第七話:母親とボク
ついこのあいだ冬休みが終わったばかりだというのに、もう春休みが恋しい。
どこの国から制圧するべきか、口に出して真面目に考える妹に、朝食を摂りながら耳を傾けていれば……玄関を出るときには既に鬱状態。
そして玄関を出れば、幼馴染による抱擁という名の人間雑巾絞り。
ふらついた足取りでチャイムと同時に教室に入ると、朝のHR、重要事項だけ簡潔に述べて、余った時間で萌え講義する担任。
隣の席のクラスメイトに至っては、魂が抜けかけて意識が朦朧としているボクに救いの手も差し伸べず、にやにやにやにやムカつく笑いを浮かべている。
休み時間じゃ休み時間で、もはや屍に近い状態で廊下を歩いていると、白い砂粒の雨が頭上からご挨拶。何事かと振り返りゃ、彼氏(仮)が“塩一キロ”とプリントされたナイロン袋を逆さにして一言。
「悪霊になりかけてる成仏できない霊が全身にとり憑いてる」
だからって、いきなり人に塩を撒くとはどういう了見だ!ああもう、頭痛い!
……あれ?でも学校行かなくてもボクって危険じゃね?ミクは仕方がないとしても、他はノーアポで押しかけてくる厚顔無恥な奇人変人ばっかだし。
長期休暇関係ねぇー!
「たぁだいまぁ〜……」
短い癖ッ毛の髪は、水分を吸う性質を持つ塩を塗しかけられたおかげで、いつも以上にパッサパサ。背負った学生鞄は肩からずり落ちる寸前。制服も破られはしなかったものの、皺だらけ。変質者に襲われた後のようだ。
……変質者の方がまだマシな思考なのかも、と一瞬思ったけど、そっちの方が洒落にならないか。センセーが理性というボーダーラインを超えた領域こそが変質者なんだし。
でも、理性と本能の境界線真っ只中にいる――とボクは判断している――センセーって、つまりはあと一歩であっち側の人間なんだよね……?
ちょっとだけ身の危険を覚えて、軽く頭痛を覚えた頭を抑えながらリビングのドアを開ければ、ちょっと珍しい光景が目に飛び込んできた。
ソファーにミクが座っていて、テーブルの上のパソコンと向き合ってるのはまぁ、いつもの光景だ。問題はミクのすぐ横に蹲ってる、生成りと焦げ茶の色をした毛玉。……毛玉にしてはやけに大きいけど。
「ネコがミクの傍にいるなんて珍しい」
ボクが声を出すと、ネコは恐る恐るといった様子でボクを振り返った。そしてボクの姿を目に留めた瞬間、垂れた耳をピンと立て、韋駄天の如く物凄いスピードで飛び掛ってきた。
普段ならこの時間帯、部屋にある玩具で遊んでいる。しかもボクがいないときにミクに近寄るなんて今までなかったのに。
「ちょ!ネコ?!」
「うにゃぁぁぁ!遅かったやないか、ビワ〜!」
ニャーニャーと大声で泣き喚くネコを抱き上げて背中を擦ってやってみるものの、一向に止む気配なし。
「私が幼稚園から帰ったときから、やたらその猫怯えてるの。どこ行っても後ついてくるし」
だから早くどうにかしろと言わんばかりに手首で追い払う仕草をされ、とりあえず部屋に戻ることにした。
制服からTシャツ、トレーナー、半纏と着替えて、鞄の中身を明日の授業に使う教材に入れ替えて、ラジオから流れる音楽をBGMに英語の課題を半分くらい遣り終えたとき、ようやくネコは泣き止んだ。
「随分長いこと泣いてたなぁ」
「何やねん、自分。泣いてる友達ほっぽいて呑気に宿題なんて……薄情や」
「いやいや、理由訊いたり背中撫でたりして落ち着かせようと努力したよ」
唇を突き出してつーんとそっぽ向く子どもらしい仕草に、どうしたものかと苦笑しつつも事情を話すのを辛抱強く待っていれば、しばらくしてネコは口を開いた。
「……見たんや」
「見た?」
「何十年も生きとったら、そりゃ色々経験もしたで。餌に困るときもあったし、屋根のない場所で寝なあかんときもあった。人間に追い掛け回されて辛い目にもおうたし、ビワみたいに俺の言葉が分かる人間にも逢った」
……どうしよう。色々ツッコミたいとこあったんですけど。
「それでもな、こんな科学の発達した時代や。でかい塊だって空飛ぶようになった。非科学的なもんなんて俺は信じひんかった」
喋る猫って存在こそ、非科学的だよ。
「だからショータローの特殊能力だって、ホンマは心の底で馬鹿にしとった」
気持ちは分からなくないけど、一応彼、ボクの恋人(仮)なんですが。
「え〜と……つまり最初に言った“見た”っていうのは、非科学的なものってこと?」
「……幽霊や」
このスコティッシュホールド、喋るだけじゃなくて、幽霊見えるってオプションまで付きやがりましたか。
「……ちなみにそれ、どこで見たわけ?」
「この家ん中や」
な・ん・で・す・と?!
「ビワ〜、ショータローとセンセーが来たんだけど」
「このタイミングで?!」
階段下から飛んできたミクの声に思わずドアを振り返る。
トントントン……と階段を上ってくる二つの足音。とりあえず床の上に散らばってるネコの玩具を隅に除けて、ちょっとでも部屋を片付ける。
「ビワ」
「きちゃった」
あんたら、人の部屋に入る前くらいノックしなよ。ってか、何で客が茶菓子の乗ったトレイ持ってんの。
「ビワ、ショータローに今この家のどこに幽霊おるか訊いてくれ!俺、そこには絶対行かんようにする!」
ボクだってそんなとこ行きたくない。でもネコの言う幽霊は気になる。
「あのさ、ショータロー。ちょっと訊くけど……今この家に守護霊以外の幽霊っている?」
来てすぐの人にこんなこと訊くのもちょっと憚れる。そう思いながらも口にすれば、思いは態度に表れていたらしい。
「上目遣い……」とセンセーが頬を染めて悶えていた。勘弁してよ、この担任。
「邪悪な気配はないし、悪さするような霊じゃないから」
いるにはいるのか。
「嘘や!あの、ドアの隙間から覗いたギョロっとした目、あれが悪霊やなかったら何やねん!」
フーッと毛を逆立てて怒るネコに頓着することもなく、ショータローは神社で売ってるような小さな御守りをボクに渡した。
「今日いきなり塩撒いたの、悪かったと思って。親戚から届いたお守り、ビワにあげる」
それだけ言い残し、トレイの上のものに手を付けることもなく帰ってしまった。
別に明日でもよかったのに。まぁでも、明日改めて御礼を言おう。
鞄に貰い物を仕舞い振り返れば、至福と言わんばかりの表情でセンセーがベッドに横たわっていた。
「出てけー!」
即座に担任を廊下に放り出して鍵を閉め、消臭剤をベッドに振り撒く。今日はこれで我慢するけど、明日は早起きして布団干そう。
「ビワちゃーん。一応僕、用があって来たんですけど〜」
「アポなしで来る用って何ですか?」
冷ややかな声を努めて出せば、一枚隔てた板の向こうで身悶える呻きがした。
「ボクこう見えて忙しいんで、さっさと言ってもらえます?」
「あ〜……二学期の終わりに三社面談設けたよね。あのときビワちゃんのうちだけ保護者が見えなかったから。一応新学期始まってからお昼に電話してたんだけど、誰も出ないしねぇ」
どうしたものかと呟く担任の言葉を他所に、ボクはネコの言う幽霊の正体に思い当たった。つくづく今日は、頭の痛い思いをする日だ。
「階段降りてすぐ裏、ちょっと死角なんですけど物置みたいなドアがあるんです。そこに母はいますから」
ちゃんとノックして相手の反応を待ってから喋ってくださいと釘を打ち、センセーには二階から退場してもらった。
肩越しにネコを見遣れば、案の定鳩が豆鉄砲食らったような目でボクを凝視していた。
「え、あ……おったん?母親、この家に」
「うん、実はずっと居たんだよ。この家に」
「俺、この家居候させてもろてからかれこれ一ヶ月ほど経つんやけど……」
「一ヶ月どころか、ボクが生まれる前からこの家に住んでるよ」
新婚なりたての頃に新築したって聞いた覚えあるし。
「……あのさ、ものすご〜く言い難いんやけど」
「ネコの言ってたドアって、階段裏の物置みたいな所のだよね?あの中ってそこそこスペース広いよ。母親はその中にある化粧台の下で一日中蹲ってる……所謂引き篭もりなんだよね。いつもはミクが幼稚園行って、誰もいなくなった頃にあの中から出てきてちょこちょこ家事とかしたりするみたいなんだけど……本当に今まで見たことなかった?」
「今日はいつもより冷えるから家ん中おって……いつもはそこの窓から外に出入りしとるから」
ネコが脱力した様子で前足を使って窓を指したとき、センセーのド肝を抜く悲鳴が階下から聞こえた。
「ああ、確かに驚くよなぁ。ドアの隙間から覗くギョロっとした目……」
感慨深く遠い目をするネコに、ボクは何と声をかけていいものか迷った。
『ネコ』ハ幽霊ヲ見タ。
『ビワ』ハ『ショータロー』カラ御守リヲ貰ッタ。
『センセー』ノ萌エレベルガ30上ガッタ。
『ビワ』ハ幽霊ノ正体ヲ明カシタ。
『センセー』ハ悲鳴ヲ上ゲテイル。
『ネコ』ハ『センセー』ニ同情シタ。