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第一の殺人

 その日の夜。


 目を閉じると、瞼の裏に焼き付いた彼女の水着姿が鮮明に蘇ってくる。

 しっとりと汗に濡れた肌、上気してほんのりと染まった頬、すらりと伸びた長い脚。昼間見た彼女の水着姿が、まるで淫魔のように妖艶に微笑みながら、私の意識を支配しようとしている。


 昨夜は結局なかなか寝付けず、日中はずっと激しい眠気に襲われていたのだが、今夜はそれ以上に眠れる気がしない。ベッドに入ってもまんじりともできず、眠ることを諦めた私は、悶々とした気分で部屋を出た。この火照る体と昂った気分を発散するには、とにかく体を動かすしかないと考えたのだ。


 だが、こんな夜中に部屋を出たところで、どこか行くあてがあるわけもない。体を動かすといっても大きな物音を立てるようなことはできないし、そうかといって、このまま歩き回っていてもただの不審者である。足音を立てないよう注意しながら廊下をウロウロと歩き回り、朝までどう過ごそうかと考えた。

 そして、遊戯室にダーツがあったことを思い出した。あれならば大きな音も立たないし、一人でも時間を潰せるかもしれない。

 遊戯室に向かっていると、たまたま通りかかった部屋の前で、その扉がうっすらと開いており、わずかに光が漏れていることに気が付いた。普段の、正常な状態の私だったら気にも留めなかっただろうけれど、私はその隙間を覗き込んでしまった。


「……だって、結構なセレブなんでしょ? なんか余裕っぽい感じがちょっとムカつくっていうかさあ」


 そこから見えたのは嬰莉だった。ラフな格好でリビングの椅子に気だるそうに腰掛けている。

 誰かと話をしているようだが、相手は死角になっていて見えない。


「……つーかさあ、あたし24時間テレビとかも嫌いだし、ぶっちゃけ、障害者とかもどう接したらいいかわかんないしさ……変な空気になんじゃん? ああいう、障害者だから特別扱いしろみたいな態度、ムカつくんだよね。障害持ってるからって所詮パンピーなんだから身の程弁えろって思わない?」

「……」

「そうそう、それよりさ、あの錦野ってオッサン。仄香の前だからまあ言わなかったけどさ、ぶっちゃけ超キモくない? あれがあたしたち見ながらちんこ弄ってたってさ、マージで超~鳥肌立ったんだけど」

「……」

「いやいやマジでマジで。AVで一人寂しく抜いとけやハゲって感じ」

「……」

「てか、そもそもさ、高三にもなって、何が悲しくてスイカ割りなんかやらなきゃいけないんだっていうね。小学生かっつの」

「……」


 誰にも聞かれていないと思って陰口に興じているようだ。もしここに通りかかったのが錦野だったらどうするつもりなのだろうか。

 嬰莉の愚痴はそれからさらに数分間続いた。錦野や乙軒島に関することだけではない。クラスメイトのこと、親のこと、受験のことなど、その内容は多岐にわたった。


 一しきり話し終えたのか、嬰莉は大きく背伸びと欠伸をして立ち上がった。


「ふぁ~、なんか眠くなってきたな。スマホ使えないとホント退屈。どんだけ田舎なんだよって感じ。ありえないわ~。んじゃ、色々聞いてくれてありがとね。また明日」

「……」


 会話はここで終わり、嬰莉がこちらへ近づいてくる。私は慌てて扉の前から離れ、廊下の隅に身を潜めた。

 開いた部屋の扉から明かりが漏れ、嬰莉の姿が闇の中に浮かび上がる。白いタンクトップにショートパンツ。すらりと伸びる細く長い脚。悶々として部屋を出た私の目に、薄着の嬰莉の姿は否が応にも艶めかしく映る。


 そして、気付けば私は、背伸びをしながら自分の部屋に戻って行く嬰莉の背中を、気配を殺して追いかけていた。女として暮らしてきた数年間、ずっと心の奥底に深く沈み、眠り続けていた衝動。それが突如として意識の表層まで浮き上がってきて、私を突き動かしている。

 私は嬰莉を性的な対象として見ていた。

 あの錦野と同じように。


 全く無警戒の嬰莉は、私が後をつけていることに気付く気配すらなかった。暢気にサンダルを鳴らしながら、自分の部屋の前で立ち止まり、扉を開ける。

 自分でも何が何だかわからない。嬰莉の後ろ姿が扉に吸い込まれるその刹那、私は扉の隙間へ強引に体をねじ込んで、完全に無防備な嬰莉を床に押し倒した。


「きゃっ!?」


 いきなり床に叩きつけられた嬰莉は、一体何が起こっているのか理解できない様子だった。


「えっ、な、なに?」


 暗い部屋の中で鈍く光りながら私を見返す嬰莉の瞳には、困惑の色が強く浮かんでいる。


「はっ? ち、ちょっと、誰アンタ! だ、だれか、たす……!」


 これがただのイタズラでないことに気付いた嬰莉は、私の体の下で必死にもがきながら助けを求めようとした。今ここで大声を出されたら終わりだ――私は慌てて両手で嬰莉の口を強く押さえつける。

 嬰莉は激しく抵抗したが、本来男である私の腕力の前では悲しいほどに無力だった。


「んーっ! んーっ!」


 私の手の指の間から嬰莉の必死の呻き声が漏れたが、窓を叩く激しい雨にかき消され、おそらく隣の部屋までは届かない。

 そのままどれぐらいの時間が過ぎただろう。数分かもしれないし、数十分だったかもしれない。嬰莉の口を塞ぎ黙らせることに夢中で、この間の時間の感覚は完全に麻痺していた。


 そして、ふと気が付けば、嬰莉は全く動かなくなっていた。


 微動だにしない嬰莉を見下ろして私は、恐怖のあまり気絶してしまったのかと思った。だが、それにしてはどうも様子がおかしい。


「おい……おい!」


 声をかけ、肩をゆすぶっても反応はない。

 まさか、と思いつつ、口の辺りに手を翳してみる。


 嬰莉は呼吸をしていなかった。

 私は一瞬で我に返った。

 何故?

 どうして?

 胸に耳を当ててみたが、心臓も動いておらず、手首に触れても脈がない。慌てて照明をつけ瞳を覗き込んでみると、瞳孔は既に開いていた。


 死んでいる……。

 私が、この手で、殺してしまったのだ。

 

 どうして? 人間ってこんなに簡単に死んでしまうものなのか?

 混乱した頭で現状を理解するにはいくばくかの時間を要したが、やはりそうとしか考えられなかった。人一倍健康な女子高生の嬰莉が、私に襲われたタイミングでたまたま突然死するなんて有り得ないのだ。

 私は口だけを塞いだつもりだったけれど、体重をかけて押さえつけた私の手が、もし嬰莉の鼻まで塞いでしまっていたのだとしたら――。暗くて手元はよく見えなかった。鼻と口を塞がれ、酸素の供給を断たれた人間は、やがて窒息死する。小学生でも知っていることだ。


 そして私は、はたと気付いた。

 まだ死んだとは限らない。心停止してからまだそれほど時間が経っていないはず。今すぐ救命処置を行えば、息を吹き返すかもしれない。

 私は急いで嬰莉の唇から大きく息を吹き込み、それから、彼女の心臓のあたりを何度も強く押し込んだ。昔一度講習を受けたきりで、ほとんどうろ覚えだったけれど、迷っている暇はない。誰かを呼ぶこともできないし、私がやるしか……。


 だが、どれだけ人口呼吸をしても、どれだけ心臓マッサージを行っても、嬰莉の呼吸も心臓の鼓動も、蘇ることはなかった。


 蘇生を諦めた私の体を、急激な疲労と虚脱感が襲う。


 どうしよう。

 どうすればいい?

 何もかも……。


 途方に暮れ、心臓マッサージを止めた私の手の下に、二つの柔らかい感触があった。

 痩せ型の嬰莉のそれは決して大きな膨らみではなかったけれど、でも、私の男の体には存在しないもの。


 今、私の下には、魂の所有者を失ったばかりの、まだ温かい女の体が横たわっている。


 ついさっきまで、彼女を蘇生させるために心臓マッサージを施していたその手で、私は嬰莉の着衣を強引に剥ぎ取った。

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