「外来語」でわかる認識の穴
外来語とは、ひとくちに言えば「自国の言語にない要素を表現するために別の言語からそのまま引用された単語」です。非日常を演出する目的で自国の言語にすでに含まれている内容の用語をあえて外国の言語で表現する場合とは異なります。
このことからわかるように、各国の言語は表現システムとして等価ではありません。それぞれの言語にのみ存在する単語や表現があり、完全な翻訳が難しい場合が多々あります。
「ダジャレ」などを思い浮かべて頂ければ表現の言語間翻訳の難しさは容易にわかるでしょうし、「日本語は降水が多いため『雨』を表現する単語が極めて多岐にわたっていて、わずかな雨の様相の違いを『梅雨』『霧雨』など異なる単語を用いて表現し分けている」といった言語の特徴を取りあげる人も多いです。
つまり、外来語が用意されるのは自国の言語に「それ」を表現する適切な概念が存在していないことを意味します。
もちろん、外国語から輸入された新しい概念も、時間がたつにつれて、やがて自国の言語として再定義されていくことになります。料理名などの固有名詞はそのまま用いられ続けることが多いのですが、概念を示す用語は利便性を上げるため自国語にすることが望ましいですから。日本においては『コロッケ』や『カステラ』などがそのまま用いられ続ける一方で、大正期や明治期にドイツなどの学術書を翻訳する過程で数多くの概念が日本語化されていきました。哲学をはじめとした学術用語にその例を多く見ることができます。
逆に言えば外来語が他国の発音そのままに使われているならば、その概念が輸入されてから十分な期間が経過しておらず、自国の言語に『馴染んでいない』ということになります。
先の東京2020オリンピックでも、「がんばれ、ニッポン!」と印刷された日本のグッズと、「ファイティン!(Fighting)」とシールの貼られた某国の「放射能フリー弁当」を見れば、両班制度により「生来の徳に応じた身分、身分に応じた待遇」が定められた社会では自分の環境を向上させるため「頑張る」という概念が芽生えてこなかったことが見て取れます。
それは社会の優劣を示すものではなく、社会の個性を示すものです。しかしながら、外来語を用いて自国の文化における認識の偏りを自覚することは、自国の客観視という目的において非常に有用なアプローチではないでしょうか。