最終話:親友とボク 中篇
朝起きたときには既にネコの姿はなかった。
「ネコ〜?」
布団を捲っても、ベッドや机の下、棚と棚の狭い隙間、果てはゴミ箱の中まで覗いても、生成りと焦げ茶の毛色をしたスコッティッシュホールドは見当たらなかった。
訝しんでいたら冷たい風が頬を掠めたので、ふと窓に目を向ける。案の定、少し開いていた。正確に言えば“いつも開けてるよりも”風を通すスペースができていた。
いつも開けっ放しにしてる理由は、別に空気の入れ替えの為なんかじゃなく、ボクが学校に行ってる間にネコがこの窓を使って外へ出入りしているからに他ならない。玄関の扉を開け閉めできるような体格じゃないしね。
庭には渋柿の木も立ってることだし、以前ショータローから「防犯の面で危ないんじゃないか」と危惧されたこともあったけど、この窓はサッシの滑りが悪くて開けにくい。滑らかに動くのは十センチ程度。通れたとしても、精々胸板の薄い女性くらいか。それに閑静とは言い難い住宅街で白昼堂々空き巣に入る奴なんて、おそらくこの辺にはいないだろうし。
まぁそんなわけで、常に三センチほど開けているのだ。猫は元々体が柔らかくて、細い隙間にも楽々潜り込める習性を持つらしいし、わざわざ人の手を借りずともわずかな隙間の通り抜けなんて造作もないこと。
「それにしても、こんな朝っぱらからどこに……?」
何気なく視線を室内の至るところに巡らせ、ふと目に留めた時計の長針と短針を確認。八時十五分。
「え……?」
八・時・十・五・分。
「遅刻ー!」
慌てて制服に着替えたボクは、ミクにバナナと牛乳とヨーグルトだけ与え、寝癖も直さずそのまま学校に直行した。
だから遅刻を間逃れてようやく落ち着いた頃に再びネコのことを思い出し「心配せずともボクが帰る頃にはきっと戻ってるよね」なんて楽観的な考えに浸っていたのだ。
何の保証もないのに。
「そういえば、今日はまだあの猫見てない」
学校が終わって帰路に着き「ただいま」と言ったボクに、ミクはそう話を切り出した。
「う、そ……。え?まだ帰ってないの?」
「いつもビワが帰る頃ってあの猫、リビングにいるでしょ。ああでも、もしかしたらビワの部屋かも。今日はドア閉めてるの?」
いつもは窓同様、ネコの為にドアも少し開けた状態にしている。今朝慌ててたし、誤って閉めちゃったかも。
けれども習慣として体が覚えていたらしく、朝あんなにテンパってたにも係わらず、部屋のドアはネコが通れるスペースを作ってたし、窓も今朝と寸分変わらず開いた状態だった。いや、ドアと窓だけじゃない。散乱したボクのパジャマ、捲られた布団、ネコの玩具、食事用の皿、トイレも、今朝から変わってない。
「まだ帰ってないの……?」
カーテンの閉まってない窓からは、茜色の日差しがボクと部屋の様子を照らしている。鋭い眩さが眼球を刺激してくるけど、ボクは瞬きも忘れて茫然と突っ立っていた。目が乾く。喉もカラカラだ。いやに胸騒ぎがする。
それでもネコが何食わぬ顔で帰ってくると、疑ってなかった。
だって、出会って約一ヶ月、ボクは毎日ネコと顔を合わせてたんだ。朝一緒に起きて、夜も一緒に寝て、一緒に散歩して、ご飯食べて、愚痴聞いてもらったり、怖い思いもしたりして――――
「ビワ〜、お腹空いた〜!」
階段下から聞こえてきたミクの声にハッとして、ボクはネコのことを頭の隅に押しやって、一先ず通常通りの動きをした。……してしまった。そうやって朝も、自分の生活リズムを最優先にして行動した。
だからかもしれない。ネコのいない一日が終わろうとして一人きりになり、布団に入って瞼を閉じるときになってようやく、過ちに気付いた。
「ネコは大事なボクのペットです!キュージ様の命令でも聞けません!」
昨晩、このような台詞を吐いて従兄弟を追い出した。
“ペット”。親友をそう称する奴がどこにいる?
「う、あ、あぁ……!」
あの数分前じゃないか。ネコが言ってくれた“親友”という言葉にはしゃいでたのは。それを否定したのは、紛れもなくボク自身。
ネコが怒って出て行ったのも、てんで不思議じゃない。
上半身を起こし、震える身体を抱き締める。
「落ち込む親友放って、飯なんか食えるか」
ネコは自分の前に置かれた食事よりも、落ち込むボクの心配をしてくれたというのに。なのにボクは、いなくなった親友を軽んじて、自分の生活リズムを崩したくない為に、いつもどおりの生活を送ろうとしている。
「ごめん……ごめん、ネコ……!」
大粒の涙がボロボロ頬を伝い、布団の上に零れ落ちる。自責の念に耐え切れず、布団越しに膝を丸め、嗚咽と呻き声を上げて泣いた。
本心じゃ学校放り出して捜しに行きたかったけど、さすがにそういうわけにもいかないので、少し生活リズムを変えた。
早朝五時に起き、朝ごはんの支度と最低限の身支度を済ませたら即刻家を出て、ネコ捜し。遅刻ギリギリの時間まで捜索して、放課後はすぐに私服に着替え、夕飯の準備を済ませたら朝の続き。
「ビワちゃん、ウララが違う猫プレゼントするから」
「代わりなんていらない」
目の下にできたクマを心配するウララをあしらって、ボクは今日もネコの使っていた散歩道を辿る。
「猫は自分の死を察すると急にいなくなるんだと」
「縁起の悪いこと言わないでください!」
意地悪く笑うキュージ様に背を向け、玄関を飛び出す。
「寝顔のビワちゃんって、眉間に皺寄せてるんだねぇ。ああでも!そんなところも萌える……!」
担任の担当する授業中は睡眠欲に屈し、鋭気を養う。でもボクって、寝てるとき眉間に皺寄せてるのか。
「……ん〜」
さすがに起きなきゃヤバイかなと思ってたときに助け舟。
「センセー、ビワちゃん起こすべき?」
「いーや、このまま観察」
お言葉に甘えて寝かせてもらうけど、やけにガン見されてる気がする。一つは明らかにセンセー、あともう一つは……スミ君か。
「眼福、眼福。こうしてビワちゃんの寝顔で授業潰れるんだから、皆の衆、ビワちゃんに感謝するように」
瞼を閉じてても、君のにやけ顔が目に浮かぶよ。
「……いないな」
「他に猫の溜まり場知ってそうな幽霊いない?」
ボクには見えない浮遊霊と話すショータロー。その顔に翳りが見えたので、礼を言って他を捜す。
「……君達、瑠璃色のスコティッシュホールド知らない?」
ケージに入れられたペットショップの猫に話しかけても、素知らぬ顔をされる。実はネコと出会ったばかりの頃、道端で日向ぼっこしてた野良猫に話しかけたことがあったけど、案の定無視された。
やっぱりボクは動物の言葉が分かるわけじゃないらしい。ネコだけが特別。
ボク以外の人から見れば、ネコは一匹の猫に過ぎないけど、ネコの言葉を理解できるのは唯一ボクだけ。
かけがえのない親友をこんな形で失くしたくなかった。
気付けばもう、春休み目前となっていた。禿げていた木々の枝には緑の葉が生まれ、道端にはタンポポやツクシが芽を出している。
駆けていた足を緩め、上半身を屈めてコンクリートの地面を睨みつけた。ポツリポツリと、ボクのこめかみから零れた汗が斑点を作る。ギリっと歯軋りして身体を起こせば、いつの間にか河川敷に来ていた。
「ここ、ネコと初めて逢った場所だ……」
ネコが川の流れに立ち往生していた柱に目を遣る。ここ数日、晴れの日が続いているからか、川の流れは緩やかなものだった。とはいえ、水の苦手なネコが泳いで渡るなどきっと不可能だろうけど。
「春も近いですね」
背後から声をかけられて振り向いたまではいい。けど……相手の姿を目にした瞬間、思考が静止した。
黒いハットに高級感を漂わせる同色のスーツ。手には真っ白な手袋を嵌め、金属杖を持ち、足下は磨かれた革靴。服装だけでも充分お洒落なのに、さらには通った鼻筋の下にちょび髭……!
恐る恐る、自分の鼻に手を遣る。……幸い、このロマンスグレーの前で鼻血を噴き出すような失態は冒していなかった。
『ネコ』ガ失踪シタ。
『ビワ』ハ『ネコ』ヲ捜索シタ。
モウスグ春休ミガ始マロウトシテイル。
『ビワ』ノ前ニ『ロマンスグレー』ガ現レタ。




