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きっとかわいい、おんなの子だから。

作者: 樫山泰士


 その日の午後、浅井花乃は、休日の校舎にひとりしのび込むと、つい一年ほどまえまでは、毎週のようにやっていたのと同じように、体育館裏のさび付いた非常階段をゆっくりとのぼり、そこから、誰もいないはずの、立ち入り禁止になった屋上へと、はいって行った。


 その日の午後の空はたかく、風はいまは弱かったものの、すこし寒さを覚えたのだろうか彼女は、かばんに引っ掛けておいた紺色のカーディガンを、あらためて羽織ることにした。


 そうしておいて彼女は、いつもふたりですわっていた、アルミステップのところにまで行くと、一年分だけサビのふえたその居場所に、すこしためらいはしたものの、ポケットにいれておいたタオルハンカチで、二・三度そこをかるく払ってから、こちらもゆっくりと、そのちいさな腰を落ち着けた。


 するとそこに、またひとり別の少女、中村光希が、ぼさついた頭のままにやって来て、すこしの間、すわる花乃のあたまのうえを、じっと見詰めていたのだが、なかなかじぶんに気付いてくれない彼女に腹でも立てたのだろうか、こちらは、サビもホコリもはらわぬまま、なかば彼女への非難もこめた感じで、いつもふたりですわっていた、そのアルミステップへと、ちいさな腰を、おろした。


「なんだかひさしぶりね、ここにすわるの」光希が言った。


「もう、一年経つのね」花乃が言った。


「ひさしぶりじゃない? 会うのも」光希は続けた。


「ここに来るのも」花乃は続けた。


「景色は変わんないけどね」と、光希。


「校庭のさくらも変わんないのに」と、花乃。


「“ねんねんさいさい、はな……”なんだったっけ?」


「ヒカルちゃん……」


「うん? なに? ハナちゃん」


 ゴオッ。


 と、ここで一瞬、出番をあせった春の嵐が、彼女たちの言葉を邪魔した。が、直後――、


 アハハ。


 と、わらう光希のこえが、おそい春の空に響き、その風を追い払った。


「バッカじゃないの?」あらためて花乃の顔をのぞき込みながら光希はわらい、「あたしがそんなことしたら、ハナちゃんが泣いちゃうじゃん」そう言って続けた。


「ごめんなさい」花乃が言った。


「なんで、ハナちゃんがあやまんのよ」光希は応えた。「ちょっとした、カンチガイかなんかでしょ?」


 が、それでも花乃は、「ごめんなさい」そう繰り返すと、くもり出したメガネをはずし、さきほどのタオル地のハンカチをもういちど取り出そうとして、「ほんと、ごめんなさい」そう続けた。


「ちょ、ちょっと、どしたのよ、ハナちゃん」


 そう光希は訊くが、彼女のことばは、花乃には届いていないようである。


 だからだろうか彼女は、取り出したタオルハンカチを、そこに先ほど付いたかもしれないサビやホコリを気にする間もないままに広げ、それをそのまま、両の目に当てた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」花乃は続けた。


「ちょっと、やめてよ、ハナちゃん。そんな――」光希も続けた。「ねえ、なに? ごめん。ほんとなに? なんなの? わたしまたなにかやっちゃった? ねえ、わたしがわるかったんならさ、わたしがあやまるからさ、ねえ、ちょっと、ハナちゃん」


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」


「ねえ、やめてよ、ハナちゃん。そんな、そんな、なみだなんか――」


     *


 その日の朝、浅井花乃は、母親から、公園横の花屋の開店時間が、10時であることを聞かされると、それでは待ち合わせに間に合わなくなるとでも考えたのだろう、すこし遠まわりにはなるが、川のほとりにある、ちいさな花屋の方へ向かうと、そう母親につたえた。


「あちらのお姉さまによろしく」母親は返すと、すこしほつれた娘の前髪を、すっと、直してやった。


     *


「あ、そんな、気にしなくてよかったのに」待ち合わせの図書館で、“あちらのお姉さま”は言った。「お花なら、昨日うちの両親も持ってってたし」


「でも、わたしのはちょっとですし」と、ひさしぶりに買った花の値段――それは中学生の彼女には少々痛手だったが――を想い出しながら、花乃は応えた。「手ぶらってのも、やっぱり」


「そうかな?」


「そうですよ」


「うん。だったらよろこぶわよ、やさしいのね、ハナちゃん」


 そう言って、“あちらのお姉さま”は、大きく笑った。ちょっとだけ、こころがつまる感じがした。


     *


 ある年のクリスマスの前夜、中村光希を待つ浅井花乃のまえを、黒い服を着たふたりの男が、とおり過ぎて行ったことがあった。


 ひとりは、花乃の父親とおなじくらいの年格好で、花乃の父親とおなじくらい、見た目にもすぐ安物とわかる、冬物のコートや帽子を着けていた。


 またもうひとりは、花乃の祖父とおなじか、それよりすこし若いくらいの老人で、こちらは、中学生の花乃にもすぐに高級だとわかる、しかしとっても質素に見える、コートや帽子、それに靴を履いていた。


 老人はおおまたで、せかせかとあるき、むっつり口を閉じ、じっと前だけを見詰めていた。


「それはあんまりじゃないですか? 伯父さん」安物コートの男が言った。「かりにも友達だったんでしょ?」老人のあるく速度に合わせるためか、すこし息が苦しそうだった。


「友人などではない」老人は応えた。「ただの、共同責任者だ」有無を言わせぬ口調であった。


「だからって、唯一の受取人が参列しないだなんて」安物コートは言った。


「仕事がある」老人は応えた。「それに手続きなら、すでにすましてある」


「だからって」


「うるさい」


 老人の剣幕に男は、すこし気圧されたようすであったが、それでも、「でも、」と、足もとの氷で滑りだしそうなからだを踏み止まらせながら続けた。「伯父さんにとっても、たったひとりの、ともだちだったんでしょ?」


「ともだち?」足を止め、老人はふり返った。「わたしはあいつの、唯一の遺言執行人で、唯一の財産管理人で、唯一の遺産相続人ではあるが、あいつとわたしが友人だったことは、ただの一度もないぞ」


「じゃあ、なんだったんですか?」男が訊いた。


「ふん」と、ふたたび老人は前を向き、「いま言ったとおりだ」止めていた足を動かしはじめた。


「どしたの、ハナちゃん?」さって行く老人の背中を見詰める花乃に、光希が声をかけた。「ごめんね、お待たせ」


 花乃は光希の、この「ごめんね」がきらいだった。


 こころがこもっていないとか、口ぐせのようになっているとかではなく、ほんとうにそう想っていることが、ちゃんと伝わってはくるのだが、いや、ほんとうにそう想っていることが伝わってくるからこそ、そのタイミングや声のトーンや、こちらを向いてくれない彼女のひとみが、花乃にはどうしてもたえられなかったのである。


「ほら、行こうよ」彼女の手をとる光希の手には、ぼろぼろの手袋がはめられていた。「お店、しまっちゃうよ」数年前のクリスマスに、花乃が贈ったプレゼントだった。


「手袋、そろそろかえたら?」なにも考えずに決めた安物だった。


「なんで?」とおりのライトに照らされた、彼女のしろい肌がむだにキレイだった。「せっかくハナちゃんにもらったやつじゃん」そう言ってわらった。


 花乃は光希の、そんなわらい声も、きらいだった。


     *


「ウィンナロールとコロッケパン、どっちがいい?」公園のベンチにすわる花乃に、“あちらのお姉さま”は訊いた。「どっちもおいしいけど、がっつり系ならコロッケパン、コーヒーに合うのはウィンナー」そう言ってボトル缶のコーヒーをわたす。


 ベンチのまえの公園池では、黄色い目をしたキンクロハジロが、呆けたかおのまま、北に飛ぶのを忘れていた。


「じゃあ、」と言いかけて花乃は、こころなしか、“お姉さま”の手もとに寄せられているコロッケパンには目をつむり、「ウィンナロールで」そう答えることにした。


「やった、」と、さすがに声には出さなかったものの、すこしうれしそうな顔で“お姉さま”は、花乃のよこにすわると、「あ、」と、池のほとりを指しながら、「ちょっと、ヒカルに似てない?」と言った。


 ピピピ。と鳴く、あおいろのカワセミだった。


     *


 また、ある年のハロウィンの午後、まだまだあおいイチョウ並木のしたを、数匹の子どもオバケとドラキュラと、リードをのがれたビーグル犬が、かけ抜けていったことがあった。


 ちょうどそのころ中村光希は、年のはなれた姉から借りた、いちまいのCDアルバムについて、とくにその最後の曲について、ながくてあつい長広舌を、浅井花乃にしていたのだが、「それでね、さいごにね、“きっとかわいい――」と、彼女が言いかけたところで、「すみません。犬とオバケと吸血鬼を見ませんでしたか?」オレンジ色のリードを持った女性が、彼女たちに声をかけた。


 彼女のはしって来た向きやいきの弾ませかたから、先ほどのオバケたちのことを言っていることは、花乃や光希にもすぐに分かったので、まずは花乃が、「あっち、」と西を指差し、「レモンカラーの子ですよね?」花乃のかたに手をかけながら光希が続けた。


「ええ、はい、その子たちです」女性は走り出し、「がんばってくださいねー」と、ほそい右手をおおきく振りながら光希は応えた。「きっと追いつきますよー」そでのすきまから、あおい、なにか模様のようなものが見えた。


「追いつくといいよねー」光希がカラカラとわらい、花乃はやはり、そんな彼女の笑顔を、きらいだと想った。


 なぜ、他人のために、そんなふうに笑えるのだろうか? 花乃には分からなかった。


 わたし達には、いや、光希には、他人のために笑うまえに、やるべきことがあるハズなのに。


「でねでね、」歩き出した光希が、花乃のほうをふり返った。「どしたの? 行こうよ」音楽の続きを、話したがっているようだった。「だからさ、ハナちゃんもさ、ぜったいいちど聴いてみてよ、ぜったい泣いちゃうから」


 そういう光希のことばを、花乃はやはり、きらいだと想った。


 なぜ、絵空事をうたった歌に、そんな涙をながさないといけないのだろうか?


 わたし達には、いや、光希には、他人のために泣くまえに、泣くべきことが、あるハズなのに。


    *


「じゃあ、きょうはほんとありがとね」駅前の改札で別れぎわ、“あちらのお姉さま”は言った。「ほんと、家までおくらなくていい?」


「はい」すこしでも笑顔になるよう、花乃は応えた。「このあとちょっと、よるところもありますし」


 ポォン。という音がして、駅のなかから、誰かをよぶ構内放送が聞こえた。


 そのためふたりは、しばし会話をやめ、あかるくひかる駅の構内へと、その顔を向けていたのだが、不意に“お姉さま”が、「ほんと、」と、あちらを向いたままのかっこうで、「きょうはほんと、来てくれてありがとね」そう続けた。「あの子も、よろこんでたし」その言葉にうそはなかったが、それでもそれは、確認のしようのないうそでもあった。


「だといいんですけど」だれにも聞こえないこえで、花乃はこたえた。


「ほんとよ?」こちらに向きなおりながら、“お姉さま”は言った。「あの子ほら、ともだちいなかったし」花乃のきらいな、あの笑顔に、とてもよく似ていた。「ほんと、いい子よね、ハナちゃん」


「そうですか?」またふたたび、すこしでも笑顔になるよう、花乃は応えた。「そうだといいんですけど」そうしてそのまま、「そんなんじゃないんです」と、またふたたび、だれにも聞こえないこえで、彼女は続けた。「そんなんじゃ、ないんですよ」


     *


 また、これはある終戦記念日の朝、区民プールへと向かう浅井花乃のまえを、しろい長袖シャツの中村光希が、歩いていたことがあった。


「ヒカルちゃん!」花乃は彼女を呼び止め、そのまま抱きつこうとしたのだが、声をかけられた光希のからだが、はためにもわかるぐらいに、固まり動揺しているのが分かったので、彼女は、その走るいきおいを弱めると、


「ハナちゃん?」と、おどろいたような、安心したような、いまいちばん会いたくないひとに会ってしまったような、そんな表情の彼女のまえに、ゆっくりと立ち止まることになった。


「どうしたの?」光希が訊いた。


「プール行くんだ!」花乃はこたえ、「ヒカルちゃんもいっしょに――」そう続けようとして、いつもとちがう光希のようすに言葉を飲み込むと、「ヒカルちゃんは?」と、無邪気さのぬけない自身の声に、すこしいらだちをおぼえながら、訊いた。「どっか行くの?」


 この日の光希は、その服のせいだろうか、いつもよりすこしだけ、大人びて見え、少年のようなかっこうをした花乃は、それをとてもうらやましく想ったし、まっしろなミルクのような彼女のカーディガンのすそを、そっと握ってみたいとも想った。


「ううん」光希がほほ笑んだ。「ちょっと、歩いてるだけ」いつもとちがう、笑顔だった。「しばらくしたら、もどるの」


 花乃は、彼女の笑顔が、ずっとずっと大好きだったが、その日の笑顔は、花乃の知っている、彼女の笑顔では、なかった。


「そう?」そう言って花乃は、自分でも気付けないあいだに、彼女との距離をとると、「じゃあさ、」少年のような自分の声を、とてもうとましく想った。「気が向いたらおいでよ」こちらを向く光希の顔をキレイだと想い、「きっと楽しいよ」と同時に、はじめて、彼女のことを、キライだ、と想った。


     *


「あ、」学校へむかう並木道をあるきながら、浅井花乃は想った。「借りていたものを、返しわすれた」肩からかけたショルダーバッグを開いた。


 いれっぱなしのハンカチや、青いカバーの短編小説のうえに、それは置かれていた。


「借りたのはヒカルちゃんからだったけれど」もとをたどれば、このアルバムは、あの“お姉さま”のものだ。「どうしよう?」ふざけた顔で犬がわらっていた。


 けっきょく彼女はいちども、光希が聴かせたがっていたこの音楽を、そのさいごの曲すら、聴いたことはなかった。


     *


 また、これはまた、ある春の日の、べつの午後の日のはなし。


 なごりおしそうなはなたちが、週末のあめにうたれ、ちっているそのよこを、中村光希が、浅井花乃の家のとびらを、かるく、たたいたことがあった。


 しかし、この日の花乃は、ちょうどおなかのいたい日で、光希にあうことを、ベッドのなかで、こばんでいた


「ごめんね、ヒカルちゃん」玄関先ではなす母親と光希の会話を、二階のベッドで横たわりながら彼女は、まるでどこかとおい世界の出来事かのように、聞いていた。「伝言とかあれば、つたえておくけど?」なので、このとき彼女がなんと言ったのかは、花乃はもちろん、彼女の母親も、けっしておぼえてはいない。


     *


 また、これはまた、おなじ春の日の、べつのよるの日のはなし。


 浅井花乃は、こんな夢を見た。


 その夢のなかで彼女は、奇妙な色のパナマ帽をかぶり、ずっと以前につぶれてしまった果物屋のベンチにすわって、ずっと光希を待っていた。


 果物屋の店先には、いろいろみごとな果物が置かれていて、ずっと奥まで、それらを見渡せるようになっていた。


 ビワや、リンゴや、バナナや、スイミツトウが、すぐにでもみやげ物に持っていけるよう、二列にならんでひかっている。


 花乃は、手をのばして、そのきれいなスイミツトウを、ひとつ、とろうとした。


 しかしそれは、そこの棚にくっついてはなれないようだった。


 こまった顔の彼女をみて、おんな店主が、くすくすとわらった。「にせものなんだよ、お嬢ちゃん」


 そこで、目が覚めた。


     *


 また、これはまた、おなじ春の日の、つぎの日のあさのはなし。


 浅井花乃は、彼女のおなかは、まだすこしいたんでいたけれど、ねまき姿のまま、一階に降りると、なにか食べるものはないか? そう母親に訊いた。


 しかし母親は、手にした水色のスマートフォンを、つよくにぎりしめたまま、彼女にまずは、いすに座るよううながした。彼女のむすめが、おおきなショックを受けるだろうと、そう考えたからである。


 浅井花乃は、母親のはなす言葉の意味が、最初よくわからなかった。


 わからなかったが、それでも、食欲が失せたのだろうか、おなかのいたみは残っていたけれど、「わかった」とだけ応えると、二階の自分のベッドへともどり、そのまま、また、二時間ほど、ねむった。


 そうして、窓をたたく春の嵐に目を覚まされると彼女は、しばらくのあいだ、くらくてしろい天井を、みるともなしにながめていたのだが、きのう聞こえた光希のこえを想い出し、ほんのすこしだけ、なみだを流した。


     *


 また、それからこれは、それから一年ほどが経った、ある春の日の、べつの午後の日のはなし。


 その日の午後、浅井花乃は、休日の校舎にひとりしのび込むと、つい一年ほどまえまでは、毎週のようにやっていたのと同じように、体育館裏のさび付いた非常階段をゆっくりのぼると、そこから、誰もいないはずの、立ち入り禁止になった屋上へはいって行った。


 その日の午後の空はたかく、風はいまは弱かったものの、すこし寒さを覚えたのだろうか彼女は、かばんに引っ掛けておいた紺色のカーディガンを、あらためて羽織ることにした。


 そうしておいて彼女は、いつもふたりですわっていた、アルミステップのところにまで行くと、一年分だけサビのふえたその居場所に、すこしためらいはしたものの、ポケットにいれておいたタオルハンカチで、二・三度そこをかるく払ってから、こちらもゆっくりと、そのちいさな腰を落ち着けた。


「もう、一年経つのね」花乃が言った。


 だれも、なにも言わなかった。


「ここに来るのも」花乃は続けた。


 だれも、なにも言わなかった。


「校庭のさくらも変わんないのに」と、花乃。


 だれも、なにも言わなかった。


「ヒカルちゃん……」


 だれも、なにも言わなかった。


 ゴオッ。


 と、ここで一瞬、出番をあせった春の嵐が、“彼女たち”の言葉を邪魔した。が――、


 それでも、だれも、なにも言わなかった。


 ただ、あわてもののその風だけが、おそい春の空に、追い払われて行った。


「ごめんなさい」花乃が言った。


 それでも、だれも、なにも言わなかった。


 が、それでも花乃は、「ごめんなさい」そう繰り返すと、くもり出したメガネをはずし、さきほどのタオル地のハンカチをもういちど取り出そうとして、「ほんと、ごめんなさい」そう続けた。


 それでも、だれも、なにも言わなかった。


 だからだろうか彼女は、取り出したタオルハンカチを、そこに先ほど付いたかもしれないサビやホコリを気にする間もないままに広げ、それをそのまま、両の目に当てた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」花乃は続けた。


 それでも、だれも、なにも言わなかった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 この屋上が立ち入り禁止になったのは、中村光希の事件があったからだった。


 なぜ彼女が、浅井花乃との想い出のあるこの場所を、その舞台に選んだのかは不明だが、それを花乃は、この一年をかけて、なにかのメッセージだったのではないか? と、解釈するようになっていた。


 あたまのわるいおとなたちが、急ごしらえでおいた手すりやネットは、簡単にのり越え、はずすことができた。


 これも、なにかのメッセージなのだろうか?


 と、浅井花乃は想った。――“そこに弱いひとたちがいたから”?


     *


 さて。


 たとえばここでわたしは、この日、このあと起こったできごとを、資料にあるがままに載せ、このおはなしを、ここで終わりにすることも、出来る。


 出来るのだが、しかしそれは、「ぜったいに、このおはなしを書いて欲しい」そう作者に命じた、中村光希の想いを、それこそ、うばってしまうことにほかならず、それだけは、そのことだけは、ぜったいに、避けなければならない。


 たとえ、現実が、すこしも変わらなかったとしても、たとえ、罪人が、このまま罰を受けぬままであったとしても、たとえ、世界が、このまま終わりを告げるのだとしても、物語は、救われなければ、ならないのである。


     *


 『街に真っ白いミルクを買いに行く途中、

  それを見たバックシートの男は、

  12月生まれの山羊座で、

  第三次世界大戦の、シナリオライターを、目指している。』


     *


 そう。

 それはきっと、わたしのことでもあった。


     *


 『日傘をさして歩く彼の恋人は妊娠中で、

  おなかのなかの赤ちゃんは、きっとかわいい女の子さ!!』


     *


 ゴオォオッ。


 と、さきほど出番をあせった春の嵐が、飛び立とうとする花乃のからだを、屋上へと押しもどした。


 ハナちゃん!!


 どこからか、光希のこえが聞こえた。


 屋上のよごれた地面にこしを落としながら彼女は、その声のほうへと、顔を向けた。


 が、しかしそこには、ただ、春の風の花びらと、つめたい空気が、はりつめているばかりであった。



(了)

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― 新着の感想 ―
「物語は救われなければならない」という言葉が、強く心に残りました。読後、静かで深い余韻が残る、そんな作品でした。
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