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四日目(1)

「……はっ……何、今の声……綸ちゃん?」


 少し前からうっすらと目覚めかけてはいたものの、なかなかベッドから抜け出せずにいた仄香だが、一瞬で目覚めると、大きな瞳を見開いてベッドから飛び起きた。昨日の朝、嬰莉の死体が発見されたときの状況がフラッシュバックする。

 ふと時計を見ると、時刻は既に午前十時を回っていた朝というよりむしろ昼に近い時間である。昨日の朝までは錦野が作る朝食の時間に合わせて早起きしなければならなかったが、錦野は昨夜からずっと部屋に軟禁されている状態で朝食を作る事ができないため、今日は起床時間が特に決められていない。

 いつもならベッドに入ればすぐに熟睡できる仄香だが、昨夜はなかなか寝付くことができず、目覚めても気怠さを振り払えぬまま、優に一時間以上ベッドの中で過ごしていたのである。しかし綸の声は、微睡む仄香の目を覚まさせるに十分なインパクトを持っていた。


 弾けるように部屋を飛び出した仄香。廊下に出て周囲を見回すと、嬰莉の部屋を挟んで二つ隣にある霞夜の部屋の扉が開いているのが見える。今の悲鳴を聞いて、霞夜も綸の部屋に向かっているのかもしれない。そう判断した仄香は、廊下を曲がり、両親の寝室の前を通って、H型の反対側にある綸の部屋へと走った。


 綸の部屋の扉は閉まっていた。


「綸ちゃん!? 綸ちゃん!? どうしたの、今の悲鳴!?」


 ノックとは言えないほどドアを強く叩きながら声をかけたが、反応はない。ドアノブに手をかけてみると、ドアには鍵がかかっておらず、ノブは軽く動かすことができた。


 まさか――仄香の脳裏を最悪の可能性がよぎる。

 いや、この扉の向こうで、今まさに、綸が殺人犯と決死の格闘を繰り広げているかもしれない。躊躇っている暇はなかった。仄香はドアを押し開け、勇ましく綸の部屋に飛び込む。

 予想に反して、綸の部屋には誰もいなかった。霞夜どころか、部屋の主である綸の姿さえ見えない。ベッドのシーツには、ついさっきまで誰かが寝ていたらしい生々しい皺がついており、触れるとほんのり温かい。綸が部屋を出てからまださほど時間が経っていないことは明らかだった。窓も開いておらず、綸がこのドアを通って外に出たことは明らかだ。

 自分より先に起きたはずの霞夜なら何か知っているかもしれないと考えた仄香は、返す刀で今来た廊下を戻り、霞夜の部屋へと向かう。霞夜も同じことを考えて綸を探し回っているかもしれないが、まずは部屋に行ってみるしかない。


 そして、霞夜の部屋に辿り着いた仄香の目に最初に飛び込んできたのは、昨日と同じように部屋の入り口でへたり込む綸の姿だった。

 まるで映画のワンシーンをリピート再生しているかのように、既視感を覚えるその光景。仄香はすぐさま綸の元へと駆け寄る。


「綸ちゃん、どうしたの? さっきの悲鳴、綸ちゃんだよね?」


 綸はやはり昨日と同じようにゆっくりと仄香のほうを振り返り、歯の根も合わない様子で言った。


「か……霞夜が……霞夜まで……し、死んで……」


 綸が指差す方へ視線を移すと、そこには、リビングでこちらに頭を向けて仰向けになったまま動かない霞夜がいた。


「そんな……まさか……」


 仄香は絶句し、その場でしばし呆然とした。しかし、まだ死んでいるとは限らない。昨日は霞夜が嬰莉の死体に駆け寄って息がないことを確認したが、今日はその霞夜がそこに倒れているのだ。自分がその役目をやらなければ――そう考えた仄香は、意を決して霞夜の部屋へと足を踏み入れた。

 部屋の中は特に荒らされた形跡も、激しく揉み合ったような形跡もない。当然、窓ガラスが割られているわけでもなかった。ドアのマスターキーを持っていたのも霞夜。つまり、犯人は霞夜自身の手によってこの部屋に招き入れられたことになる。


 仄香が近付いても霞夜はぴくりとも動かず、起きる気配すら見せない。怒り、あるいは恐怖で大きく見開かれたまま瞬きを止めた両目。嬰莉と同様、Tシャツは無残に引き裂かれ、スウェットと下着は足首のあたりまでずり下ろされ――。


 そして、霞夜の下腹部には、嬰莉と同様に凌辱の痕跡が残されていた。


「か……霞夜……ちゃん……」


 仄香はおそるおそる霞夜の手首に触れてみたが、脈をとるまでもなく、霞夜の身体は既に死後硬直が始まっている。これ以上確認のしようがない。霞夜の死を悟った仄香は、その場に頽れるようにして座り込んだ。


「どうして……どうして……? 霞夜ちゃんまで……こんなことに……いったい誰が……」


 仄香がすすり泣きを始めると、部屋の入り口から、息を切らせた望が顔を覗かせる。


「ごめん、ちょっとドアを開けるのに手こずっちゃって……それより、さっき綸の悲鳴が聞こえたけど……」

「のんちゃん……」


 入り口でへたり込む綸、涙を流す仄香、そしてその傍で仰向けのまま動かない霞夜。望はすぐに事態を察した。


「仄香、まさか……霞夜は……」


 望がそう言うが早いか、ついさっきまで震えていたはずの綸は突然立ち上がり、脱兎の如く駆け出して行った。望はそんな綸に少々面食らった様子だったが、改めて仄香に問い直す。


「霞夜も……殺されてるの? その……嬰莉と同じように……?」


 廊下にいる望からは部屋の全景が見えないため、仄香は自らの口でその状況を伝えねばならなかった。しかし、二人の死によって最も大きなショックを受けているのは、皆をここに招いた仄香である。そもそも霞夜ほど冷静でもない仄香にこの状況を説明しろというのは、あまりに酷な要求だった。


「……うん……きっと、もっとたくさんひどいことを……」


 時折言葉を詰まらせながら、どうにかそこまでは言ったものの、その先が続かない。望もそれ以上強いて聞き出そうとはしなかった。


 と、その時。


 ドンドン、ガン


 と、階下から伝わって来た振動に、仄香は驚いてビクリと体を震わせた。屋外での、暴風雨による異変ならば、これほど明確には伝わらないだろう。明らかに屋内で何かが起こっている。


「仄香、今の音は……!」


 廊下から望が緊迫した表情で顔を出した。綸はついさっきこの部屋を出て行ったばかり。もしや、嬰莉、霞夜に続いて、綸までも――。

 望も考えることは同じらしく、


「ちょっと、様子を見てくる!」


 と短く言い残すと、踵を返して一階へと走って行った。


「待ってのんちゃん! 一人で行動しちゃだめだよ!」


 こんなところで泣いている場合ではない。仄香も指で涙を拭いながら望の後を追う。

 まろぶように階段を駆け下り、まずはリビングに向かったが、リビングは無人だった。異変はどうやら北側の壁の向こうから伝わってきているようだ。


「仄香、こっち!」


 エントランスの方向に向かった望を追いかけ慌ててエントランスに出ると、エントランスから見て右側の廊下の奥、つまり北側の錦野の居室がある方向へ走ってゆく望の背中が見えた。


「まさか……やっぱり錦野さんが……」


 仄香は悲愴な表情を浮かべながら、望を追って錦野の居室へと走る。

 昨日、あれだけ苦労して錦野の部屋の前に築いたスチール棚などのバリケードは全て廊下に引き倒されており、錦野の部屋の扉は大きく開かれていた。部屋の入口に立った望が叫ぶ。


「やめろ! やめてくれ、そんなことは!」


 綸が危ない、いや、もしかしたら望まで――!

 既に友人を二人も失った仄香は、もう絶対にこれ以上の犠牲者を出すまいと、望と共に意を決して錦野の部屋に踏み込んだ。

 だが、そこで目にしたものは、あまりにも意外な光景だった。望が宥めるように言う。


「ダメだ、綸! その包丁をこっちによこして!」


 霞夜の部屋であの物音を聞き、仄香は綸が錦野に襲われているものと思い込んでいたが、目にしたものは全く逆の状況だった。鋭く研ぎ澄まされた出刃包丁を手にした綸が、錦野をジリジリと壁際まで追い詰めている。あの大きな振動は、錦野の巨体が壁から壁へと体を打ち付けながら逃げ回ったことによって生じたものだったのだ。


 壁に体を押し付けながら、恐怖に顔を歪ませる錦野。綸は血走った目を大きく見開き、包丁を振り上げたまま錦野ににじり寄る。仄香の姿に気付いた錦野が、震えながら助けを請う。


「お、お、お嬢様、お助けください、ここ、この方が私の部屋にいきなり乗り込んできて……」

「仄香は黙って見てて! こんなキモいオヤジにオモチャにされた挙句殺されるなんて、あたしはまっぴら御免だわ!」


 綸が仄香に注意を向けたその隙に、こっそり綸の背後に回り込んでいた望が綸の腕を掴み、包丁を取り上げようとした。


「落ち着いて綸!」

「いやっ、離して!」


 しかし、ヒステリー状態になった綸の力は思いの外強かったらしく、望の腕は容易く振りほどかれてしまった。振り回した包丁が望の顔を掠め、頬についた一筋の傷からジワリと血が滲み出る。


「痛ッ……」

「はっ……望……」


 全く意図しない形で望を傷つけてしまったことに気付いた綸は、一瞬動きを止めて立ち竦んだ。その間隙を縫って、錦野は綸から離れ、部屋から逃れようと立ち上がる。

 が、錦野の巨体が慌てて動けば、床の振動や音は避けられない。錦野の動きをすぐに察知した綸は、再び般若のように恐ろしい形相で錦野に襲い掛かる。驚いた錦野は、慌てるあまり、綸の目の前で大きく躓いて転んでしまった。


「うっ……おお、お、お助け……」

「逃ぃぃぃぃがぁぁぁすぅぅぅかぁぁぁぁぁ~!!!」


 動けなくなった錦野。

 飛びかかる綸。


「綸ちゃん! やめて!」


 仄香の必死の叫びも虚しく、綸が握った出刃包丁は、まるで吸い込まれるようにスムーズに錦野の左胸へと沈んでいった。

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