三人目の乱入者
――再び夜。商店街大通り。
「なんだよ、ずいぶんと熱く語ってたじゃねーか。イメージがちょっと変わったぜ」
明かりが灯り賑わいだした街の喧騒に、ゼアルの声が混じる。何か言葉を返そうとしたが、ラビルの細い喉から音は発せられなかった。
「はいそうですかと踵を返して別の患者の所に行くか、この街を出るか。どちらかだと俺は踏んだんだがね。何、心を覗いたわけじゃない。この一週間ちょっとの短い付き合いでそんな返しをするんじゃないかと思ったんだ。で、これからどうする? インプが絶滅するまで狩り続けるか? 俺はお前が魔力をくれさえすれば別に構わんぜ」
考えてもアイデアは浮かばず、ゼアルの長々とした言い訳じみた声で頭の中が埋まっていく。
ゼアルの言う通り、ここでインプを狩り続けたところで何の解決にもなりはしない。インプ発生の要因は、この街に長く溜まった人々の不満や怒りといった負の感情なのかもしれない。さらに今やそれは、魔物の存在を認めようとしない故の、住人同士の猜疑心から生まれてきているものかもしれないのだ。
「インプを倒しても意味は無い」
「まったく意味が無いってわけでもないだろ。少なくとも俺たちが対処している間、不可解なトラブルは起こらない。何も起こらない日が続けば、あれは運が悪かっただけなんだ、カラスなんかの動物のせいなんだと、勝手に解釈するだろ人間は」
「……お互いの疑いを和らげるという意味では一理あるかもしれない」
「だろぉ? それでもういっそこの街を拠点にしちまえよ。港町も近いって通りすがったおっさんも言ってたし、お前の‘世界を救う旅’の拠点にするにも悪かねぇだろ」
「いや、それはない。一つの街には、患者の量や状態によるけど、せいぜい二週間くらいの滞在にとどめるつもりだからね」
「けっ、どこの旅人さんやら。じゃあ、ひとまずは昨日までと同じ行動で良いな? 宿に向かうか?」
「そうしよう。お腹も空いたし」
念話を終えて、ラビルは歩みを早める。結局昨日までと変わり映えしないことにはなりそうだが、何もしないで止まっているよりはましだった。
――。
商店街も終わりに差し掛かり、宿のある住宅街に向かう道に入ろうとして、ラビルはこの街ではこれまで感じたことのなかった気配をその身に浴びる。
方角は右斜め前方。ゆっくりとした速度で、このまま進めば目の前の曲がり角から姿を現すことになるだろう。
ラビルは指輪の填まった右の拳を握りしめる。
ペタ、ペタ、ペタ。
石畳を一歩一歩踏みしめる音が、目の前で止まった。
「おうおう、ニックのじーさんよりよっぽど重症患者だぜ、これは」
曲がり角から現れたのは、ほっそりとした男だった。頼りなさそうに猫背を丸めて、俯くその姿は陰湿そのものだったが、彼が纏う暗さはそれだけのせいではないようだった。
「あ、ぁ……もう、耐えられない……怖いんだ……魔物が、襲ってくる……!」
うわ言のように呟く男の瞳に、およそ光と呼べるものが宿っていなかった。濁った黒い瞳から流れ込んでくる感情は、恐怖、悲しみ、怒り。
「魔徒だ!!!! 魔徒が出たぞ!!!!」
ラビルは依然として賑わっている背後の商店街に向けて、力の限りに叫ぶ。
魔徒。
その言葉が耳に届いた何人かの人間が、時間が止まったかのように動きを停止させる。その数秒後にはラビルの言葉をオウム返しのように叫びながら、商店街の奥の方へと走っていく。
彼らが叫ぶ情報は瞬く間に広まって、商店街の喧騒は一気に‘魔徒’の合唱へと変わっていった。
「う、うぐ、ぐあああああああああぁぁぁぁぁアア!!!!」
引き金はラビルの声か、それとも住人たちの恐怖の視線か。
男は喉が裂けんばかりの叫び声を上げて、自分の胸を抉るように掻き毟りだす。服は破れ、血が出始めても、男の動きは激しさを増すばかりだった。
丸まった背中からは薄黒い煙状のアステル――邪気が徐々にあふれ出し、男の身体を覆って、膨らんでいく。
「封魔師を呼べ! 早く!」
「なんでこの街に魔徒が! 聖晶石はどうしたんだ?!」
住人たちの混乱する声に呼応するように男を覆う漆黒は、もぞもぞと形を変え、男の身体に定着していく。
変形が収まったその姿は、例えるなら狐を人と合わせたようなものだった。
鋭い形の耳と目に、大きな牙を剥きだしている。通常の狐ではあり得ない薄紫色の毛皮と大きな尻尾を持った魔徒は、今の暗さではすぐに見失ってしまいそうだった。
「ゼアル、インプよりは手ごたえがありそうだけど、戦えるかい?」
「お前の魔力次第だな。お前の魔力は質が良いが、スタミナの持ちは良いとは言えねぇ。速攻で決めるぜ」
ゼアルの念話は、途中からラビルの耳に直接届いた。
夜を、赤い光が裂いて、怪物の姿となったゼアルが姿を現す。
「グオオオオオオ!!!!」
狐の魔徒が叫び声を上げ、鋭く長い爪を二振りの剣のように振り回しゼアルに突っ込んでいく。
「そんな細っちい爪で俺を殺ろうなんて舐めた真似してくれんじゃん!」
上段に振り下ろされた爪を、ゼアルは片腕で受け止める。黄金色に輝く腕は固い鱗のようなものに覆われていて、傷一つついていなかった。
受け止めた逆の拳を握りしめ、真っ直ぐに空いた狐の腹へと突き出す。
拳を捻じ込まれた狐は苦痛の表情を浮かべるが踏みとどまり、ゼアルの腕に止められていた爪を再び、今度は胸の前で交差させるように構える。
「ゼアル!」
ラビルの叫び声に被さって、狐の両爪が体毛と同じ紫色の光を帯び始めた。息つく間もなく、交差された爪は処刑用のギロチンのごとくゼアルの胴体を挟み込み、切り裂いた。
「……!」
叫び声はなく、血の代わりに黒い光の粒子が噴き出す。同期するように、ラビルの体内からどっと魔力が失われたような脱力感が伝わり、眩暈がした。
思わず片膝をついて前方を見ると、ゼアルも両膝をついて今まさに倒れようとしているようだった。
――ダメだったか。こんなところで、ボクは……。
友人との約束も守れず、よく分からない魔徒と契約した結果がこれか。
「仕留めたかと思ったかよ?」
聞こえたのは、まったく調子の変わらない、飄々としたゼアルの声。
爪による斬撃は背中まで達しているのが、背後にいるラビルからは見えている。普通の人間なら上半身と下半身が切断されてしまってもおかしくはない。その傷を受けても尚、ゼアルの声から余裕は消えていないようだった。
「今度はこっちの番だぜ。耐えてみろよ」
ぐしゃり。
何かが潰れたような音ともに、ゼアルの姿形が変化していることに気づく。
ゼアルの割れた腹から、魔力でできた触手状のものが無数に飛び出し、狐の手足を縛っていく。狐は成す術もなく、もがきながら徐々に上へ吊るしあげられていく。
気のせいか、狐の高度が上がるにつれてラビルの眩暈も回復していくようだった。
「奪われた分は取り戻さねぇとな。まぁ、それ以上に奪うことになりそうだが」
ゼアルが言った直後、今度は腹から刃状の黒い光が勢いよく射出された。当然、狐は避けることができずにその腹を刃に貫かれる。
「ガァ……ッ!!」
断末魔は短かった。狐は叫んだ後、刃に力を吸い取られているかのようにその身体を小さくさせていき、最終的には黒い粒子となって消滅してしまった。
ぼとり。
粒子が上空に舞って消え失せたと同時に、狐に姿を変えてしまった男が、どこからともなく現われてゼアルの目の前に倒れこんだ。
「へぇ、人間に戻れたのか。運の良いやつだぜ。ラビル、あとはお前の仕事じゃないのか?」
「あ、あぁ、そうだね」
邪気に呑まれ、魔徒になってしまった人間を消滅させてしまっては、少なくともラビルのような療心師が行う‘ある処置’を行わなければ、元には戻れない。それがこの世界の法則で、ラビルも疑ってはいなかった。
しかし目の前の男は、魔徒としての姿を消滅させたにもかかわらず人間の姿で戻って来た。
低確率で起こる奇跡なのか。それとも、ゼアルが特殊な術を施したのか……。
考えながら、ラビルは素早く倒れた男の元に駆け寄った。ポケットから貝殻性のペンを取り出して、慣れた手つきで男を囲むように円形の魔法陣を描いていく。
心眼と、切断。
戦闘技術を持たない療心師が唯一、魔徒に対して直接行う処置。
魔法陣――‘心眼’によって、邪気が膿のように一番溜まっている箇所を見つけ出し、‘銀刃’と呼ばれる、聖晶石と同じ聖なる力が込められたナイフで切断、邪気を解放することで初めて、魔徒は人間に戻ることができる。
「あぁ、そんなめんどくさいことをしなくても、今のお前になら‘見える’はずだぜ。俺が与えた左目――魔眼でな」
頭上のゼアルの声に、ラビルはペンを持つ手を止める。ゼアルはすでに傷口も塞がっており、爽やかな笑みでラビルを見つめていた。
左目。魔眼。魔を視る眼。
意識を左目に集中させ、再び男を見る。
視界がブレて薄赤く染まり、男の姿が輪郭だけを残して透過したような幻覚に襲われる。戸惑いながらも、男の胸の中心部分に、見慣れた黒い魔力――邪気が渦巻いていた。
‘銀刃’を腰のベルトから取り出し、その刃を慎重に男の胸に当てる。
邪気を切る刃ではあるが、刃であることに変わりはない。表面部分である肉体もそうだが、体内に張り巡らされている魔力を循環させる器官――魔力骨路に傷をつけかねない。
「大丈夫だ。お前の眼で視た邪気は魔力骨路から乖離して、イメージで言えば皮下部分にまで浮かび上がってくる。少し皮膚をなぞるくらいの感覚でやれば、邪気も断たれるさ」
なんて便利な眼をもらってしまったのか。そんなことを思いつつ、手を震わせながら、‘銀刃’で男の胸を一筋、線を引くように切った。
キィン。
甲高い音が鳴って、邪気は一瞬の光と共に消滅した。
その一瞬のうちにラビルの中に入りこんできたのは、強烈な恐怖。どこに潜んでいるかも分からない、怪物への恐怖。きっとこの恐怖が、男を魔徒に変えてしまった負の感情なのだろう。
恐怖が薄れていくと共に、男が水を得た魚のように息を吐いて痙攣し、すぐに穏やかな寝息を立てて意識を失った。
「……ふう、切断終了」
深いため息を吐いて、ラビルは冷たい石畳に座り込む。慣れない作業と魔力の消費に、身体が鈍りのように重かった。
「いやはや、キミと契約して得た力がなかなか革新的で驚いたよ。これでボクの代償がこの程度の魔力消費と、キミという同居人を頭の中で飼うだけならちょっと安い気も……」
喋りながら、さっきまでの喧騒がなくなり、不自然なほど周りが静まっていることに気づく。
振り返ればゼアルはおらず、先ほどまで慌てふためいていた街の住人たちが、距離を取りながらも、今にも襲い掛からんとする険悪な表情でラビルを見つめていた。その中には武装した数人の男――おそらく封魔師も紛れていた。
「あ、あいつだ! あの子どもが魔物を呼び出して男を襲ってた!」
「街に魔物を放って騒ぎを起こしていたのもきっとあいつだ! この街の誰のせいでもなかった、あいつの仕業なんだよ!」
「封魔師さん、やっちまってくれ! 見た目は子どもだが、あの紅い左目! きっと魔徒に違いねぇんだ!」
罵声の中に、怒り、憎しみ、恐怖。その中に仄かに混ざる誤魔化しと自己防衛。
ラビルの左目には、嫌というほど住人たちの声に含まれる感情が見えてしまった。
「ゼアル、キミは空を飛べるかい?」
「さっき喰ったから魔力には貯えがある。ちょっとの間なら、お前望む姿になれるぜ」
「じゃあ、飛ぼうか」
ラビルの言葉に、指輪が激しく光り出す。
突風が吹き荒れて住人たちの視界を奪った隙に、ラビルの小さい身体が宙に浮き始める。
驚きの声を上げつつ、目で追うことしかしない住人たちに、ラビルは声を張り上げて言葉を投げつける。
「確かにこの街を襲ったのはボクです! ゴミ捨て場を漁ったのも、花壇を踏みにじったのも、罪の無い人を亡き者にしたのも、すべてボクがやったことです! これは警告なんです。聖晶石に頼り切り、人間の心の闇が生む怪物の恐ろしさを忘れかけている貴方たちへのね! 聖晶石にも限界がある。人間に心がある限り、魔物は、魔徒は生まれるんですよ。それをどうにかするのが封魔師の仕事だ。今回の件はボクから貴方たちへの警告……だから」
ラビルは言葉を切る。すでに住人たちの姿は小さくなっていって、その表情を識別できない高度にまで上がってきていた。
「だから、あの老人は、ニックさんは嘘を吐いていない。魔物は確かに、この街に出現していたんです」
叫んだ言葉は、住人たちに届いただろうか。
こだまする自分の声を何度も反芻しながら、届いていれば良いと祈って、真っ暗闇の夜に溶けていった。
*****
ドアをノックする音に、ニックは窓の外を眺めながら特に反応を返さない。どうせ看護師か、最近頻繁に来るようになった子どもの医師だろう。
失礼しますという言葉とともに入ってきたのは、いつも診察に来る看護師だった。朝の診察ならついさっき終わったばかりだが、何かあったのだろうか。
興味なさげに顔を上げると、看護師は申し訳なさそうにニックの表情を伺っていた。
「あのぅ、ニックさん。まずは嬉しいお知らせが。先生から退院の許可が降りました。幻覚を伴う精神病の可能性がありましたが陰性とのことで、おめでとうございます」
「ふん、だから言ったんだ。儂は最初から病んでなどいないとな」
「いいえ、今だから言いますけど、ニックさんには大きな心の傷があったんです。先生たちのような医師たちにしか視ることができない、大きな傷が」
「なんじゃと?」
それは初耳だった。てっきり自分は、魔物が街にいるという認められない事実を広めさせないために、口封じにこの病院に担ぎ込まれたとばかり思っていた。
あの子どもの医師ですら、そんなことは一言も言っていなかった。
「それもこれから徐々に徐々に治っていくはずだという判断での、退院となります。……私が言っても気休めにもならないかもしれませんが……疑ってしまって、本当に申し訳ございませんでした!」
「……」
頭を下げる看護師に、ニックはかける言葉が見つからない。
「昨夜、商店街の大通りに魔物が現れたようなんです。幸い、封魔師たちの対応が早くて犠牲者も出ず、被害は最小限に抑えられました。……聖晶石があっても、街の中に魔物は現れる。あなたが見たのは、本当に魔物だったんです」
――あなたは嘘なんて、ついていないんですから。
子どもの医師の言葉が、頭の中でこだまする。
あの子が何かをやったのか、それともただの偶然か。自分でも意外なくらいの安堵感が、長いため息とともに吐き出された。
「ふぅ。そうか、まぁ、当たり前じゃな。これでようやく外の空気が吸えるのか。はー、庭の整備もせんとな。きっと雑草が生えまくってるじゃろうて」
自分はこんな饒舌だったのかと驚くくらいに、ひとりでに言葉が漏れる。窓から差し込む日差しが、涙が出るくらいに眩しかった。
*****
「しかし、爺さんを狂人扱いして病院にぶち込んだ連中が、今さら魔物と向き合うかね」
上空で風を切る音の合間に、ゼアルの声が響く。
「さあね。でもこれでみんな見たはずだ。それがゼアルにしろ、あの狐の魔徒にしろ。怪物が街に現れて暴れたのは共通の事実になった」
それはきっと、良いことばかりではない。魔物が街の中に現れ得る恐怖。今以上に街に邪気を溜め込むかもしれない。
「それでもボクは、ニックさんを救いたかった」
「街を闇に落とすかもしれない、としても?」
ニックよりも、ゼアルが戦った狐よりも、危険な怪物を生み出す可能性のある人はいたのかもしれない。
あるいは、ニックが怪物になって、ゼアルと対面したかもしれない。例えそうだとしても。
「……約束なんだ。もうこの世にはいない、友だちとの」
「前も言ってたな。もういないヤツの約束をいまだに守ってるなんてな。どんなヤツだったんだよ」
「アエルって名前の、療心師。親友だったし、師だった。ボクの療心師としての技術も彼に教わった」
「彼!! なんだ男か! 俺というイケメンがいるというのに、そいつのことをまだ引きずっているわけだ」
「別に、そんなんじゃない。ただの、約束だ。目の前の人を救って、いつか世界も救う。その約束を果たすために、ゼアル。キミの力を存分に使わせてもらうよ」
ラビルは言って、ゼアルに笑みを向ける。相変わらず、片方の頬だけつり上がった不自然な笑顔だった。
「がははは! そんな下手糞な笑顔の勇者様に救われる世界、見てみてぇなぁ! 良いぜ、命の恩人にして契約者様にして――友ラビルよ! これからも力を貸してやろう。せいぜい俺に心を喰われないよう用心しながら使いこなすことだなぁ」
「うん。よろしく、ゼアル」
ラビルは笑みを浮かべたまま頷く。
友。
もう二度と持つことはないと思っていたその言葉に少しくすぐったさを覚えながら、ラビルはゼアルに抱えられたまま、風が吹く方向へと飛んでいくのだった。