姉と妹
アザレア・エナノワール…彼女には昔から何度も何度も自分に問い続けた言葉があった。
───どこで間違えたのだろうか。
───なにが間違っていたのだろうか。
物心がついた時には既に不幸だった。
いや、その境遇を不幸だったと思えるだけの知識があったのだからもしかすれば最初は不幸ではなかったのかもしれない。
例えそうだったとしても不幸である前の自分を思い出せないのだから同じことなのだが…とにかく初めから彼女は不幸だった。
大人からの庇護を必要とする幼い子供であったにもかかわらず、両親はおらずたった一人の妹を連れてその日の飢えを凌ぐだけの日々…なんて事すら希望に満ちた都合のいい話だ。
現実はいつだって飢えていて、たまに野菜の切れ端でも口にできればいい方だった。
ゴミの中から残飯を漁り、食べられそうなら道端の草だって食べた。
それを見て周りの人たちはアザレアと妹の事を嘲笑った…というのも圧倒的な平和的表現だ。
本当は何度も何度も殴られた。
石をぶつけられ、刃物を突き付けられた。
何度も何度も痛い目にあわされた。
なぜそんな不幸な人生を歩んだのか。
それはアザレアとその妹が黒髪だったから。
黒髪はただそこにいるだけで悪いのだ。
産まれた時点で悪くて、息をするだけで悪くて、喋るだけで悪くて、歩くだけで悪い。
なぜなら黒髪だから。
だから黒髪にはどんなことをしてもいいし、何をしても許されるし、どんな理不尽も黒髪なのが悪いのだから仕方がないのだ。
痛い思いも苦しい思いもたくさんして…そしてアザレアは何度も何度も自問自答した。
一体何を間違えたのかと。
────────────
漆黒のボロボロの剣が、黒く流動する槍が交差して火花を散らす。
お互いに異形の武器を手に殺意をぶつけ合うのは姉と妹だ。
アザレアとアゼリア…かつては闇より深いどん底で支え合っていた姉妹が一心不乱に殺し合っている。
妹は半ば正気を失った状態で。
そして姉は完全に正気を持ったうえで妹を本気で殺そうとしていた。
「随分と粗雑な動きね、ゼリ。そんなんじゃ私は殺せないわよ」
「う、うる、さい!わたわた、私を…その名で…呼ぶなぁああ!!」
鋭く放たれたアゼリアの刀による一閃はアザレアの首を正確に狙っていた。
もし何の防御もなくそれを受けたのなら、間違いなく命を奪われる地名の一撃だ。
アザレアはそれをあえて左腕で受けた。
刃が肉に食い込み、血が噴き出す。
だがそれだけだ。
首という柔らかい部位を確実に斬るために威力よりも速度を重視したその斬撃は腕を切断するには至らず、骨で受け止めることができた。
そして刀をある意味で掴んでいる間に黒い槍がアゼリアの心臓に向かって一点の迷いもなくまっすぐと突き出された。
「ナメ、るぅ、なぁああ!!」
アゼリアもその槍の一撃を手のひらで受け止めて見せた。
槍の刃は貫通し、手に風穴を開けたが心臓には届かない。
血と血が、斬り飛ばされた肉片とまじりあって独特な臭いを発していく。
姉の視線が、妹の視線が、アザレアの眼鏡のレンズ越しにかち合い、それぞれの殺意を写し取る。
お互いに本気、この戦いはどちらかが死ぬまで終わらない。
妥協はない。
それを理解してそれぞれの武器を相手の腕から引き抜いて距離をとる。
「あ、あら…?」
ここからが本番…というところでアザレアが膝をついた。
全身がだるい…いや、引き裂かれたように痛む。
刀を受け止めた腕だけじゃない…全身に隙間なく刃物を通されたかのように痛むのだ。
「これ…は…ゼリ…あんたしばらく会わないうちにこんなことも出来るようになってたのね…そりゃあそうか、あんたも「黒髪」だものね…」
アザレアは自身の身に何が起こったのか瞬時に理解した。
全身に刃物を通されたかのように…それは比喩ではなかったのだ。
「肉体だけじゃなくて身体の中の魔力を攻撃されたってところかしら…?血管の中の血のように身体の中を巡る魔力をバラバラにされた…なんてひどい子なのかしらね?姉にこんなことをするなんて」
アゼリアの刀は肉だけでなく精神…魂をも斬る。
魔力とは生き物が発する命…その具現と言ってもいい。
それを斬られるのだ。凡人であれば今のアゼリアの刃で指の一本でも斬られれば発狂の内に死を迎えるだろう。
だがアザレアは笑っていた。
腕から大量の血を零し、額から脂汗を滲ませながらも笑みを浮かべて見せたのだ。
彼女を突き動かすのは意地と使命…そして覚悟。
たとえ脳を焼き切るほどの痛みを経験しようがこの戦いが終わるまでは死ぬわけにはいかないとただただ耐えていたのだ。
「だまれぇえええええええええ!!私の!姉わぁああああああああ!死んだんだ!」
ガリガリガリガリと地面を刀で削りながら獣のような動きと速さでアゼリアが迫り、刀を振り上げた。
狙いはまたもや首…だが今度は正真正銘必殺の力の込められた一撃となっているだろう。
そんな状況下でアザレアは一瞬だけ迷ってしまった。
精神を斬る一撃…それを避けるべきか、受け止めるべきかと。
アザレアの持つ槍はその腕に絡みつく蛇の魔物クロロが吐き出した特殊な魔力をアザレアが特異な魔力操作によって槍の形に圧し固めた武器だ。
つまりはあの刃を受けるたびに槍自体にもダメージを受けることになる。
気が付いてみれば既に槍は今にも折れてしまいそうなほどボロボロにされており、数度は大丈夫だろうがそう何度も攻撃を受け止めることはできそうにない。
なにより槍が破壊されるほどのダメージを受ければその魔力の持ち主であるクロロも無事では済まないだろう。
それはアザレアにとっても本意ではない。
死を覚悟してこの場に立って、ある理由から実の妹を手にかけようとしているがクロロまでその命のやり取りに巻き込みたくはない。
かといって攻撃を避けるには後手に回りすぎた。
今から回避動作に入ったところで躱せるかどうかはやや部の悪い賭け…どっちを選択するのが正解なのか。
常に最善を計算するアザレアはそれを考えてしまったのだ。
それが致命的となる。
最終的にアザレアは攻撃を避けることを選択し、激痛の奔る身体を捻ってスレスレの刃を躱した。
「っぐ…!?」
しかしそれとほぼ同時に脇腹に鈍痛を覚えた。
刀を空振ると思ったその瞬間にアゼリアは蹴りを放ったのだ。
あばら骨が折れる音を聞きながら、悲鳴をあげそうになる口を歯が折れそうになるほど食いしばって押しとどめる。
悲鳴をあげれば隙ができる。
これ以上そんなものを見せれば次の瞬間には命を刈り取られる。
そんな考えの通りに間髪入れず刀による突きが顔面に向かってきていた。
槍という武器の特性上、こんな密着状態の攻撃を受け止めることなんてできない。
崩れた体勢では避けることも難しい。
だからアザレアは前に出た。
「この…っ!お姉ちゃん舐めんじゃないわよ!」
「っ!」
迫っていた刃がギリギリでアザレアの眼鏡を掠めて頬にわずかに傷をつける。
刺すような痛みを頬に覚えたと思ったのもつかの間、全身をやはり耐え難い激痛が襲う。
だがそれに耐えてアザレアはアゼリアに向かって頭突きを喰らわせた。
刃が掠った結果なのか、はたまた頭突きの衝撃か…眼鏡のレンズにひびが入ってわずかに視界が悪くなる。
しかしそれがどうしたとばかりにアザレアは肩で息をしながらも眼鏡の位置を整えて…血に濡れながらやはりにやりと笑って見せる。
「な、なんで…」
「はぁ?なんで眼鏡を外さないのかって?少しひびが入ったり、殺し合いをしている程度で外すわけがないでしょうが!そんな生半可な覚悟で眼鏡なんか掛けてないのよこっちは!」
「そんなこと…きいてない…なんで私の刃を何度も受けて…まだ立ってられるの…!」
ああなんだそんなこと…とアザレアは無造作に口にたまった血の塊を吐き出し槍を構える。
正直もう立っているだけでも難しいほどだ。
全身が痛くてしかがない。
一瞬でも気を抜けば痛みの中で狂い死ぬほどに。
でもアザレアは立っている。なぜならば───
「言ったでしょ…お姉ちゃんを舐めるなって。アンタより先になんて意地でも死ねないのよこっちは。本当なら何があっても守らなくちゃいけないはずの妹を殺そうって言ってんだから」
「…お前は…アザレアじゃない…私のお姉ちゃんは…私を殺したりなんてしない…」
「残念ながらするのよ。アンタの姉はね…ねぇもうさ…大人しく殺されてくれないかしら。そうしないと終わらないわよ?たとえ首を跳ねられたって私はアンタを殺すまでは死なない…本当よ?私、アンタに嘘なんて言ったことないでしょ?ゼリ」
「黙れ…もう立っているのも、やや、やっとの癖に…次で…殺す…私の姉を語る嘘つきをを…を…」
「殺せないって言ってるのよ。それにね、ゼリ…なんであなた自分が優位に立ってるって思ってるの?」
「なに…?…っ!?これは…!」
先ほどの光景の鏡写しのようにアゼリアが口から血を吐き出しながら膝をついた。
「時間のかけすぎね。殺すのなら迅速に殺しなさい?じゃないと足を掬われるわよ。もっとも私はじっくりとやるのだけどもね」
「これは…どく…!?いつの間に…まさか…さっきのやり、槍の一撃を受けた時…」
「違うわね。この戦いが始まった時からよ。なんのためにセラフィムをこの場から引かせたと思ってるのよ」
カンッとアザレアが槍を地面に叩きつけて音を鳴らす。
黒蛇クロロの魔力は猛毒だ。
そしてその力が込められた槍からはゆっくりとだが毒が零れだし、風に乗って周囲に広がっていた。
無味無臭だがその力は強大で龍にすら通用することは以前のソードとの戦いで実証済みであり、呪骸により暴走状態だとしても人の身であるアゼリアに防げるはずもない。
つまりはこの戦い…長引けば長引くだけ状況はアザレアに有利に傾く。
だがそれはアザレアの勝利を保証しているものではない。
アゼリアにも指摘されたようにもはや立っているだけで精一杯なのだ。
あと一撃でも喰らえば覚悟以前に肉体は限界を迎えるだろう。
一方のアゼリアは毒が急激に回った影響で驚きはしたもののまだ余裕はある。
それを証明するように危なげもなく口元を拭いながら立ち上がって見せたのだから。
「次で…こ、ころ…──殺す」
「あら怖い。じゃあ私は次も生きて見せましょう。血を吐いて肉を裂かれて心臓を抉られたとしても…アンタを殺すその瞬間まで…生きてやるわ」
殺気がお互いの武器を鳴らす。
この戦い…もはやどういう結果に終わったとしても生き残るものはいないのだろう。
どちらが先に死に、後を追うのはどちらか。
ただそれだけの違いしかない。
姉は守るはずだった妹を殺し、妹はなぜ姉に殺されるのかもわからないままに死んでいく。
それがこの姉妹が辿る不幸な結末。
それを変えることはもはやできはしない。
この場に全てを救うことのできる、物語に語られる王子のような…正義のヒーローがいたとしてももはや流れは止められないのだろう。
どちらも救いなど求めてはいないのだから。
殺し殺されて、破滅の中で不幸を辿る…それがこの姉妹が紡ぐ物語の結末だ。
もしそれを変えることができる存在なんてものがいるのだとしたら…それは───。
「「死ねぇええええええええええええ!!!!」」
血と共に喉の奥から殺意を絞り出し、槍を、刀を相手の命に向かって突きつける。
先に届くのはどちらか…その結果が出るほんの刹那…何かが二人の間にものすごい勢いで空から落ちてきた。
「な、なに…?」
「…?」
それが落ちてきた衝撃で舞い上がっていた土煙が晴れ、輪郭が露わになる。
それは…地面に首から突き刺さっている幼女だった。
「「…」」
姉妹は揃って仲良く思考を停止させた。
何が起こっているのかさっぱり分からず、身体が次の動きを読み込んでくれない。
そうしている間に地面に突き刺さっていた少女が腕の力で地面からその首を引きぬいた。
「ぷっはぁ~…いやぁ…失敗失敗。やっぱり横着なんてするもんじゃないね~うん」
一人で何かに頷いている幼女の顔にアザレアは見覚えがあった。
いや…見覚えがあるなんてものじゃない。
だってその幼女は…。
「メア…たん…?」
「ん?お~アザレアだ。やっほ~なにしてるのん?」
殺気が血肉を巻き込んで渦巻いていたはずのその場所に、どこまでも緊張感のないドラゴン系幼女の声が響き渡った。
高くそびえ立つ硬い旗を自然災害が折りに来ました。




