最終話:親友とボク 前編
人は後悔をせざるを得ない生き物だと、今回ほど痛感したことはない。あのときこうしていれば、ああ言っておけば、とっとと行動しておけば……。
何気ない一言でも、言われた側が大袈裟に捉えることだってある。もしかしたらその所為で、一生心に傷を負ってしまう、なんてこともありえるかもしれない。……だからたまに、喋るのが怖くなる。
原因に心当たりがなかったわけじゃなかった。でも、あのときは他にどう言ったらいいのか分からなかった。
本当に反省してる。だからお願い、戻ってきて――――!
ネコと一緒に出歩いて、途中コンビニに寄って牛乳を買い、公園でもクレープを買って、二人でおやつを食べご満悦になりながら帰路に着く。穏やかなひとときを過ごせたのはそこまでだった。
「………」
玄関に入った直後に視界に飛び込んできた、散らばった靴の数々。それを数える前に、反射的にUターンした。
「ボクは何も見ていない。ボクは何も見ていない。ボクは何も見ていない」
ドアを背にズルズルと座り込んで、自己暗示をかける。うん、かなり酷い見間違いをしてしまった。
子ども用のシューズ。これはボクらが散歩に出かける前からあった。だからこれはあってもおかしくない。
ボクと同じ大きさのお洒落なもこもこブーツ。斜め向かいに住む幼馴染のもの。まぁご近所さんだし、回覧板ついでに上がったのだろう……と無理矢理納得させてみる。
でも他は?泥の付いたシューズとか、男物の革靴とか。我が家に男はいませんぞ!
「……ネコ、もう一回散歩行く?」
「気持ちは分からんでもないけど、もう夕方やで。そろそろ夕飯の準備せなあかんって言うたんはビワやで」
「そうだけどさぁ。ネコも見でしょ?さっきの靴」
「ミクとウララのは分かった。あと高そうな革靴、あれセンセーやろ。それからビワより大きいサイズのシューズが、多分ショータローかスミのどっちかで、あと……」
あれ?他にもまだあった……?
「チラッとしか見えんかったけど、奥の方にゴツめの男物のブーツが……。あれ、キュージのんとちゃうん?」
ダーンダーンダーンダダダーンダダダーン!
またしても例のテーマソングが頭の中で流れ出す。余計に家の中に入りたくなくなった。
「やから早う中入ったほうがええと思う」
「いや、ここは逃げ出すべきでしょ。少なくともあと一時間は時間潰すべきだと……」
日入りの時間が長くなったとはいえ、季節はまだ冬。五時を回った今の時間帯は仄かに薄暗い。六時だととっくに日が沈んでしまうけど、今から暴君に振り回されるくらいなら、時間稼ぎという名の悪足掻きぐらいしておきたい。
「でも暴露好きなんやろ?早う口塞がんとヤバイんとちゃう?」
脳裏に浮かぶ薄ら笑いをしたキュージ様。刹那、背筋がゾッと冷えた。
バンッと玄関のドアを開いて履いてたシューズを脱ぎ捨て、リビングに駆け込む。
「――――てことで、この家には親父がいねぇんだよ」
「全員シャラーップ!」
スリッパの履いてない靴下だけの足に急ブレーキをかけたら、フローリングと擦れ合い、足裏に擦り剥いたような熱が宿った。干すたびに薄くなってたから、もしかしたら足裏の部分、破けちゃったかもしれない。……お気に入りの靴下だったのに。
「ようやく帰ってきたか、下僕」
「ビワちゃん、おかえり〜」
「おじゃましてまーす」
リビングにいたのはミクをはじめ、ウララ、センセー、スミ君、キュージ様の四人。
「あの靴、ショータローのじゃなかったんだ……」
「彼氏じゃなくて残念?」
揶揄めいた口調でニマニマ笑うスミ君を無視して、パソコンを下手に動かさなきゃとりあえず安全牌の妹の横に座る。キーボードに何やら打ち込みながら画面に集中してたみたいだけど、構わず訊いた。
「ミク、キュージ様、何か暴露してなかった?」
「まぁ色々と」
色々って何?!
「ウララが来たとき、ビワちゃんいないから帰ろうかと思ったんだけど、センセーが来てスミ君が来て、ミクちゃんと四人で話してたんだよね〜」
うっわ、わざわざ訊かなくても状況が分かってしまうのが嫌だ。話してた、なんて言っても主に喋ってたのはウララとセンセーだけで、ミクはパソコンの画面から目を離さず右から左へ聞き流してただろうし、スミ君もたまに言葉を挟みつつもニヤニヤ笑ってるだけだったに違いない。そして話題は言わずもがな、ボクのこと。
「そ、それで、キュージ様がいらしたのはいつ頃のことで……?」
「つい三十分ほど前だな」
鼠を追い詰めた猫のような眼差しでボクを見つめるキュージ様の口元は、やはり意地の悪そうな薄ら笑いで模られている。
「そうそう、とってもいい物くれたんだ」
センセーが懐から取り出したのは何枚かの写真。よくよく凝視してみればそれはまさしく――――。
「ボクの写真……?」
膝に怪我をして大泣きしてる園児姿、逆上がりに失敗した姿、溝に足を突っ込んで落ち込む姿、キュージ様にセクハラされて青褪めてる姿、etc……。どれもこれも、こっぱずかしいボクの過去!
「うわあぁぁ!見ないで!返して!今すぐ忘れてぇ!」
「小さい頃からビワちゃんて可愛かったんだねぇ。ちなみにこの逆上がりの、スカート捲れてパンツがちょっと見えてる」
のほほんとセンセーは呟くけど、写真を持った手を高く掲げて、ボクから取られまいと実に大人気ないことをやってくれる。既にこの時点でボクは半泣き状態。
「そうそう、僕、ビワちゃんのご両親見たことなかったから、キュージさんにどんな仕事してる人か聞いたんだ」
スミ君の口から出た言葉に、思わず体が硬直する。
「やっぱり伊達の幼稚園児じゃないよね、ミクちゃん」
喉の奥に粘り気を感じ、一度口腔内に溜まった唾液を飲み込む。それから乾いた唇を舐めて、ミクの方へと体を転換させた。
「止めなかったの?」
「別に隠すことないじゃない」
キュージ様は足を組み替え、眦を細める。
「どうして喋ったんですか?」
「さすがの俺でも言っていいことと悪いことの区別はついてるぜ?でもこのことは別に、秘密にしておくべきでもないだろ」
ギリッと口の中で歯軋りして、今度はウララを睨む。でも何でボクに睨まれるのか分かってない様子だった。
あんたもうちの事情知ってるからだよ、とは言ってやらない。言っても無駄だし。
「……夕飯作る気なくなった。とっとと帰って」
ボクは眉間に皺を寄せたままキッチンに置いてあるキャットフードの缶詰めを取り出し、ネコを連れて自室に戻った。
暖房をスイッチを入れ、ネコの食事用の皿に缶詰めの中身を盛り、ボクはベッドの上にダイブ。スプリングの利いたベッドに揺さぶられ、顔を手で覆う。別に泣きたいわけじゃない。ただ戸惑いが大きいだけ。
手の甲に滑ったざらつきを感じ、双眸の上に乗せた手を退かせば、心配そうに目を細めた瑠璃色の瞳があった。
「ごはん食べないの?」
「落ち込む親友放って、飯なんか食えるか」
唇を尖らした猫に目を丸くし、思わず胸に抱き寄せる。
「急に何やねん、自分!ちょ、マジ苦しいっ」
「ああ、ごめん」
ネコの体を引き離せば大袈裟に深呼吸された。そこまで強く抱き締めたつもりないんですけど。
「いや〜、親友って言ってもらえて、嬉しくて思わず」
「でもビワの親友はウララやろ」
「ウララは単なる幼馴染の友達」
上半身を起き上がらせ、膝の上にネコを乗せる。背中の撫でてやれば、おずおずといって様子で首を持ち上げて窺うように訊ねてきた。
「俺も実は気になっとったんや。ビワの親については。やから、ビワがよければ話してくれへん?」
「……やっぱいいなぁ、ネコって」
昔から心に決めてたことがある。親友にするなら、気遣いのできる子がいいって。
両親が離婚したのは、今から二年ほど前のこと。
父親は高収入でもなけりゃ安月給でもない、頭部の薄いしがないサラリーマン。母親は今じゃ引き篭もりだけど、それまではかなりの教育ママだった。幼稚園、小学校とお受験を受けさせられたし。まぁ落ちたから遠い私立に通わされずに済んだけど。
でも塾通いを強要され、それ以外にもウララに付き合わされてダンス教室に通わされた時期なんかもあったから、同級生と遊ぶ時間なんてないに等しかった。今思うとかなり寂しい生活送ってたなぁ……。
事の発端はミクが三歳のとき。その頃には母親はボクを出来損ないと見限りつつあって、熱意をミクに注ごうとしていた。
そんなある日のこと、ミクがパソコンが欲しいと強請った。母親は嬉々としてミクに与え、ミクは瞬く間にブラインドタッチを駆使し、ますますパソコンに傾倒し――――事件は起こった。
パソコンの画面に映るのは、市内のホテル街。建物の一つに見知らぬ女の肩を抱いて入ろうとする、髪の薄い見覚えある男の姿。そして場面が切り替わり、出てくる姿もバッチリ撮られていた。
父親は合成だとか他人の空似だとか、唾を撒き散らしながら散々ほざいてたけど、所謂“最中”の映像まで出されたらさすがに閉口した。
母親は裁判を起こして勝訴し、離婚した後にようやく冷静になったのだろう。我が子の末恐ろしさに畏怖し、以来引き篭もりになった。
……これはつい最近聞いた話だけど、あの映像は明らかに盗撮。だからどうやって裁判に使ったのか訊ねたら、弁護人と検察官を丸め込んだとのこと。
既にあのときから世界征服の布教は始まっていたらしい。
「お前がそれほどデリケートだなんて思ってなかったよ」
ノックもなしに入ってきたキュージ様に肩を竦めると、片方の眉だけ持ち上げて怪訝そうな顔をされた。短時間のうちに機嫌を持ち直したボクが意外だったらしい。
「何の御用ですか?というか、そろそろ帰らないとおじさん達、心配しますよ」
「今時の大学生は朝帰りが普通だぜ?」
机の上のラジオを手持ち無沙汰に触るキュージ様を半眼で眺めながら、絶対嘘だと胸中で呟く。
物騒な話題が流れるニュースをBGMに、キュージ様が薄ら笑いを浮かべてネコを見遣る。
「そのペット、随分変わった見た目してるよな。瑠璃色のスコティッシュホールドなんて初めて見た。なぁ、大事にするから俺にくれよ」
せせら笑いを浮かべてたから、冗談だと分かってた。普段なら下手に出てやんわり拒否しただろうけど、さっきネコはボクを親友だと言ってくれたんだ。
「ネコは大事なボクのペットです!キュージ様の命令でも聞けません!」
ネコの体を抱き締めて強く拒否したというのに、頭に血が昇っていたボクは気付かなかった。
硬直し、驚愕で目を大きく見開いたネコの状態に……。
『ビワ』ハ『ネコ』ニ家族ノ過去ヲ明カシタ。
『キュージ』ガ『ネコ』ヲ欲シガッテイル。
『ビワ』ハ断固拒否シタ。
『ネコ』ハ錯乱状態ニ陥ッテイル。




