炎の鏡像
ソードがアリセベクとの交戦を始める少し前。
別の場所では枢機卿ストガラグと執行官スレンが一人の女の手によって窮地に追い込まれていた。
「うふふっ…ストガラグさぁん~そんな怖い顔して睨んできて…私怖いですわぁ」
周囲をメラメラと燃やす炎の壁に囲まれ、退路を断たれた二人が取れる選択は一つしかなかった。
「あ、ストガラグさん!あの人って枢機卿なんですよね!?じゃあ味方なんじゃないんですか!?」
「…わからん、わからんが少なくとも今は敵と認識するほかないだろうな。上司からの指示がない状況下では現場で見聞きしたものが何よりも優先される…社会人としての臨機応変さが求められている状況だ」
「こんな時まで社会人どうこう言ってる場合ですか!?」
「こんな時だからこそ社会人としての意識を忘れてはならんのだ。逼迫した状況にこそ社会人性というものは求められるのだから…とは言ったものの、どうしたものか…」
「い、一応聞きますけど…あの人強いんですかね…?」
それは半ば現実逃避に近い質問であった。
行く手を塞ぐように周囲を燃やし、なお空まで焼かんと吹き上がっている炎の柱は二人の眼前で微笑みを浮かべている女が魔法で作り出したものだ。
そんな芸当が出来る者が弱いはずがないというのはスレンでもわかっていた。
わかっていたが…聞かずにはいられなかった。
「…枢機卿「貧狼のリムシラ」…先ほど少し話したが主に不穏分子の排除・殲滅を仕事としていた女だ」
「排除と殲滅…それって魔物を相手に…ってことですか…?」
「いや…彼女の専門は人間相手だ。不穏な動きをしている、もしくは明確な反乱の動きが見える集落に村や町などに派遣されて、そこに住む人間を痕跡ごと皆殺しにする…それが奴の仕事だ」
「なっ…!?そんな…!」
「スレン特務執行官、キミが言いたいことはなんとなくわかるが今はそれを聞いてやる暇はないという事は分かるな?つまるところあの女は多人数の人間を殺すと言う点において枢機卿内でも有数の実力差という事だ。付け入るスキがあるとすれば…同格の相手との個人戦闘に慣れてないことを祈るくらいだが…スレン特務執行官、魔法は使えるか?」
「魔法ですか…?まぁ多少なら…」
「よし、ならば常にリムシラから見て俺の背後に陣取り、いつでも氷魔法で小さくてもいいから盾のようなものを形成できるように準備をしておきたまえ…もし俺を突破してリムシラから得意とする炎魔法が飛んできた場合はそれで身を守るんだ」
「氷…ですか?水でなく?」
「彼女の放つ炎に対して生半可な水など焼け石になんとやらにしかならん。まだ氷を盾にして逃げる方が生存率は上がるだろう…ではいくぞ」
「ちょっと待ってください!俺も一緒に…!」
スレンのその言葉をストガラグは手で制して飲み込ませた。
「俺もキミもダメージを負っていて長時間の戦闘は厳しい。生き残るには何とか突破口を見つけてこの場から逃げ出すしかない。この場での君の仕事…わかるな?」
そこでようやくストガラグの意図に気が付き、スレンは力強く頷いた。
この場でのスレンにできる仕事…それはストガラグがリムシラの注意を引き付けている間に逃げ道を探すこと。
一部の隙も無く周囲を囲んでいる炎の壁の中からそれを見つけるのは至難の業かもしれないが…やるしかないのだと上司の目は語っていて…。
足手まといのままでは終われないとスレンも覚悟を決めた。
「いい目だ。ようやく社会人としての自覚というものが出てきたようだな…では今度こそ行くぞ!」
「はい!」
ストガラグは目深に被っている帽子を押さえながらリムシラに向かって走り出す。
その背にこそこそと隠れることに情けなさと羞恥心を覚えながらもスレンは燃え盛る炎に立ち向かうべく、痛む足を引きずって反対側に向かって行く。
「うふふっ!お話し合いは終わりましたか?ストガラグさん」
「ああ、おかげさまでな。一度だけ聞いておくぞ。何かの間違いでこんな行動に出ているわけではないのだな?俺たちと明確に敵対の意思があるという事で間違いはないのだな?リムシラ」
ストガラグの質問にリムシラはまるで聖母のような優し気な微笑みを浮かべたまま、手の中に真っ赤に燃え盛る炎を生み出してゆらゆらと揺らす。
「変なことを言いますねストガラグさんは。私はただお話がしたいだけなのに、殺気立っているのはそちらの方ではないですか」
「ここまでしておいてよく言う…話があるのなら聞いてやる。話してみたまえ」
「うふふ…先ほども言いましたよ?あの方がストガラグさんたちに興味があるそうなんです。だから大人しくしてほしい…ただそれだけなんですよぉ」
「…そのあの方とやらに合うにあたって我々の身の安全は保障してもらえるのかね?できれば五体満足で帰して欲しいのだが」
「うふふふふ!面白いことを言いますねストガラグさん!既に五体満足とは言えないではないですか。かわいそうに…」
「…」
片腕が潰れているストガラグに心底同情しているかのような声に加え、涙すら滲ませるその姿はやはり疑いようのない慈悲深さを感じられるが…ストガラグは知っている。
もし目の前にいるリムシラが本当に本人ならば…この女はどうしようもないほどにイカれているのだと。
「ただあの方にお会いするのですから、それ相応の準備はしていただかなくては困ります。ストガラグさんは血の気が多くて危険ですからねぇ~…四肢を焼き落とすくらいのことはして敵意のなさを証明していただかないと。大丈夫ですよ、傷口はちゃんと焼き固めますので死にはしないですし、あのお肩にお目通りできるのです…四肢を失う以上の価値は必ずありますから!」
「…今の今まで本当に貴様が本人なのかと疑っていたのだが…どうやら正真正銘リムシラらしいな」
「あらあら、まだ疑っていたのですね。そう言うところ素敵だと思いますよ。疑い深く慎重なのは言事です…ですがこの場においてはただただ不敬なだけですねぇ。神様は疑うものではなく信じて敬うものですよ?ならばそれは邪念です…あぁ…そんなものはすぐさま焼き払って浄化せねばなりません…!そうすることで救われるものもあるでしょうから」
「…おかしなことを言う。それでは貴様が神だとでも言いたげではないか」
「神様のメッセンジャーとしてここに来ている私を疑うという事は神を…あの方を疑うも同義でしょう?いけません、邪念に捕らわれてストガラグさんは正しい道が見えなくなってしまっているのですね…それはとても悲しい事です…ですから私が正しい道を進む者として導かなければなりません…迷える子羊を救わなければなりません…さぁストガラグさん私の炎に身を任せてください。これこそが浄化の炎…救いの光。これを持ってその身を焼き救いましょう…怖がらないでいいですからね。これは痛みではなく、祝福なのですから」
そうして躊躇なくリムシラは手の中の業火をストガラグに向けて放った。
ストガラグは苦虫を噛み潰したような表情を見せながらも、その炎を右手で受け止めて見せた。
その炎は通り過ぎた地面をわずかながら溶解させているほどであり、素手で受け止められるような温度ではないはずだが、ストガラグは確かにそれを受け止めている。
もっともその顔には脂汗が滲んでおり、余裕はこれっぽちも感じられはしなかった。
「あらあら、相変わらず頑丈なお身体ですねぇ~うふふっ。でもいつまで持ちますかねぇ~?」
ストガラグが受け止めている炎にさらにリムシラが炎の弾を放ち、その規模を拡大させた。
本来ならばそのような現象が起こるはずなどないが、リムシラの魔法によって生み出されたそれにはそういう性質があるようだ。
「ぐっ…」
ストガラグは辛うじて魔法を受け止められてはいるが、左腕のダメージもあり限界が近かった…が、しかしその内心では「最悪の展開」だけは避けられたと安堵していた。
(この状況下でリムシラに呪骸を持ち出されていたらどうしようもなかった…使ってこないという事は本当に殺すつもりはないのか…もしくは所持していないのか…後者ならばいい、追い詰められているがこちらにツキが回ってきている。だが…前者だった場合はまずいかもしれん。向こうが有利なこの状況が変われば使ってくるという事だからな…さて…ここからどうする…?最悪の場合はこちらも…)
ストガラグは懐に存在する小さな石に意識を向けた。そう──呪骸だ。
本来ストガラグが持っていた呪骸は銀神領での一件で失われてしまったが、今回の任務に赴くにあたって教皇より新たに授けられていたのだ。
もっともあくまで非常事態用であり、基本的には今回の任務で使わないという心持でストガラグは黒神領に来ていた。
その理由は今回の目的が何者かの殺害ではなく調査だからだ。
なぜかこちらを攻撃してくるリムシラに、呪骸をもっていた謎の少女。
殺してしまっては情報は永遠に得られなくなってしまう。
死は終わりで、その先には何もないのだから。
仕事を受けたからにはそれを最優先事項に設定する…それがストガラグの流儀…いや、社会人の矜持なのだ。
(…状況を打開するわけにはいかない…少なくともスレン特務執行官が突破口を探し当てるまでは。だが呪骸の存在の有無が左右する要素が多きするか…仕方がない、仕事を投げ出すわけにはいかず部下をこれ以上危険にさらすわけにもいかない…ならば俺が危ない橋を渡るほかない。それが社会人というものだ)
ストガラグは一度だけ深く息を吸った。
炎に焼かれた空気は肺すらも焦がすほどの熱気を持っていたがそれでもストガラグはそれを飲み込み、呼吸を整える。
そして受け止めていた巨大な炎の塊をリムシラに向けて投げ返した。
「うふふっ」
「…」
炎はリムシラの身体スレスレのところを通り過ぎ、その背後の炎の壁と激突して消えてしまった。
「…一か八か壁を壊せないかと思ったのだが無駄だったようだ」
「そんなこといちいち試さなくても聞けばお教えしましたのに」
「今のキミを信用できると思うのかね?組織を裏切る行動をとっているものを社会人は信用しない。覚えて起きたまえ」
「では私からもストガラグさんに一つ大切なことを教えましょう。この世には社会や組織よりも信じるべきものがあるのです。業火の様に苛烈で、暗闇に灯る炎のように暖かで我々救いを求める小さな子羊を導きたもう存在…そう、神様です。そのご威光を感じればこそ組織や社会などは意味をなさなくなるのです」
──ここだ。
ストガラグは熱で乾いた唇を舐めて湿らせ、リムシラに向かって真っすぐとその言葉を口にする。
「キミの言う神など信じるに値しない」
「…はい?いま…何か言いました?」
ずっと柔らかな微笑みを浮かべていたリムシラの顔が石造のように固まった。
表情自体は変わっていないように見えるが…その雰囲気は様変わりしている。
「人が生きるに置いて最も大切なことは社会の一員として責務を果たすことだ。人より優秀である必要はない、無理をして能力以上のパフォーマンスを発揮する必要もない、個人の力があるのなら組織に属する必要もないだろう。ただ己ができる範囲内で社会という全体を回す歯車となり、貢献する…その行為が個の幸福にもつながる…それこそが生きるという事だ。それを否定し独りよがりの信仰を要求する神など信じるどころか存在すること自体に価値がない。キミの言う神が何を意味しているのかは分からないが…それを信じる今のキミも価値もないだろう」
「うふふっ…ふふっ…うふふふふふ…ふふふふふ…うふふふふふふふふふふふふふふふふふふ、うふふふ!」
リムシラは笑っていた。
微笑みを浮かべたまま、口を押えて上品に。
その笑い声に合わせて周囲の炎がゆらゆらと波立つように揺れていく。
笑って笑って笑って…。
何度も何度も笑い声を重ねてそのままずっと笑い続けるのではないだろうかというほど笑って…不意に周囲から全ての音が消えた。
燃え盛る炎の音すらも…。そして…。
「殺します」
堰き止められていた水が決壊してしてしまったかのように爆発的に溢れ出した炎が噴き出し、全てを燃やさんと天まで伸びていく。
「…なるほど、そうなるか」
熱風に飛ばされてしまわないように被っている帽子を押さえながらストガラグは叩きつけられている殺意をあえて肌で受ける。
「本物の殺気だな…この俺を本気で殺そうとしていると見える」
「そう言ったのが聞こえませんでした?神様とは信仰して当たり前の尊き存在です。それを社会などというくだらないものの引き合いに出し、あろうことか否定するなど人がやっていい行いではありません。まさに悪鬼邪霊に落ちてしまったと言って過言ではないでしょう。そうなってしまえばもう私でも今世において救う手段はありません…ならばあなたの穢れた魂を燃やし尽くし、来世に更生の機会を託すのが救いとなるでしょう…お願いですこれ以上穢れが進む前に大人しく炎の前にその身を差し出してください。醜いのは嫌でしょう?綺麗になりましょう?ストガラグさん。それが生きるという事です」
「余計なお世話、だ。だがこれで一つ懸念がなくなった」
「何をぶつぶつと言っているのです?」
何でもないとストガラグは首を振った。
(明確な殺意を面に出しておきながら呪骸を使ってこない…という事はやはり彼女は現在、呪骸を持っていない可能性が高い。これならばスレン特務執行官がうまくやってくれればやりようはある…それまで生き延びることが今の俺の仕事という事か。状況は依然、最悪だが希望は見えた…ならば社会人として行動するのみ。上司からの依頼に部下の身の安全…二つの仕事を同時にこなすことなど社会人にとって日常茶飯事、今更慌てることでもあるまい)
炎に煽られながら片腕で帽子をかぶり直し、タイピンの位置を確認してネクタイを締めなおす。
気を引き締めるにはまずは服装から。
それがストガラグなりの戦闘準備なのだ。
「行くぞリムシラ…キミの身に何が起きたのか、そのすべてを吐いてもらう」
「あなたとはもはや会話をすることはできません。早急にその穢れた魂を天へと返さなくてはなりませんから」
スレンから注意をそらすため、目的を逃走と悟られないようにストガラグはあえて別の目的を口にする。
ここから社会人の孤独で苛烈な職務が始まるのだった。
黒神領において何故か勃発する敵幹部VS敵幹部。




