第五話:担任とボク
自覚したのは小学校を卒業する前か、した後だったか。
症例その一。とある休日のこと。かなり肥満体の男性が汗だくになってジョギングをしていた。メタボとかコレステロールなんて言葉に敏感だろう、お年頃。健康のために運動を始めた人が多いと聞くし、あの人もそうなんだろうなぁと微笑ましく眺めていたときだった。
汗でずり落ちそうになったメガネを直す仕草、ポヨンポヨンと走る動作に合わせて動く腹、黒髪の中に所々混じる白いもの。
……胸がキュンとなった。
症例そのニ。ショータローの家に遊びに行った日のこと。家にはお母さんと弟君がいて、学校での出来事を中心に話していた。たまにショータローは誰もいない場所に向かって話し出すので、その度ボクは口を噤んでたけど、さすがは家族、微塵も気にせず口を動かしていた。
そして現れたショータロー父。彫りの深い顔立ちにダンディーな鼻の下の髭。口元にはちょっと色気を感じさせる皺。若く見積もっても四十半ば。
……そのときのボクは、テンプテーションにかかったような顔をしていたらしい。
おかげで彼氏(仮)は父親に嫉妬の眼差しを向け、母親は『この子大丈夫かしら』的な視線をボクに送り、小学生の弟はボクのおかしな様子に訝しむこともなく、変人の兄の恋人(仮)が今後どんな振り回され方をされるのか、懸念していたという。……なんて良い子なんだ!
症例その三。気象予報士のマユミさん。面長の輪郭に壮年を思わせる額の横皺。一重の目は微笑むとより一層細くなり、黒い瞳は見えなくなる。液晶画面に横顔のアップが映れば、おのずとこめかみの茶色いシミに目が向いてしまう。
「……マユミさん、今日も素敵」
思わずポロリと零れた独り言に、キャットフードが盛られた皿に顔を埋めていたネコがテレビを仰ぎ見る。ちょうどマユミさんが日本列島にかかる帯状の雲の様子を語っているところだ。
「やっぱりビワの男の趣味って変。何でそんな、四十から六十のおっさんにときめくわけ?」
「え?!マユミって女の名前ちゃうん?」
ミクの呆れた言葉にネコがつっこみを入れてくる。けれどもやはり、ミクにはニャーとしか聞こえていないようだ。
「そんなのボクにだって分かんないよ。でもマユミって珍しい苗字からして、やっぱり存在感があるなぁ」
「まぁ覚えやすい苗字なのは確かよね」
音を立ててコーヒーを啜り飲みながら、ミクもテレビに視線を移した。
「ミクもネコも、マユミさんの魅力に嵌まるといい」
「一生こないと思う」
「俺も」
そう、ボクは自分でもよく分かってないけど、かなり年上の男の人にときめく習性がある。同年代にそういう気持ちを抱いたことはなく、かといって腰の曲がったおじいさんにもない。何故か四十代から六十代に限られる。
……亡きおじいさんが享年六十三歳だったから?いやいや、遺影でしか拝んだことのない人にそんな感傷は全くない。
ボクの父親?確か今年で……あれ?幾つだっけ?四十前半なのは確かだけど、父親の面影を追ってるなんて馬鹿げたことはいわない。メタボなあの人も、ショータロー父も、マユミさんも、かつらの心配はなさそうだし。
なので考えた結論はこうだ。
これは所謂“萌え”とか“フェチ”とかいう言葉で表せる感情なのだ。だって恋愛感情なんて全くないんだし。
……うん、だからさ、ボクが“萌える”のはある意味慣れてるんだ。
だからって“萌えられる”ことにも慣れているわけじゃないんだよ!
朝のHR。連絡事項を言い終えても教室から立ち去ろうとしない教員暦十年の担任に、クラスメイトは俯いてジッと机の木目を眺めている。そうすることで雑音を遠ざけているらしい。
ボクも皆に倣って俯きたくもなるが、如何せんそれは許されない。一度シカトしたら、中身が飛び出るくらい激しく机を揺らされて、嘆かれた。
そんな行動をとられたらさすがにボクも辟易して、以来どんなにムカつこうがげんなりした気持ちにさせられようが、辛抱強く会話することにしている。
「待っていたよ、ビワちゃん。君のいない学校なんて、メイド喫茶のない秋葉原のようだったよ」
「メイド喫茶どころか秋葉原だって行ったことないんで、理解しかねます」
「メイド喫茶といえば、今年……じゃなくて去年の文化祭、どうしてメイド服着てくれなかったの?」
「何で周りがエプロンなのにボク一人メイド服なんて着なきゃいけないんですか」
「一人称が“ボク”の君だからこそ萌えるんじゃないか」
「先生一人じゃないですか、萌えて喜ぶのなんて」
「や、僕も見てみたかったかも。ビワちゃんのメイド服」
頬杖を付いてニヤリと笑みを浮かべる隣の席の男子。彼も一筋縄ではいかない性格をしている。
「スミ君。君の気持ち、よく分かる!」
いやいやセンセー、分かってないよ。この人、メイド服着たボクを見た他の人の反応に興味があるだけだから。例えばウララとかショータローとか。
あ、考えるだけでも頭痛が……。
「ああ、メイド服着たビワちゃんの手料理、一度食べてみたい……」
「メイド服を着ることなんて一生ないと思います。それにセンセー、あんた大晦日にボクんちに押しかけて蕎麦食べてたじゃないですか」
「え?!そんな楽しそうなイベントがあったのか!くそっ、僕も紅白なんか見ずにビワちゃんちに行けばよかった」
スミ君。今年こそは!なんて意気込まれても、敷地に入れる気一切ないから。
「美味しかったよ、ビワちゃんの愛の篭った年越し蕎麦。今年も一緒に食べようね」
「愛を篭めた覚えもなければ、一緒に食べてもいませんから。人数分の蕎麦作って運んだあと、逃亡してましたし。それに今年は一人で年越し迎えてください。絶対にボクんち来ないでください」
「え〜、ミクちゃんは今年も来ていいって言ったよ?」
何勝手に許可してんだ、ミクー!
「と・に・か・く!センセー、チャイムそろそろ鳴るんでとっととどっか行っちゃってください。そしてもう二度と帰ってこなくてもいいですから」
ボクが手首のスナップだけで追い出す仕草をした途端、タイミングよく一時間目が始まるチャイムが鳴った。
「……冷たいビワちゃんも、萌え……」
そう言い残して、担任は教室から出て行った。
それを合図に教室の張り詰めた空気も緩み、ボクも机に突っ伏してホッと肩の力を抜いた。
「あー……やっぱり対象が自分に向くのはどうしても慣れないや」
『ビワ』ハ壮年ノ男性ニ弱カッタ。
『センセー』ノ萌エレベルガ20上ガッタ。
『スミ』ハ傍観シテイル。
『ビワ』ノ疲労ガ40上ガッタ。