第二話:幼馴染とボク
日の出を拝めないまま帰路について、喧しい外野の波を超えて体温を測ってみれば、三十八度一分。見事に手遅れだった。
このあいだぶりですね風邪さん。もしくは感冒さん。え?どっちも一緒だって?まぁ気にしないでくださいな。
とにかく、そんな状態ながらも拾ってきた猫の体を綺麗に洗ってやったボクは偉いと思う。でも周りは早く寝ろと煩かった。ボクがしなかったら誰がするんだよって言ってやりたかったけど、誰もやりたがらないのは日常的に虐げられているボク自身がよく分かっていたから結局何も言えず。
それに連れてきたのは他でもないボク自身。だからやっただけなのに。
ギャーギャー騒がれるのも煩わしかったけど、何より綺麗にしてやってる猫に反抗されたのが一番辛かったかも。猫パンチどころか爪で引っ掻かれた。まぁすぐに治るだろう蚯蚓腫れ程度の傷だけど。
動物は洗われるのが好きじゃないって?そんな体でうちの廊下を歩けると思うなっての!大掃除をしたばかりなんだから。
そう口走ろうとした矢先、ボクの意識はバタンキューした。
……それが一番の目新しい記憶。寝返りを打って時計を持ち上げてみれば、十時ジャスト。カーテンから漏れる光が午前の証拠だ。
「初夢は昨日、じゃなくて今日のリプレイかぁ」
元旦はまだ十二時間以上残っている。そう理解したら『無事に時間は過ぎ行かないんだよ』と訴えてきた。本能が。
それにしても夢の中に出てきた猫。スコティッシュホールド種だっけ。人語――それも関西弁――を喋るだなんて、非現実すぎる。ここはさすがに夢か。
夢と現実の区別がつかない。除夜の鐘を外で聞いたのは確かで、猫を助けるために川に入ったのも覚えてる。それが耳の小さくて垂れてて……喋った。
あれ?やっぱり全部現実っぽい?
「ふぁ〜……久しぶりによう寝たわ」
小学校高学年ほどの男子の声がふいに聞こえ、ギョッと身を強張らせる。
「おはようさん。ちょっとは熱下がったか?」
「ああ……やっぱり夢じゃなかった、喋る猫」
ついに変な動物までボクの前に現れたかと落胆しつつ呟けば、ベッドに乗り上がった猫は剣呑な唸り声を上げた。
「何やねん、こんなキュートな猫に向かって変な動物なんて」
「ペラペラ喋るだけでも十分変だっての」
「最近のスコティッシュホールドは関西弁を喋るのが流行りなんやで」
「それなら今頃世間は大パニックだよ」
「もちろん冗談やけど」
笑えないって。
眠気は全くないけど熱の所為か、まだ頭がボーっとする。
そんなぼんやりした意識を吹き飛ばすかのように、地響きするほど大きな音が階下から聞こえた。吊り下げた鞄や脚の細い置物が小さく音を立てて震えている。
「な、何事や」
「ボクの周りの変人その一。もうすぐここに来るから」
ドタドタドタッとスリッパも履いてない足音が二階へと近付いてくる。ボクの部屋は階段を上がってすぐの位置。
「ビワちゃーん!」
派手な音を立てて現れたのは、素人目でも高価と分かる煌びやかな赤と金の振袖を着た女の子。動きにくい格好で走った所為か、多少着崩れしている。
パッチリした二重をさらに引き立てるように、目元を中心に薄っすら化粧が施されていた…らしいのだけれど、使用した化粧品はリキッドではなかったようだ。辛うじて顔のパーツは分かるものの、汗で眉や目の周りがドロドロしてて、鬼女に見える。いや、ホーンテッドマンションで観客を脅かす役か?子どもはもちろんのこと、大の大人でも泣いてビビリそう。
だって猫でさえ、ボクの体を盾にして視界から隠そうとしてるし。
「視覚の暴力や……」
そこまで言うか。
ドドドドドッと駆け寄られ、普段ならベッドから転がり落ちてでも逃げるんだけど、如何せん風邪で体が鈍っていた。
ギュッと抱き締められた瞬間、骨がミシッて音を立てた。
「ぐぇっ!」
「寒くない?起き上がって大丈夫?熱は?」
ミシ、コキッ、メキメキッ、ポキッ、メキョ………
隣で猫がひいてる気配がする。
見てないで助けてよ!あ、ショータローじゃないのに幽霊っぽいのが見えてきた。
これはかなりヤバイ。
「ウ、ウララ……離して!し、死ぬ……!」
「そんなに風邪が酷いんだね!待ってて、今おしぼり持ってくるから」
「待て、待った。それは駄目。絶対に」
ついこのあいだ風邪をひいたときのこと。おしぼり替えるね〜とボクの額にタオルを乗せたまではいいんだけど……ビジャッときたのだ。そう、絞れてなかった。
さっきの抱擁でご理解していただけたとは思うけど、彼女は物凄く力がある。怪力といって過言じゃない。ボクのクラス、三十八人分のノートを軽々と持ってみせることだってできる。それも片手で。
じゃあ何で、幼稚園児でもできるようなタオルを絞るという造作もないことをしなかったかというと、彼女の普段の力でギュウッと絞れば水はおろか、タオルが引き千切れる。
学年で最下位からベストファイブの学力である彼女も、さすがに十三年生きてきたら学んだらしい。風邪をひいた人間に乗せるタオルは、少し湿った程度でないと駄目なのだと。引き千切ってボロ雑巾みたいになったタオルを乗せるなんて論外な話だと。
それで手の力を抜くに抜いて水滴を落とし、ボクの頭に乗せてくれたわけだけど……けど、絞って落とした水滴がわずか一滴だったとはどういうことですか、ウララさん。
「でもビワちゃん、熱まだ下がってないんでしょ?私、心配で心配で……だからパーティーも抜け出してきたのに」
そうそう忘れてた。ウララはボクの家から斜め向かいの豪邸に住んでいる。
こんな閑静な住宅街にでかくて派手なお屋敷を建てるなんてどんな金持ちざましょう……なんて、母親の手に繋がれながら井戸端会議を否応なく聞いてきたらなんと、日本で六割を占める製薬を造る会社の社長宅だったりした。
ウララはその製薬会社社長令嬢。一般家庭――というにはかなり特殊かもしれないけど――のボクの家とはせいぜい近所付き合いまでの関係と思うのがごく普通だろうけど、ところがどっこい、どういうわけかボクはウララに気に入られてしまったわけだ。
お嬢様にも拘らず、幼稚園、小学校、さらには中学までボクと一緒の公立の学び舎。
「心配してくれたのはありがたいけど、でもそれほど酷いわけじゃないし」
「それでも早く治すに越したことはないでしょ。あ、氷枕もう溶けてるよね?取り替えてくるから、ビワちゃんは寝てて」
尋常でない力で肩を押されて、後頭部を思い切りベッドの柱に打ち付ける。ゴイィンと音が鳴ると同時に目の前に星が回った。
視界の端に映る猫は枕に手を伸ばそうとするウララの手に触れないよう、大慌てでベッドから降りて心配そうにボクを見上げる。
「痛そうやなぁ」
「痛いよ!」
「じゃあ大人しく待っててね」
ニッコリ笑って出て行ったはいいけど、化粧が崩れてるせいで気持ちの悪い道化師にしか見えない。ついでに顔も洗ってくるよう言っとけばよかったけど、後の祭りだ。
「随分と変わった友達やなぁ」
「否定しない。……そういや、ウララには猫の声って聞こえないんだね」
「今んとこ、あんたにしか聞こえてへんみたいやで。まぁ俺の言葉を聞きとれる人間ていうんはホンマに稀やから」
そのときだ。階下からまたしても考えたくもない音が聞こえてきたのは。
「こ、今度は何や?!」
「氷の塊を素手で潰してる音だと思う」
「…………」
猫はウララが再びこの部屋に足を踏み入れると同時に布団の中に逃げ込み、彼女が帰るまでそこから動こうとしなかった。
そしてボクがウララから悪気ない攻撃を受けて悲鳴を上げるたびに体を震わせていた。
『ウララ』ガ現レタ。
『ビワ』ハ先制攻撃ヲ喰ラッタ。
猫ハ固マッテイル。
『ウララ』ハ氷枕ヲ差シ出シタ。
『ビワ』ノ疲労ガ80上ガッタ。
『ビワ』ノ熱ガ三十八度五分ニ上ガッタ。
猫ハ防御ニ徹シタ。