように力強く握りしめた。
「じゃなくってぇ…キリン…?」
「…」
「トラ…じゃなくて…ライオン…でもなくて…あ…い…う…「う」…?」
「そう」
「う…う…う~…う~…うさ…?あ!!!聞きなさい!ストガラグさん!先ほどは少し言葉を噛んでしまって違うように聞こえてしまったかもしれませんが、改めて教えて差し上げましょう。この方こそが…!」
ごくりとストガラグとスレンが唾を飲み込む。
別に名前などそこまで気にすることでもないかもしれないが、ここまで引っ張られるとなぜか気になってしまうというのが人の性だ。
そして満を持してリムシラはその名を告げる。
「この方こそが我が主…うまレーザー様で──ぎゃっ!」
全て言い切るよりも早く、リムシラが地面に叩きつけられて黙らされていた。
その反応から察するに、おそらく「うまレーザー」でもなかったのだろう。
そうストガラグは結論付けるのだった。
「…茶番はここまででいいだろう。そちらの会話から察するにそちらの子供は我々を殺す意思がなく、先ほどのリムシラの独断を止めるために介入してきた…それだけでキミたちは二人ともこちらから見て敵側の立ち位置…そういう事でいいのだな?」
「くすっ…嫌ですねストガラグさん。私達を敵だと思うのはあなたに信仰心が足りないからです。主様という神様がここにいる以上、敵であるのはその意思に逆らおうとする貴方たちであって私達ではないのですよ?」
土と煤にまみれた顔をあげてリムシラがそう微笑んだ。
(多分にリムシラの世界観による脚色が加えられているが概ね俺の質問が肯定されたととるべきなのだろう。ならばやはり事態は好転などしてはおらず、むしろ悪化したわけだ…なんとかスレン特務執行官だけでも逃がしたいが…おそらくは彼も一人で逃げることを良しとはしないだろう。どうする…?社会人として俺が取れる行動はなんだ…?考えろ、思考を止めるな…社会の歯車であっても、組み込まれる位置と回り方は己で考えなければならない。それが社会人だ)
さりげなくスレンを背に庇い、一度だけ深呼吸をする。
この場で最も生き残る可能性が高い方法…それは…。
「リムシラ。お前は本当にその子供の側についているのか?」
「はい?」
「何があってこんなことになっている。お前もその思想はどうであれ俺と同じく枢機卿を拝命していた人間のはずだ。そのお前がどうして俺やアリセベクはともかく教皇様をも裏切るような真似をする。それを説明してもらわないことには我々もお前の言う神を受け入れることなどできない。こちらはお前と違って信心深いわけではない一般人なのだからな…それは理解してくれるか?」
「ふむぅ~…確かに言われてみればそうかもですねぇ~。信仰の一環である布教というものをすっ飛ばしすぎていた感も言われてみればありますねぇ~」
「それならば話してくれないか。お前がここにいる経緯と…その子供を神と呼ぶになった理由を」
「まぁいいでしょう~。と言っても別になんてことはないですよぉ~?実は私はそこそこ前にこの地に潜入したのですが~」
リムシラが話している最中にストガラグは視線を動かさないまま黒髪の子供の様子を伺っていた。
途中で何らかの妨害が入るかもと身構えていたが、眠そうにしているばかりで動き出す気配はなかった。
(リムシラの語りからは何も情報を得ることはできないという事か…?もしくは…)
「ストガラグさん聞いてます?」
「…あぁ。だがお前が元大司教が殺された後にこの地に足を運んだことは俺も知っている。聞きたいのはその後…何があったのかだ」
「なにかもなにもただ愚かな行為に値する罰を受けただけですよ。そこで主様と接触し、愚かにも私は戦いを挑んだのです。そして殺されました」
「なに…?」
「いま生きてるじゃないかって思いましたよね?ええ、えぇ不思議でしょう?まさにそれこそがこの方が神の奇跡を執行できるという証拠ではありませんか。あの時確かに顔を潰されたはずなのに…私はこうして生きています。それ以上の理由が必要ですか?」
「…確かにお前の話が本当ならばそれは確かに驚愕に値することなのかもしれない」
死者の蘇生…それが本当に可能ならば、まさに神の力と言っても過言ではないだろう。
その言葉自体がストガラグたち枢機卿にはある意味で命よりも重い言葉だからだ。
「…リムシラ。我々枢機卿は教皇様から彼の目指す世界の在り方を聞いているはずだな。ならばその言葉にどれだけの重みがあるのか理解しているはずだ。だからこそ俺は…その言葉を信じるわけにはいかない。もう一度考えろリムシラ…本当にお前はその現象を体験しているのか?本当に体験しているのなら…お前のすることはその軌跡の執行者を神と崇めて妄信するのではなく、教皇様に情報を持ち帰ることではないか?曲りなりにでも枢機卿であるお前ならそれを理解しているはずだ。もう一度考えろ…なぜ、我々を裏切ることになった?リムシラ」
「なぜってそれはだから…この方は神様で…死者の蘇生が…あれ…?」
リムシラが不思議そうに首を捻った…その時だった。するりと黒髪の子供がリムシラの方に昇り…その頭に小さな手を突き刺したのだ。
「あぎゃっ」
「な、なにを!」
子供は何も答えない。
ただただ眠たげな眼をしたまま、リムシラの頭に突き刺した手を上下左右に動かしている。
ぐちゃ…くちゅ…ぶちゃ…。
ねばついた水をかき混ぜているような音が周囲を満たし、異様すぎる光景に目を奪われる。
リムシラの身体は細かく痙攣をし、腕や足があらぬ方向に意味もなく動いている。
まるで壊れたからくり人形のように。
「な、なにをしているんだ!そんなことをしたら死んで…!!」
スレンが前に出ようとしたのをなんとかストガラグは抑え込み、そうしている間に子供はリムシラの頭から小さな腕を引き抜いた。
「あっ、はひぃ………あら…?私どうしてこんなところに~?」
解放されたリムシラは頭部の穴から血や、それ以外の体液のようなものを零しながらフラフラと周囲を見渡す。
そしてストガラグと目が合った。
「あらぁ?あなたは…えー…名前が出てきませんが…たしか…枢機卿の…こんなところで何をしているんですかぁ~?」
「…覚えていないのか…?」
「え~?覚えてないって何のことですか~?名前は確かにちょっと思い出せないですけど~」
「…」
この地で再会した時に何故か記憶が所々おぼろげな様子だった理由がこれでわかった。
リムシラは自らの意思で裏切ったのではなく、あの子供に何らかの干渉を受けているのだ。
「「やっぱりまだまだ完璧じゃないわね。大丈夫なの?これ」「…即興の試しにしては結果は上々だろう。精度はこれから高めていけばいい。幸いこの女は丈夫で実験するには丁度いい」ふぁぁ~…むにゃねむ…すやすや…「寝るな!【サク】!せっかくあんたが表に出てるんだからやることはやって!」ふみゃ…ねみゅいのにぃ…んべぇ~…」
おもむろに黒髪の子供が口を大きく開き、舌を伸ばす。
そこにあるのは小さな黒い石…呪骸だ。
「っ!走れ!スレン特務執行官!!」
「ひぃ!?」
少しでも子供から、呪骸から距離を取ろうと二人は走り出す。
幸い、元から少しばかり距離離れていたために呪骸の最適な有効距離からは少しばかり外れていた。
「これならばなんとか…──む…?」
ストガラグは自らの腹部に違和感を覚えた。
何かがおかしい…急に体が軽くなったような気がする。そして異常な喪失感が腹を満たす。
逃げろと言ったはずなのにスレンがこちらを振り返って何かを叫んでいる。
だが何を言っているのか…まったく聞こえない。
分厚い壁を隔てて話されているようだ。
なので何が起きたのか自分で確かめるほかなく…ゆっくりと自分の腹に触ってようやくそれに気が付いた。
「…馬鹿、な…」
そこにあったのは見知った腹部ではなく、無惨に捩じりつぶされた血の滴る肉塊だった。
それを理解した時にはもう…ストガラグは自らが零して作り上げた血の海の上に倒れていたのだった。
ご無沙汰しております!遅くなり申し訳ありません!
次回更新はさすがに8月になると思われます!よろしくお願いいたします!




