〜2〜
「へぇ、先輩が夏休みね。羨ましいかぎりですね全く」
岸川一成は、デスクの上のどこを見るわけでもなく言った。服装が金曜日のものから変わっていないところを見ると、一昨日から泊り込みで仕事をしているのだろう。その所為か、どことなく目の焦点が合っていない。悪いな、先輩はお先に遊んでくるぜ。
「ま、いいんじゃないですか。俺も最近の先輩は少しお疲れなんじゃないかな、なんて思ってたんですよ」
本当かよ、このファッキン野郎。お前いつも女しか見てないじゃねぇか。なんてことを考えながら荷物をまとめる俺を、真紀と裕美が心配そうな表情で見つめていた。適当に微笑みかけておく。
「でも洋介、お前この一週間で何か見つけないと、マズいんだろ?大丈夫か?」
と淵本がペン先を、俺の顔の前でぶらんぶらんさせながら聞いてきた。
「大丈夫だよ幸人。なんとかする。一週間もあれば大丈夫。」
落ち着いて言ったつもりだったが。大丈夫と二回も言ったことで、内心焦っているのがバレバレだったかも知れない。
淵本とは高校の頃からの知り合いだった。大学は違ったものの、高校時代は同じクラスで何かと馬の合う話相手であった。後で話すことになるが、自分が短大に通っていたときや、フリーターをやっていたときも淵本とはたまに連絡を取り合う仲であった。この会社で巡りあったのは全くの偶然であったが。
淵本は主にゲームの土台となるシステム設計を担当している。二年前に俺が考案したゲームのシステムを作ったのも淵本だった。淵本もまだ二年目であるが、一発屋の俺と違い、その器用さと実力で社内でもかなり名の知れたプログラマーになっていた。
「それで、なにか当てはあるのか?洋介」
もちろんアイディアの事を言っているのだろう。
「いや特に。それに昨日実家に帰ったばかりなんだ。あまりもう遠出はしたくないな」
「実家は前橋だろう?ここから車で一時間半くらいじゃないか。そんなくらいで遠出とは、お前は行動範囲が狭すぎる。」
車で一時間半は遠出だ。と言い返そうとしたが、休み毎に海外へ飛び立つこいつには、何を言っても無駄だろうと諦めた。
「とりあえず、家で何か考えてみるよ。意外とアイディアは身近に落ちてるかも知れないだろ」
「ずいぶん楽観的ですね」
岸川が呆れたように言った。
楽観主義者じゃなきゃ、こんな仕事やってられるかよ。これ以上何か言われても暑苦しいので、さっさと退散することにする。
デスクの上に置いたままの携帯を鞄に押し込む。廊下へ続くドアを開けたとき、既に日が沈んでいるにも関わらず、生暖かい風が少し冷えすぎた体を包み込んだ。
帰り道のタクシーで携帯のカレンダーを見て、ふと再来週が自分の二十六の誕生日であることに気が付き、小さく舌を打った。御殿屋にとって二十六という年齢は、決してまだ若いと言える年齢では無かった。
御殿屋は短期大学を卒業した後、二年間フリーターをしつつ、個人で創作活動を行っていた。専門的な知識を何も持たなかった御殿屋は、ただひたすらに書き続けた。子供の頃から小説家に憧れていたため、フリーターとして活動していた二年間も、ミステリ小説や本格推理ものといったジャンルの「本」を創作していた。しかし、短大の時代から書き続け完成させた小説が、応募した企画から落選した。このとき御殿屋は、二日間何も食べることができなかった。
確かに詩的な表現や、言葉には問題点があったかも知れない。しかし御殿屋は自分の書き上げた作品の、そのストーリには絶大な自信があった。
この作品、もっと他で生かせないだろうか。
そう考え行き着いたものが、ゲーム会社への売り込みだった。
御殿屋は大、中、小、様々なゲーム会社を回り、会社の役員に直接交渉した。御殿屋は人生を懸けてそのゲームを売り込んでいた。 何度も断られ諦めかけたときに、今の会社である「MTエンタテインメント」の役員がこの作品に目を付けた。
その一年後、この作品はPCゲーム業界として爆発的なヒットを起こすことになった。小説作品として書き上げられたその作品の細かな表現や、今まであまり知られなかった推理ゲームの新感覚が少しばかりの「推理ゲーム」ブームを巻き起こした。
幾度も手直しを行ったが、それは紛れもなく御殿屋の作品であった。
御殿屋はそのまま会社に、シナリオライターとして採用され、社内でも一目置かれる存在にすらなった。
その作品こそが、「サイシュウテイリ」であった。訪れた知人の屋敷で、不可解な連続殺人に見舞われるものである。複線回収、緊迫した展開、犯人。全てが御殿屋の中で美学として完遂していた。
しかし、今の御殿屋にはその栄華は、銅鎖でしかなかった。
「もう二年か……」
囁くようにして放たれたその言葉はエンジン音の消され、運転席に届くことは無かった。
御殿屋が2DKの部屋の扉を開け、無造作に両手に持った荷物を床に放り出した。
とりあえず、パソコンの電源を入れ、その間に手を洗った。少し鏡を見てすぐに目を背けた。昔から、鏡、というものが好きではなかった。自分が写るから、ではなく、常に自分の後ろに何かが写りそうでならないからだった。ただの怖がりかも知れないな、とか馬鹿だな俺、とか自嘲しながらパソコンデスクの前に置かれた、ローラーの付いた座り心地のよくない椅子に腰を降ろした。
「五件の新着メール」と表示された画面を覗き、一つ一つメールの確認を始めた。
二件は真紀と裕美のものだった。内容は予想が付く、とりあえず放っておこう。次の一件は淵本だった。「面白いこと聞いたんだが……」と書かれた副題をクリックし、本文をウインドウに表示した。
『洋介 面白いことを聞いた
どうやらお前の作ったゲーム
「サイシュウテイリ」の改造版が ネット内で出回っているらしい
あくまで噂だが かなり見れたもんじゃない内容だそうだ
暇なら調べるのもまた一興……』
どういうことだ。改造版?一体なんだそれは。ゲームとして同人ものが作られるのはよくあることだろう。犯人を変えたり、証拠を変えたりして、難易度やストーリを変えているのだろうか。自分で言うのもなんだが、あれだけ売れたゲームだ。そんなものの一つや二つあるだろう。しかし、内容が見れたものではないというのは、一体どういうことなのだろうか。
時計を見ると、時計の針は二十一時ちょうどを指していた。
夕飯を摂るには少し遅い時間だ。
とりあえず、朝作り置いたベーコンエッグの残りを食べたあとに考えようと冷蔵庫まで歩を進めた。無意識に缶ビールを持ってきたことに気づき、これじゃ晩飯じゃなくて、つまみだなと少し呆れていた。
冷たくなったベーコンエッグを平らげた後に、ビールを一缶飲み干した。あまり酒類を好き好んで飲むほうではないが、真夏の仕事帰りだけは、この一杯に救われていると思う。
冷えた缶ビールをもう一缶持ってくると、それをちびちびと飲みながら、残り二件のメールを読むことにした。
一件は仕事関係のメールであった。現在アシスタントとして書いているシナリオが許可が出たとの事であった。自分はあまりこれには関わってかったので、すぐにゴミ箱へ捨ててしまった。
「ん、もう一つも淵本か」
副題の無いそのメールを開くと、三行の文が記してあった。
『さっき書き忘れたが
どうやら 舞条 のやつが帰ってきたらしい
一度会いに行ってみたらどうだ?』
「……余計なお世話だ」
メールのウィンドウを閉じると、パソコンの電源を落とし、ベッドに倒れこむように横になった。
夜を閉じ込めたような、長く、黒い髪。妖艶でキュッとした下唇。白く透けそうな首筋、威圧的で、それでもどこか悲しげな目線。
目を閉じて思い浮かべたのは、思い出の奥底で眠っていた一人の美しい少女であった。