七瀬 美穂は雪を溶かす
大塚電機の事務所で内線電話が鳴った。
七瀬 美穂は受話器を取った。12月、暖房が入っているがやはり寒い。三十代も後半に入り、以前より寒がりになったような気がする。
美穂は制服の上に、私物のカーディガンを掛けている。
「はい、発製課です」
発電機製造課、略して発製課。課員20名。半年前から、この会社に派遣社員として勤め始めた。言いにくかったこの略称も自然に言えるようになっている。
前任者の片山 沙奈の丁寧な引き継ぎもあり、仕事に慣れるまで大した時間も掛からなかった。沙奈は、25才で既婚者。妊娠を機に退職した。「辞めたくなっていたから丁度よかった」らしい。
「あっ、七瀬さん? ラッキー」
電話の相手は、美穂が出たことを喜んでいる。
「……橋本さん、どうしました?」
――私が出て、なにがラッキーなんだか。この子は。
美穂は36才。橋本 聡志は24才。同じ干支で一周違う。
橋本は、美穂本人が理解出来ないほど美穂に懐いていた。「七瀬さんって、なんか可愛らしいよね。頭、撫でていい?」と真正面から言ってくる。
美穂は半年前の歓迎会の挨拶で、はっきり全員に伝えたのだ。
「七瀬 美穂です。よろしくお願いします。歳は36才なんですけど、子供はまだ小さくて2才です。子供のことで残業出来なかったりします。主人も忙しくて……。すみません」
36才の既婚者で子供が一人と。そもそも独身だったとしても、橋本とは年齢差が12才もある。
沙奈から引き継ぎを受けたとき、「気を付けるべき男性たち」を数人、こっそり教えられた。その中に橋本はいなかった。
沙奈は、まず課長の大島を挙げたのだ。沙奈は妊娠したことを報告する際にも、下品な冗談を言われたらしい。
「……七瀬さん?」
橋本の声に美穂は我に返る。
「あっ、ごめんなさい」
「おおっ!」
電話口から橋本の驚いた声が聞こえた。
「橋本さん?」
何に驚いたのか、美穂には全く分からない。
「いや、今まで『すみません』だったのに『ごめんなさい』って言われたから。仲良くなった感じする」
「はあ……。何言ってるんですか……。橋本さん、何かあって電話掛けてるんですよね?」
美穂は、淡々とした口調を意識して話す。
「あっ、忘れてた。えっと……」
美穂は橋本からの問い合わせ、部材の入荷予定日を伝え、電話を切った。
――変わった子。
しかし、美穂も橋本に悪い印象を持っているわけではない。腹も立たない。
橋本は「彼なりの線引き」を守っていると思っていたから。
美穂のことを必ず「七瀬さん」と呼ぶ。職場の年配の男性には、課長の大島をはじめ、「美穂ちゃん」と呼んでくる男性が少なからずいる。
美穂の個人的な連絡先を訊いて来たりしない。
美穂に指一本触れない。触れようともしない。
なら、悪ふざけで「オバサン」を喜ばせて面白がっているだけ?
美穂には、そうとも思えない。引き継ぎを受けていない現場の事で困っていたら、いつも橋本が助けてくれている。だから、悪い印象がないのだろう。
もし、私があの子と同世代で独身だったら?
そんなことを考えてしまい、美穂は苦笑いをした。
私には優しい夫と可愛い子供がいる。十分、幸せなはず。バカバカしい。
自分に言い聞かせたが、「言い聞かせている自分」に違和感を感じてしまう。
美穂は、それを静かに押し殺した。
数日後、美穂は総務課から書類を受け取り、内容を確認した。かなり急ぎの案件であり、班長の中山の指示が必要だった。
「大島課長、中山班長は現場ですか?」
「ああ、塗装ブースにいるはずだけど?」
大島はパソコンから目を離さず答えた。「オバサン」には興味がないらしい。必要最低限の会話しかしない。
「あっ、美穂ちゃん、現場行くならヘルメットしてね」
「はい、大丈夫です」
美穂は事務所出口近くの棚へ向かい、「七瀬」と表示されたヘルメットを取り被った。
事務所を一歩出れば、そこは「現場」。クレーンや溶接機が稼働し続けており、ヘルメット着用が義務となる。
定められた歩行ルートを歩き、塗装ブースへ向かう。
美穂は、塗装ブース手前の「加工班作業エリア」の奥で橋本が作業をしているのを見付けた。グラインダーで金属のバリ取りをしている。
橋本は美穂に気付き、「ニッ」と笑いかけた。
美穂は慌てて会釈をし、先に進んだ。
「なんで気付くのよ……」
独り言を言ったとき、ハッとした。
私が気付かれるまで突っ立ってたからよ……。また「自分は幸せだ」と言い聞かせるつもり?
無意識に書類が入っている封筒を強く握ってしまう。シワが入る。
塗装ブースに入ると、3メートルくらい先に中山の背中が見えた。ドラム缶のような巨大な鋼材に吹き付け塗装をしている。フレームと呼ばれる物で発電機の外装に使用される。
溶剤による中毒を防ぐため、強力な排気装置の轟音が鳴り続け、中山は防毒マスクと騒音作業用耳栓を着けている。
美穂は中山の背中に向かい、大声で呼びかけた。
「中山さぁんっ! 中山班長っ!」
何度呼びかけても、中山は気付かない。美穂の声など聞こえていない。
美穂は途方に暮れた。
しかし、このまま塗装が終わるまで待っている訳にもいかない。
いくら呼んでも無駄よ、肩をたたくしかないわ。
美穂は決意し、中山の背中へ近付いていく。
手を伸ばせば届く距離になった。
中山は全く気付いていない。ここで大声を出しても結果は変わらないだろう。
美穂が中山の肩に触れようとした時――――
「七瀬さんっ! ダメだ!」
橋本の鋭い声が背後から聞こえた。振り返る。
橋本がブース入口にいて、真剣な眼差しで手招きをしている。
轟音が響くブース内を戻り、橋本の元へ向かう。
橋本がため息をついた。
「……七瀬さん、何も聞こえていない作業者にいきなり触るのは御法度だよ。めちゃくちゃ驚くし、それで手元が狂う。不良品になるだけならまだマシで、作業次第じゃマジで命に関わる」
美穂は、自分がやろうとしていた事の危険性に気付かされた。謝罪する。
「……すみません」
「あっ、ごめん。別に責めてる訳じゃないから。ちょっと待ってて」
橋本は中山へ向かった。中山の後ろではなく横へ行った。
ある程度の距離があり、中山の視界の端に入りそうな位置から大きく両手を振る。
中山が気付いたらしく、手元のスイッチを操作した。排気装置が止まり、ブース内は静かになる。
中山は防毒マスクと耳栓を外す。
「おお、橋本。どした?」
「七瀬さんが用事あるみたいっすよ」
橋本は、ブース入口に突っ立っている美穂を指差した。
「美穂ちゃん、ごめーん。気付かなかったよ。ちょっと待ってて」
中山が美穂に声を掛けた。
その様子を確認して橋本はブース入口に戻った。
「じゃ、後は大丈夫だよね?」
「……ありがとうございます」
橋本は「ニッ」と笑い、自分の作業場所へ帰って行った。
中山との書類確認を済ませ、美穂は塗装ブースを出た。橋本の作業場へ向かう。橋本は椅子に座り、図面を確認している。
「橋本さん、さっきはありがとうございました」
橋本は図面から目を上げ応える。
「うん、役に立った?」
「はい、すごく」
「……じゃあさ」
橋本は立ち上がった。美穂を見下ろす。
美穂は「いつもの冗談」を言われるのを待った。
「頭、撫でていい?」
美穂はため息をつき、応える。
「やっぱり言いましたね。……ダメですよ」
今度は橋本が大袈裟なため息をつく。
「そっか。じゃあ、おしり触っていい?」
――こっ、これは新しいパターンね。
「……もっとダメです。だいたい橋本さんは、もし私が『触っていい』って言っても触らないですよね?」
橋本は一瞬真顔になったが、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「うん、確かに七瀬さんがそんな女性なら触らないよ。七瀬さんは冗談でも『触っていい』とか言わないからいいと思う」
「全く……。私じゃなかったら、セクハラで大問題になりますよ」
一言、注意して事務所に戻ろうとした。
「七瀬さんにしか言わないよ」
背中に小さく聞こえたが、聞こえていない振りをした。
心の中でさざ波が起きている。それに焦り、恥じていた。
―――――――――――――――
12月最終金曜日。
美穂は発製課メンバーと近所の居酒屋の大座敷にいた。忘年会。ほぼ全員参加している。
酒が苦手な美穂は烏龍茶を飲んでいた。
忘年会も終盤に差し掛かった頃、大島が美穂の隣に座り、あぐらを組んだ。かなり酔っている。
「美穂ちゃん、呑んでる?」
「いえ、私はお酒呑めないんで……」
「そっか。美穂ちゃん、仕事慣れた?」
「美穂ちゃん」と呼ばれることが、今日は妙に気持ち悪い。
既に慣れたと思っていたが、そうではなかったらしい。
「沙奈ちゃんは仕事に慣れたってときにオメデタで辞めちゃったけどさ、美穂ちゃんはそんな予定ない?」
なんとも嫌な話題に進んでいることを感じた美穂だったが、受け流そうとした。
「いえ、もう36才ですから……」
大島は下品な笑いを浮かべた。
「何言ってんの。美穂ちゃんなら、全然イケるよ。オレ、イケる、イケる」
上から目線の小馬鹿にしたような物言いに、温厚な美穂もさすがに腹が立つ。笑顔のまま、ピキリとなった。
酔い醒ましに、この烏龍茶を顔にかけてあげましょうか?
そんなことを考えてしまったとき――
「課長、飲み過ぎっすよ。はい、そろそろお開きだから、締めの挨拶お願いします!」
いつの間にか、橋本がいて大島の腕を掴んで連れて行ってしまった。
「おい、橋本! なんか痛えぞ! おい、そんな掴むな!」
「気のせいっすよ。酒のせいっすかねえ」
デタラメなことを言っている。
美穂がそんな様子を見ていると、不意に橋本が美穂を向いた。
なんとも悲しそうな、申し訳無さそうな目をしている。
君は何も悪くないじゃない。そんな目をしないでよ……。
忘年会は、無事お開きになった。橋本がいなかったら、どうなっていたか美穂は分からなかった。
――――――――――――――――
5分後、美穂は信号の押しボタンを押し、信号が青になるのを待っていた。身体は冷え込んでいて、気持ちは落ち込んでいた。
「はあっ……」
闇の中、息が白く浮かぶ。
何やってんだろう、私。お酒の席での話で、本気で怒ったりして。子供じゃないんだから。いい歳して……。
「七瀬さん」
不意に呼ばれて、美穂は「ひゃっ」と声を上げてしまった。
振り返ると橋本が立っている。
「橋本さん……。ビックリさせないで下さい。二次会、行かなかったんですか?」
「うん、そんな気分じゃないし。それより、さっきはゴメンね」
橋本は美穂に向かい、両手を合わせた。
「ビックリさせたことなら、もう大丈夫です」
橋本は合わせていた両手を元に戻した。
「……分かってて話を逸らさないでよ。課長、課長」
「橋本さんが謝ることないですよ」
美穂はなんとか笑顔を作り、応えた。橋本に謝罪されると、更に落ち込む気がしている。
「うん、まあ、もっと早く気付けていたらなって思って」
――何故、そんなに私のことを気にするの? ホントに分からないのよ、私。
「橋本さん、何故ですか?」
美穂は、あえて短い質問をした。
コレで伝わらないなら、美穂は「自分の勘違い、思い上がり」で片付けるつもりだった。
橋本は冬の夜空を見上げる。
「そっか……」
一言だけ言って、真剣な眼差しで美穂を見下ろす。
「七瀬さん、歓迎会の自己紹介で『36才です』ってハッキリ言ったよね。それで『ああ、この女性いいなあ』って思ったから」
「それだけ!?」
「うん、堂々としてて、サッパリしてて見惚れてた」
美穂は驚いた。自分の質問の真意が伝わったことにも驚いたが、それ以上に橋本の答えに驚かされた。
「うん、まあ、それが『きっかけ』かな。実際、七瀬さん可愛かったしね」
「橋本さん、いくら歳が離れていても『可愛い』とか言っちゃダメです。もし、勘違いされたら大変な事になりますよ」
今、心が揺らいでいる自覚が美穂はある。それが恥ずかしい。怖いとも感じる。
――そう、今の私は勘違いしそうになってる。目を覚まさせて。お願い。
「オレは七瀬さんのこと、可愛いと思う。でも、七瀬さんは『奥さんでお母さん』だからね。迷惑かけないよ。もう、かけてるかも知れないけど」
この言葉を聞いたとき、美穂は自分の心の中の動きが理解出来なかった。納得出来なかった。
傷付いていた。
失望していた。
腹を立てていた。自分に対してか、橋本に対してかさえ、分からない。
奥さんでお母さんか……。結局、「よその奥さんでお母さん」なのよね、私。
ちゃんと常識があって、踏み外さないのよね、橋本さん。
「……橋本さん」
「なに?」
美穂は、橋本の目を真っ直ぐ見て呼びかける。今まで橋本が知らなかった美穂の目。その目は「奥さん」でも「お母さん」でも「事務員」でもない。
二人の間の空気が変わる。二人の間の予定調和が歪む。
「今日は『頭、撫でていい?』って訊かないの?」
ほんの少し、間をおいて橋本は返す。
「いいんですか?」
「ダメに決まってるわ」
「じゃあ、なんで……」
美穂は橋本が言い終わるのを待てなかった。
「頭を撫でるなんてダメ。キスならいい」
橋本は目を見開いた。
「七瀬さん、何故ですか?」
先程の美穂と同じ言葉を言っていた。
美穂は目を見たまま答える。
「私が女だからよ。ただそれだけ」
橋本はもう、何も言わなかった。
腕を伸ばし、美穂の両肩を優しく掴む。美穂の身体が小さく震える。
二人は目を閉じて、口づけを交わす。長く静かに。優しく――――
そのとき、雪が降りだした。
頬に舞い降りた雪は一瞬で美穂に溶かされた。
最後まで読んで頂けて嬉しいです。
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