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ガーディアン

ガーディアン 第八話(挿話) ~紛争~

作者: 藤浦リサ

 第五話に続き、再び、事実上の警護シーンのない挿話的な回です。第六話と第七話のフォローアップのような感じになっています。

 河合茂が、平日昼間勤めている会社が終わった後、夜のかなり遅い時刻になってから、土日夜間限定で契約している警備会社の事務所へ到着すると、予想通り事務所には先輩警護員がひとりいるだけだった。

「こんばんは、高原さん。」

 しばらく間があって、狭い事務室内の自席で作業していた高原が顔を上げてこちらを向いた。

「おう、河合。最近残業が多いんだね。」

「三村には、単に仕事が遅いだけだってバカにされてますけどー。」

「お前、英一さんとたまには仲良くしろよな。」

 この小さくて若い警備会社の大森パトロール社で、茂が尊敬する先輩警護員である高原晶生は、メガネが似合う知的な顔立ちに不思議な愛嬌と人懐っこさが同居した好青年である。すらりと高い背丈、爽やかな短髪、そしてそつのない身のこなし。警護のレベルが極上であるのみならず、宴会一発芸もうまいというパーフェクトな人材である。

「高原さん、ここのところ、俺がいつ来てもここにいらっしゃる気がするんですが・・・」

 事実であった。土日夜間限定のパートタイムの警護員である茂は平日は夜しか来ないので遅い時間になるのは当然だが、フルタイムで勤務している高原が、茂がどんなに遅くなって来ても事務所にいるのは、ここ最近の傾向だ。

 警護員の仕事に昼夜も土日もないが、それにしても少し極端だと茂は思っていた。

「そうか?」

「お仕事、忙しいんですか?」

「そうでもないけどさ、怜を見習って俺も事前準備の精度をさらに上げてみようかなと思ってねー。」

「高原さんの準備の精度はもう十分高いと思いますが・・・・」

「あははは。怜といえば、やっと海外出張が終わって今頃あっちを飛び立ってるころだな。」

「帰国は明日でしたね。」

「海外で、いろいろ無事に済んでるといいけどね。」

「高原さん・・・それは、警護のことじゃなくて、ですよね?」

「もちろんさ。」

 葛城怜は高原の同僚で、茂が尊敬するもうひとりの先輩警護員である。高原に肉薄するような有能な警護員であるが、男性とは思えないその恐るべき美貌のため、それは本人の責任ではないとはいえ余計なトラブルを招くことがある。

 茂は給湯室へ行き、麦茶のピッチャーと、グラスふたつを持って戻り、麦茶を注いだグラスのひとつを高原に渡した。

「おお、サンキュー。」

 一気に麦茶を飲み干し、高原は大きくため息をついた。茂は二杯目を注ぐ。

「・・・なにか、心配事ですか?高原さん」

 高原は茂の透き通るような琥珀色の両目をじっと見て、しばらくして声を出して笑った。

「河合、お前最近ますます、怜に似てきたんじゃないか?」

「光栄ですが、その点はすごくまだまだだと思います。」

「お前に頼みがある。」

 突然口調を変えた高原の言葉に、茂はびっくりし、麦茶を気管に入れないよう慌てて飲み込んだ。

「・・・・?高原さん?」

「まあ俺も人のことは言えないんだが、・・・・それぞれの警護案件については、担当の警護員以外には不必要に情報を共有しないのが原則だよな。」

「はい。」

「それを、厳格に守ってくれ。前回の件について。」

「山添さんとの・・・・城生ひとみ氏警護の案件ですね。」

「そうだ。」

 高原や葛城と同期入社の警護員である山添崇とは、茂は前回の警護で初めてペアを組んだ。山添は途中で過剰防衛事故を起こし、それが原因で犯人側からの報復に遭い、生命の危機に瀕した。

 山添が、プロの、それも経験を積んだ警護員にあるまじき過剰防衛事故を起こしたのは、その前の、葛城と茂がペアを組んだ警護案件と関係がある。茂もそう考えていたし、高原もそう考えていることは間違いなかった。

「それはつまり、葛城さんに、話さない、ということですね?」

「そうだ。波多野部長と、それから山添にも、同じことを頼んである。」

「高原さん・・・・」

 茂が思いつめたような表情になっていることに気がつき、高原が笑った。

「なんでそんな顔をするんだよ、河合。確かに、俺の考えすぎかもしれないけどね。」

「・・・・」

「前回の怜とお前との警護で、山添が殺しても飽き足らない人間を、クライアントとして怜とお前が警護することになった。それは会社の方針を放棄しないため、お前たちが非常な努力をしてやり遂げたことだ。だが、その警護を手助けした山添が、その直後の警護案件で事故を起こしたと怜が知ったら、あいつは必ず自分を責めるだろう。」

「はい。」

 茂は、高原の言葉に異存はなかったし、葛城の性格は誰より高原が知っているはずだから彼の言うとおりにするのが一番だと素直に感じた。茂が気になったのはその点ではなかった。

「高原さんの心配って、このことだったんですね。」

「うん、そうだな。」

「そうですよね。」

 話し終わった後の高原の顔を見て、今度は茂が心配そうな表情になっていた。



 翌日の土曜日、午前中から茂は波多野営業部長に大森パトロール社の事務所に呼び出されていた。新たな警護案件のことである。

 事務所に茂が入ると、やはりいつからそこにいるのか分からない高原が、根を詰めた様子で自席の端末へ向かって作業していた。

 波多野の姿は見えないが、声が聞こえる。応接室から、地声の大きな波多野の、機嫌のよさそうな声が漏れ響いてくる。

「あ、もしかして・・・」

「そうだよ。今日は山添が退院後の初出勤で、顔を出したんだ。」

「部長嬉しそうですね。」

「ははは。そりゃそうだ。まあ、過剰防衛事故のときは死ぬほどあいつも波多野さんに怒られてたけど、それだけ波多野さんも心配してるんだからね。」

 外は快晴だが、窓の景色の少し奥に、やや暗い雲が見える。今日の予報は午後から雷雨だ。

 応接室から出てきた山添崇警護員と目が合い、茂は数歩近づいて会釈した。

「おはようございます、山添さん、お疲れ様です。」

「河合さん、おはようございます。前回の警護案件ではいろいろご迷惑かけました。」

 山添の身長は、茂より少し高いがそれほど変わらないから百七十センチ少々だが、百八十センチほどある高原に負けないくらい長身に見えるのは、見るからにスポーツ好きそうな鍛えられた体つきのせいだ。それも、ごつい感じではなく、しなやかで、柔軟な感じがする。よく日焼けしている肌に、茂よりやや濃いめの茶髪が耳の下くらいまでかかっている。黒目勝ちの目が似合うきれいな顔立ちは、青年というより美少年という感じだ。

 山添は茂の背後の自席から自分のほうを振り返っている高原のほうへ、歩いていく。

「波多野さんから、正式に、業務復帰の許可があった。ただし、最初は後方支援から、ということだ。今回の案件も、俺の代わりにお前に担当してもらうことになって、申し訳ない。」

「気にするな、ゆっくり戻ってこいよ。」

 高原は立ち上がり、労わるように山添の肩へ手を置いた。

 応接室から呼び声があり、茂と高原は応接室で待つ波多野部長と向かい合ってソファに座った。

 波多野営業部長は、相変わらず坊主頭に近い短髪に全然似合わないメタルフレームのメガネをかけ、麦茶を飲みながら書類をめくっている。しかし確かにその様子は、かなり機嫌が良さそうだった。

「晶生、すまんな。今回も急な交代になった。」

「大丈夫です、資料は目を通しました。定例的な案件ですし、一日だけですし。」

「崇の体調は、ほぼ問題ないし、思ったより早く復帰できてほっとしたよ。が、警護案件への本格復帰はこの次の案件からにする。念のためだ。」

「はい。」

「・・・で、本来は晶生ひとりで十分な案件だが、茂、今回久々に高原とペアを組んでもらうのは、OJTだ。」

「はい、ありがとうございます。」

 茂は嬉しそうに応え頭を下げた。高原のような上級の警護員とペアを組ませてもらう機会は、多ければ多いほど、新人警護員としてラッキーなことだ。そもそも茂が現在、ほぼ偶然の行きがかり上、葛城の下で普段のペアを組んでいること、そのことだけでも幸運である。茂は自分がよほど日頃の行いが良いのだと思った。

 二人はあらかじめもらっていて持参したファイルを取り出し、内容を確認する。

「警護案件は、山添ご指名で一応ぎりぎりまでキャンセル待ちだった案件だ。この××弁護士事務所さんはうちの会社始まって以来のお得意様なんだが、山添と高原と葛城がお気に入りだ。特に公判時の移動時警護は、山添を指名されることが多いんだよな。」

 高原が笑った。

「波多野さん、それは完全に奴の外見のせいですね。」

「はははは。まあ、三人の中では、サングラスをかけると崇が一番怖そうだよな。」

「そうですか?」

 確かに、あの愛らしい両目を隠してしまうと、ちょっと野性的な迫力が出るのかもしれない。

「茂は有給休暇大丈夫か?」

 警護予定日は平日である。

「はい、昼間のほうの会社の許可は取れました。」

「よし、じゃあ今日は、晶生の下見に同行してこい。」

「はい。」

 出て行こうとした二人に、最後に波多野部長が言った。

「晶生、本番ではサングラスはちゃんと怖そうなやつをかけろよ。」

「・・・・波多野さん、楽しんでますね?」



 茂と高原が応接室から出て事務室へ戻ると、山添は自席で端末に向かっていた。休んでいた間に書類やメールがたまっているのだろう。今日中に全部片づけるのを早々にあきらめたように立ち上がり、応接室から出てきた高原を認めると、改めて山添は高原のほうへ歩いてきた。

 茂は二人から離れ、共有の作業席へ向かった。

 山添は高原の前で立ち止まると、さっと頭を下げた。

「晶生、俺が今日もここに立っているのはお前のおかげだ。・・・ほんとに、ありがとう。」

「・・・・」

「ごめんな。俺は、和人のことを、抱えきれずに、しかもその自覚さえできてなくて、お前に迷惑をかけた。恥ずかしいと思ってる。」

「・・・・」

 高原は微笑もうとして失敗したような、奇妙な表情になった。そして少し硬い顔つきになり、同僚の顔を見ていた。

「許してくれ。・・・いや、プロの警護員として、もちろん許されるようなことじゃないけどな。」

「・・・許されないのは、俺のほうだ。」

「晶生?」

 高原の様子が少し尋常でないことに山添が気がつき、黒目の大きな両目を凝らすようにして、高原のメガネの奥の知的な両目を見た。その表情はさらに硬くなっていくように感じられた。

「・・・」

「どうした?晶生」

「それ以上、言わないでくれ、崇。俺を・・・・甘やかすな。」

 山添だけではなく、離れた席で二人の会話が耳に入っていた茂も、高原の反応に少し驚いていた。


 警護現場の裁判所から最寄りの地下鉄駅、そして弁護士事務所までの移動ルートを確認しながら、茂は、隣の高原から色々な実地指導を受けつつ、つい気が逸れそうになる自分をコントロールするのに苦労した。

 あの後高原はまたいつものように山添と仲良く会話していたし、今も全くもって普段通りの様子だ。しかし、山添がさっき事務所で前回警護のことをあらためて詫びて礼を言ったとき、なぜ高原はもっと嬉しそうにしなかったのだろう。

 早くも空模様が怪しくなってきた。湿った風が肌に感じられる。

「・・・研修でもひととおり聞いてると思うが」

「はい。」

「ハイプロファイル警護は、クライアントが注目を浴びることが避けられない場合に行うが、ハイリスク・ハイリターンだ。」

「はい。」

「クライアントの近くで遠慮なしに警護できるが、自分自身が襲撃のターゲットにも非常になりやすい。基本的な警護技術をバランスよくクリアすることはもちろん・・・物理的な腕っ節にもかなりの自信が必要だ。一撃必殺くらいのね。」

「は、はい。」

「自分が倒れたらもう後がないのが、身辺警護員だからさ。ロープロファイル警護や周回警護より、それが顕著だし、襲撃者のレベルも通常、上がる。」

「・・・はい」

「まあ、さっき波多野さんがおっしゃっていたのは半分冗談だけど、実際、警護員は強面につくって心理的ハードルを上げるんだよ。でも、だからこそ、そのハードルを越えて実行される襲撃は、覚悟や威力が違うわけだ。」

「そうですよね。」

 高原は緊張の面持ちの後輩警護員に優しく微笑みかけ、さらに移動中の位置取りや周回警護のチェックポイントについて、細かく指導をしていく。

「あまり緊張しなくていいよ。実際は今回の警護は難易度は低い。裁判案件の重要度は中の下くらいだ。しかしもしももっとやばい案件の場合は、本当に一人の警護員では危険だから、今回のお前みたいなサブ警護員を潜ませる。」

 弁護士事務所前で下見を終えたとき、ついに空から大粒の雨が落ちてきた。



 茂と高原が下見の現場から引き揚げつつあったとき、大森パトロール社の事務所では、山添が一人残って自席での作業を再開していた。しかしあまり能率が上がらない。もちろん、今日の高原との会話を思い出していたからだ。

 そのとき、事務所の従業員用入口をカードキーで開ける音がして、中型のキャリーバッグを引きながら同僚の警護員が事務室へ入ってきた。

 肩の下まで伸ばした髪も、上着も、急に降りだした雨に遭って濡れている。

「怜!今帰ったのか」

「ただいま。今日も仕事なんだね、崇。お疲れ様。」

 雨に少し濡れた髪をかき上げながら、葛城怜は山添の顔を見て笑顔になった。大森パトロール社が誇る有能な警護員のひとりである葛城怜は、しかしとてもそうは見えない、茂と高原が海外出張中のトラブルを心配していたほどの絶世の美貌の持ち主であり、茂と同じくらいの身長のごく細身の青年だ。

 山添の顔が少しこわばったことに、葛城はすぐに気がついた。自席の椅子の背に上着を脱いでかけ、キャリーバッグから仕事関係の書類を出して机上で整理しながら、声をかける。

「俺の海外出張中に、崇が茂さんとペアを組んだ案件があったと聞いたけど・・・・無事に終わった?茂さんは新人だけど、もうかなりの回数の経験もあるから、大丈夫だったとは思うけど・・・。」

「うん、問題なかったよ。河合さんはまだ経験値は浅いけど、一所懸命やってるね。」

 壁面に掲示してある、警護員ごとの動静表に目をやり、葛城は山添のほうを見る。

「今日は・・・晶生と茂さんは一緒に出張みたいだね。何か聞いてる?崇。」

「ん、いや、特には・・・・。」

「?」

 どんな美女も戦慄するような、異様な美しさの両目で、葛城は不思議そうに山添の顔を見た。



 月曜日、裁判所と弁護士事務所との間の移動時警護は、午前中で終わった。

 高原の予告通り何事もなかったが、マスコミ関係者や傍聴者の数は少なくなく、茂にとって初めての良い経験となった。ハイプロファイル警護を援護する周回警護の、つかず離れずのむずかしさを実感し、何度か視界の外にクライアントと高原が隠れてしまった。

 レビューはかなりのページ数になりそうだ。

 インカムを装着し数メートルの距離を開けて見守る茂の目に、見え隠れする高原の姿は、以前初めてペアを組んだとき以上に厳しく、そして犯しがたい存在に見えた。サングラスなどなくても、十分近寄りがたい。

 茂は、前回警護で、山添警護員を救援に入った高原の動きを思い出していた。犯しがたいことを相手に分からせるのは、つまり、一撃必殺の実力の持ち主だからだ。

 高原の警護の壁を超えて襲撃することは、この世のあらゆる困難なことの中でも、有数の困難なことに入るだろう。この先輩警護員には、まったく、隙というものがない。山添が言っていたように・・・「とても、バランスがいいんです。つまりは、パーフェクト」である。

 しかし今自分が、なぜこんなにこの先輩のことが気がかり・・・おこがましさを承知で遠慮なしに言葉を選ぶならば、心配であるのかが、茂自身不思議だった。


 二人は弁護士事務所前で警護を終了し、そのまま建物内まで念のためクライアントに同行した高原を、茂は路上で待った。

 玄関ホール正面の階段を使って降りてきた高原は、建物出口で迎えた茂に微笑みかけた。

「河合、お疲れ。どうだ?お前もそのうちハイプロファイル警護、やってみたくなっただろ。」

「ははは・・・・。千年早いですよね・・・きっと。」

 建物内から外へ出て、茂は高原の顔をふと見て、非常に単純なことに気がついた。

 高原の、顔色が恐ろしく悪いのだ。

「高原さん・・・・」

「ん?」

「あの、もしかして今日はかなり、お疲れですか?」

「あっははは、そんなことをお前に言われるとはなー。」

「す、すみません」

 神経を使う警護の後は、仕方がないことなのかもしれない。



 午前中有給休暇をとった昼間の会社へ、午後から茂は戻った。

 同じ係の、斜め向かいの席では、同期入社の同僚の三村英一が相変わらずてきぱきと働き、茂のまったりとした空気と好対照をなしている。

 茂は、この、才色兼備で傲慢で唯我独尊の同期が非常に苦手だが、彼は大森パトロール社となぜか腐れ縁ともいえる縁があり、茂の先輩の高原や葛城、そして上司の波多野とも仲がいい。

 会議に出て、再び席へ戻ってきた英一は、高原くらいある長身の背筋を相変わらずぴしっと伸ばし、カラスみたいな真っ黒の髪と同じ漆黒の目を、斜め下の茂のほうへ向けた。

「河合、今日の資料、抜けがあったぞ。とじる前に確認しろ。そのくらいはアルバイト嬢でもちゃんとやるぞ。」

「ああ・・・悪かったよ。」

「?」

 英一は、茂の反応が上の空であることに気がつき、珍しそうな顔をして改めて目の前の同僚を見た。

「なんだ、また警護疲れで心ここにあらずか?」

「あ・・・それは・・・・」

 それは茂が一番言われたくないことである。

 しかし警護員としての仕事を話題に出されたことが、茂の背中を押した。

「・・・どうした?」

 思いつめた顔になった茂に、英一が思わず声をかける。

「あのさ、三村。ちょっと、その・・・・」

「?」

「その・・・相談が・・・・ある。」

 茂には気づかれなかったが、英一は手に持った書類を危うく落としかけていた。

 茂が英一になにか相談ごと、というのは、いわば数万年間降水量ゼロの砂漠にゲリラ豪雨が降るというようなものだ。

「は・・・・?」

「・・・今日、終業後、時間あるか?」

「・・・・」

「ダメか?稽古あるもんな。」

「あ、いや・・・・大丈夫だよ。」



 月曜午後、ほかの数名の警護員たち同様に、自席で次回警護の準備作業をしていた葛城は、入口近くにいた警護員が自分を呼びに来たとき、今日は事務員の池田さんがいないことを知った。

 艶やかだが雑に切られた黒髪をなびかせるようにして葛城のところに来た同僚の警護員が、面倒そうな態度を隠そうともせずに言う。

「××弁護士事務所さんだ。山添も高原もいないから、お前が出たほうがいいんじゃないか?」

「わかった。ありがとう、月ヶ瀬。」

 事務所の受付窓口まで行くと、見たことのある事務員の制服姿の女性が立っていた。

「突然に恐れ入ります。××弁護士事務所の者ですが・・・・。」

「いつもお世話になっております。すみません、今日は事務の者が不在で・・・」

「警護員の葛城さんですよね、しばらくお会いしなかったですが、お元気でしたか?お会いできてうれしいわ。」

 ××弁護士事務所は大森パトロール社始まって以来のお得意様だが、こうして先方の事務員がこちらへ来ることは普通はないし、あっても事務員の池田さんが対応するので、こういう形で警護員が直接顔を会わせるのは極めて珍しいことだ。

 弁護士事務所の事務員の女性は、申し訳なさそうに手元の大型封筒を取り出した。

「すみません、お支払書類に不備があって・・・。うちの社長が、今回も非常にスムーズに警護を完了してくださったのに、入金が滞ることになったら申し訳ないので、すぐにお届けしてくるようにって。いつもお願いしてる山添さんじゃなかったのはちょっと残念そうでしたけどね。」

「そうなんですね。わざわざ恐れ入ります。」

 事務員の女性は人目をはばかるように笑った。

「社長ったら、山添さんがサングラスをしてうちの弁護士についてくれると、もう絶対なにも起こらない気がするんですって。でも今回は仕方ないですよね・・・前の警護で、かなりひどい怪我をされて、入院されたんですもんね。」

「・・・・・」

「うちの社長は皆さんが新人のころから知ってますから、もうこの話ばっかりですよ、今は。今まで、警護中にそんなことになるなんて、ほとんどなかったですもんね。なにかあったんじゃないかって、心配してましたよ。」

「・・・・・」

「葛城さんも、くれぐれもお体大切になさってくださいね。また葛城さんや高原さんにも、色々な警護のお願いが行くと思いますから。」

「・・・はい、どうもありがとうございます。」

 弁護士事務所の事務員を見送ると、葛城は踵を返し、事務室の壁に掲示してある各警護員別の動静表に目をやった。



 夕日が沈み夜が始まったばかりの街は、まだ月曜のせいか、まっすぐ駅へ向かうサラリーマンたちはほとんどその途中にある建物には見向きもしない。

 二人が平日昼間勤める会社と駅の反対側にある大森パトロール社の事務所との、ほぼ中間地点にあるコーヒー店に、茂と英一が入ってきたときほかに客は誰もいなかった。

 英一は長い脚を狭そうにテーブルの下で組みながら、少しの警戒心さえ覗かせながら茂の言葉を待った。

「ごめん、急に。」

「いや、それは構わないが・・・・」

「高原さんのことなんだ。」

「・・・お前の先輩警護員の?」

「いつだったか、お前が、高原さんの異変に俺より早く気がついたことがあったよな。」

「ああ。」

「あのときは、ただし原因は多分明らかだったけど・・・・今回、全然俺、わからないんだ。」

「?」

 氷水の入ったグラスを、茂は両手でつかんで見つめた。

「お前は俺より、高原さんと多分親しいし・・・なにか、わかるんじゃないかと思ってさ。」

「お前のほうが高原さんと会ってる時間は全然長いけどな。」

「そうなんだけどさ。・・・今日、短時間の警護だったけど、久々に高原さんの下でペアを組んだ。確かに神経をすり減らすハイプロファイル警護だったけど、・・・それにしても、高原さん、異常に疲れた様子だった。」

「短時間だったのに?」

「うん。それに、今考えると、今日に始まったことじゃないんだ。」

「・・・」

「最近、俺が事務所に行くと、ほぼ毎回顔を合わせるんだけど、いつも明るいし優しいんだけど、なんか変なんだ。」

「お前、そう言いながら原因に心当たりがあるな。」

 茂は英一の顔を見た。コーヒーが運ばれてきて、二人は一瞬会話を中断した。

「ある。三村流関係者の、あの能舞台での警護案件。」

「・・・・」

 英一の顔が少し強張った。茂は念押しするように英一の端正な漆黒の目を見る。

「業務上のことを、本当は警護員はむやみに口外しちゃいけないんだけど・・・秘密は守ってくれるよな?三村。」

「ああ、大丈夫だよ。」

「あのとき、俺たちは、過去にうちの会社の警護員を、欺いて、犯罪に利用した人間を・・・再びクライアントとして警護した。それは、当日警護現場にいた葛城さん、高原さん、そして山添さんという先輩警護員たちにとって、共通のことだった。」

 英一は、そのクライアントのことは警護前夜に高原から概要を聞いて知っていたが、茂には言わない。

「山添さん?」

「山添さんっていう警護員がいるんだけど、この人は、なかでもその警護員・・・かつてそのクライアントに利用され、殉職した朝比奈警護員と、つきあいが長くて親しかった。でも山添さんも、うちの会社のポリシーを守るために、最後は自ら望んで、その警護の支援をしてくださった。」

「すごいな。」

「すごいよ。ほんとにすごい。でもその後、山添警護員は、直後の別の警護案件で、事故を起こした。」

「・・・・そうか・・・。」

「高原さんは、その警護案件の間じゅう、山添さんのことを心配して気遣っていたんだけど、事故は起こってしまった。」

「そのクライアントのことがわかったのは、どういう経緯だったんだ?」

「事件から数年経って、最近になって山添さんが高原さんに協力を頼んで、当時の経緯をもう一度調べなおして、わかったんだ。そして、奴らが、ふたりのクライアントが同一人物だと教えてくれた。」

 英一は目を伏せしばらく黙っていたが、再び顔を上げて、茂を睨むように見た。

「・・・・・・高原さんは、山添警護員が事故を起こした警護案件のとき、こんな感じじゃなかったか?・・・能舞台での警護で、自分のことで精一杯で、仲間のことを考える余裕がなかった、そのことを、申し訳なかった・・・というようなことを言っておられなかったか?」

「そのとおりだよ。」

「ものすごく想像つくよ。」

「その後・・・」

「ずっと、高原さんが元気がないんだな?・・・あのさ、さっき、いつ事務所に行っても会う、って言ってたよな。」

「うん。」

「俺も経験あるけど、高原さん、多分常軌を逸した働き方をしてると思うよ、今。」

「え・・・・・」

 聞き返した茂に答えず、英一は逆に茂に質問した。

「葛城さんは、どうしてる?」

「前回の、山添さんが事故を起こした警護案件のとき、葛城さんは海外出張中だったんだ。でも葛城さんが帰国されたら高原さんはきっと山添さんの一件を話すと思ってたんだけど・・・」

「高原さんは、葛城さんには言うなと言ったんじゃないか?」

「そうなんだよ。葛城さんの性格だと、絶対に自分を責めるだろうからって。」

 英一はコーヒーを一気に飲み干すと、大きなため息をついた。

「ほんとにあの人・・・・」

「?」

「あの人、警護員としては天才的なのに、こういうことは、ダメダメなんだな。」

「え」

「河合、お前がまずやったほうがいいのは・・・高原さんに怒られるのを覚悟の上で、このことを葛城さんに話すことだな。」

「やっぱりそうだよな」

「それから、高原さんの労働状況について、波多野さんに相談しろ。」

「・・・・そうするよ。」

 そのとき、茂の携帯電話が着信を知らせた。

 発信者名を見た茂が、意外そうな顔で言った。

「電話・・・山添さんからだ。」



 月曜夜、次回警護の現場を二か所掛け持ちで下見した後、高原は事務所へ戻るべくビルの谷間の広い歩道を歩いていた。事務所にごく近い最後の現場からは、地下鉄に乗るほどでもない中途半端な距離だった。茂が平日昼間に勤める会社が入っているビルも、そして英一がよく行く使うコーヒー店も、すぐ近くだ。

 そしてそのコーヒー店で山添からの電話を受けた茂は、下見帰りの高原を事務所到着前に、それも直接つかまえたいという山添とともに、出張予定表にあった警護現場を探して歩いていた。

 この辺りは通勤経路で、茂は誰より土地勘がある。

 昼間の雨が遠のき、水は地上の煉瓦と、そして高いケヤキ並木の梢に残るばかりである。街灯の光が葉の隙間から漏れ、地上からのライトアップは葉の裏を照らし、趣向を凝らした絵画のような光景が夜空を背に広がっている。

 ようやく遠くに高原の姿を見つけた茂がそちらへ行こうとして、山添に止められた。

「どうしたんですか?」

「あっちを見てください、河合さん。怜ですよ。」

「えっ」

 山添の言ったとおりだった。高原が歩いて向かっている先の、路上の石造りのベンチに、高原のほうを向いて葛城が座っていた。いつからそこにいたのだろう。

 茂と山添は二人に可能な限り近づき、物陰から高原と葛城の様子を見守った。そしてたちまち嫌な予感を感じ、そしてそれが的中したことをすぐに知らされた。

 夜の街灯の光の下、石のベンチから立ち上がり、ぞっとするほど美しいまなざしでこちらを見ている同僚に気がつき、高原は立ち止まった。

「・・・怜。どうしたんだ?」

「話がある。」

「仕事の用件だったら、携帯へ電話しろ。そうじゃないなら、まだ事務所で作業があるから、後にしてくれ。」

 山添が右手で両目を覆い、小声で茂に「ばれたみたいですね。・・・これは、やばい。」と言った。茂もまったくの同感だった。そして、そのことに高原がうろたえていることも、火を見るより明らかだった。

 葛城は高原の知的な両目から目をそらさずに、言った。

「どうして、崇の事故のことを、教えてくれなかった?」

 高原は葛城の顔から視線を外して、そのまま足を進めようとしたようだった。

 が、片足を横に一歩踏み出しそれを葛城が阻む。

「なぜ、言う必要がある?」

 高原は、答えながら、葛城のほうを見ようとしない。

 自分より十センチ近く背が高い相手の顔を見上げながら、葛城は静かな声の中にも苛立ちを隠さず言葉を続ける。

「崇は、そんな事故を起こすようなやつじゃない。どう考えても、能舞台での佐藤氏・・・升川の警護が、原因だ。それは、俺が担当した警護案件だ。誰より、俺が、知っているべきことだよ。」

「知って、それで、どうするんだ?」

「俺にもなにか、あいつに、してやれることがあるはずだ。」

「なにもないよ。」

「・・・・!」

 高原は少しだけ表情を穏やかなものに変え、しかしその目の硬い光を崩すことなく、葛城の顔を見た。

「なにもない。現に、知った俺も、何もできてない。他人には、どうしてやることもできないんだ。」

「それでも・・・!」

「余計なことを考えるな。お前はいつもそうだ。必要以上に、他人のことを、考えすぎる。それは無駄だし、なにより、お前にとって良くないことだ。」

「なんだよ、いったい・・・・」

 葛城の声に、怒りがこもった。

 高原は、表情を再び厳しいものに戻した。

「お前は、お前自身の心の整理をつけることだけを、考えればいい。今回の・・・升川の件は、それだけでも十分な事柄のはずだ。それもできないうちに、他人のことまで首をつっこむな。」

「晶生、お前・・・ふざけるな!」

 茂は息をのんだ。葛城がここまで怒った姿をもちろん今まで見たことはない。

 いや、それは正確には怒りと形容するべきではなく、激烈な抗議とでも言うべきものかもしれない。

「お前こそ、いいかげんにしろ、怜。」

 高原は、葛城の脇を無理やりにすり抜けるようにして、そのまま葛城を残し歩いて行ってしまった。

 茂と山添は葛城に声をかけることもできず、そのままそっと立ち去るほかなかった。



 火曜日以降も、高原の様子に変わったところはなかった。というより、おかしいままの様子が続いている・・と言うのが正しい表現だった。

 山添が波多野部長に相談すると言っていたので茂は待っていたが、木曜日、ついにたまりかねて自分も波多野部長へ直接相談してみることにした。

 事務所では話しにくいという茂のために、波多野は例のコーヒー店まで来てくれた。

「うん、崇に話は聞いたよ。」

 波多野がメガネのメタルフレームを持ち上げながら答える。

「俺が心配してるのは、でもむしろ・・・あいつがちょっと異常な働き方をしてることだ。」

「波多野さんも、そう思っておられたんですね。三村も同じことを言ってました。」

「実際のあいつは、他人のことを・・・怜のことを気遣っている場合じゃないと思うんだが、あいつは誰にも、心配というものをかけない人間だからな。」

「・・・・」

「ある意味、取りつく島がない。」

「なにか、きっかけがあれば・・・」

「そうだな、必要なのは、なにかきっかけなんだが。でもそんなことを言っていても仕方がないな。わかったよ。俺が、業務命令で、晶生に休暇をとらせる。少しゆっくり考える時間を与えるよ。明日の金曜で今の警護案件も一段落のはずだ。来週いっぱい休ませる。」

「・・・ありがとうございます!」

 波多野はため息をつき、それから改めて茂を見た。

「それにしても・・・・三村英一さんという人は、実にすごい人だな。本当に、うちのコンサルタントとして来ていただきたいくらいだ。」

「・・・・。」

 茂はその点についてだけはノーコメントにした。



 翌日の金曜の夜、茂が大森パトロール社の事務所に顔を出すと、ちょうど帰ろうとする葛城とすれ違った。

「こんばんは、葛城さん。」

「茂さん・・・なんだかすごくお久しぶりですね。」

 葛城の笑顔はいつも通り優しく美しい。

 高原と仲直りはできたのだろうか。

 葛城の背後の事務室から、山添がこちらを見ていたので、茂はそちらをちらりと見た。山添が、黙って両手で「×」の字をつくった。ぜんぜんダメらしかった。

「海外出張からお戻りになって以来でしょうか。」

「そうですね・・・。また次の警護案件の話があるでしょう。今日はこれで帰りますが、そのうちまた。」

「はい、お疲れ様でした。」

 高原は打ち合わせコーナーで携帯端末に目を落とし、警護レビューの最終チェックをしていた。

 茂に受けとった麦茶のグラスをその前に置き、山添が高原に声をかける。

「あのさ、晶生。」

「・・・ん?なんだ?」

「事故でお前に迷惑をかけた張本人の俺が言うのも、あつかましい話ではあるけどさ。」

「?」

「怜に心配かけまいとするより、怜にもちゃんと話してやったほうがやっぱりよかったんじゃないかな。」

「・・・・」

「いずれにせよ、なんか俺のせいでお前たちがこんなになってるのは、つらいよ。」

「・・・・」

「だから・・・」

「お前のせい、というのは、ちょっと違うよ。確かに具体の案件としてはそうだが、あいつと意見が合わないのは、根本的なところだ。」

「・・・・」

 山添は小さくため息をつき、すごすごと自席へ戻る。

 街は金曜夜らしいにぎやかさだが、時刻は深夜に近づき、事務室内はひとりまたひとりと警護員が退社し、静けさを増していく。

 高原は引き続き打ち合わせコーナーの机に両肘をつき、両手を顔の前で組んで書類に目を落としている。

「じゃあ、帰るよ。」

 山添が声をかけると、下を見たまま小さく高原は返事をしながら頷いた。

 茂は来週高原が無事に休暇を取ることを期待しつつ、今日は山添と今後の作戦を考えようと、続いて事務所を後にした。


 事務所の入っているビルから階段で降り、外に出たとき、茂がふっと立ち止まった。

 隣の山添が数歩先に行ってから立ち止まり、振り返る。

「河合さん、どうしました?」

「俺、ちょっと事務所に忘れ物したんで・・・。」

「?」

「すぐ追いつきます。店、先に行っててもらってもいいですか?」

「あ、はい。・・・いいですけど。」

 再びビルの階段を上がり、事務室へ茂が入ると、奥の打ち合わせコーナーではさっき茂が出てきたときと変わらぬ様子で、高原が手元の携帯端末に目を落としていた。

「高原さん、あの・・・・」

 高原は、両肘をつき、組んだ両手を額に当て頭を支えるようにしたまま、返事をしない。茂は勇気を出して、もう一度声をかけた。

「あの、高原さん」

 山添と同じことを、自分も言う。だからどうということもないが、自分も言いたいと思った。しかし高原の反応がないのは、茂の勇気をかなりくじいた。それでも最大限の努力をして、茂は高原につかつかと歩み寄った。

 打ち合わせコーナーのテーブル脇まで来た茂は、そこで初めて異変に気がついた。

「・・・・」

 高原が、返事をしないのではなく、できないのだということが、わかった。

 うつむいたまま、高原は、目を閉じ苦しそうに息をしていた。

「た・・・高原さん・・・・」

 小さく高原の声が聞こえた。

「ごめん、河合・・・ちょっと水、もらえるかな」

 給湯室からグラスの水道水を持ってきた茂は、グラスを放り出して高原に駆け寄った。高原はすでにテーブルに突っ伏していた。

 助け起こそうとして、茂は、高原の体が異常に熱いことがわかった。尋常ではない熱だ。

「晶生?」

 事務室入口のほうから、山添の声がした。

 こちらへ走ってくる。

「気になって戻ってきた。おい、大丈夫か?晶生!」

 高原は返事をしない。

「どうしよう・・・山添さん。病院へ連れて行かないと・・・・」

「そうですね・・・それより、うちの会社のかかりつけ病院に、医者にこっちへ来てもらいましょう。多分大丈夫のはずです。」

「俺、連絡します」

「受付カウンターの下に電話番号表が貼ってあります。○○総合病院です。」

「はい!」

 茂が電話をかけている間に、山添は高原を助け起こし、抱き抱えるようにして応接室のソファーまで連れて行き、長椅子へ寝かせた。

「病院へ連絡しました!いつもの先生じゃないけど、すぐ来てくださるそうです!」

「よかったです。」

 水を取りに給湯室へ山添が入ると、茂がタオルを濡らして絞っていた。

 濡れタオルを高原の額に当てながら、シャツのボタンを緩めてやる。水を飲ませようとしたが、ほぼ高原の意識はなくなっており、無理だった。

 十五分後に、大森パトロール社のかかりつけ病院の医師が到着するまでの間、二人は、苦しそうに息をする高原の傍で、その横顔をじっと見守っていた。

 若い医師が高原の診療を始めたとき、ようやく山添は波多野部長に連絡していなかったことに気がつき、携帯電話から電話をかけた。



 土曜朝、茂の運転する事務所の車が、一軒のマンションの前に停まった。

 助手席の背もたれを倒して横になっている高原に、運転席の茂が声をかける。

「高原さん・・・歩けますか?もう少し、事務所の当直室で寝てればいいって波多野部長もおっしゃっていたのに、こんなにすぐ・・・」

「大丈夫だよ。いつまでもあそこを占領してるわけにも・・・いかないし。」

 後部座席から降りてきた山添が高原に肩を貸し、三人はエレベーターで高原の部屋のあるフロアまで上がった。

 部屋に入り、リビングの、低い大きなソファーへ高原を座らせた後、山添はひとしきり室内を歩き回り、その後あきれたように言った。

「お前、まだベッド買ってないのか?どこに寝てるんだよ。」

「ここだよ。」

「ソファー?」

「ソファーじゃない、ソファーベッドだよ。」

 茂がクロゼットから毛布を見つけ出して持ってきた。山添は高原が寝巻に着替えるのを手伝う。

 ソファーに寝かせ、毛布をかけてやると、高原は目を閉じ、やがて寝息を立て始めた。

 二人は心配そうにその寝顔を見守る。

「まだ熱がありますね。」

「目を覚ましたら、なにか食べさせて、薬を飲ませましょう。」

「俺、なにか買ってきます。」

 茂が玄関へ向かおうとしたとき、玄関ドアが開く音がして、聞きなれた声がした。

「玄関の鍵、開けっ放しですよ。警護員さんたちにしては、不用心ですね。」

「げっ」

 靴を脱ぎ、入ってきたのは、黒髪の長身の美青年・・・・三村英一だった。私服姿で、左手に紙袋を持っている。

 茂はいつもの習慣で危うく「なんでお前がここにいるんだよ、三村。」と言いかけたが、辛うじて踏みとどまった。

「波多野さんに聞いたのか?」

「ああ。」

 英一は山添のほうを見て自己紹介した後、ソファーの長椅子に近づき、眠っている高原の顔を見下ろした。

「ボケの河合もバカだが、あなたも本当に・・・」

「なに?三村、なにか言ったか?」

「なんでもないよ。」

 英一は踵を返し、玄関のほうへ向かいながら、途中で茂に手元の紙袋を手渡した。

 紙袋には、簡単に食べられる、気の利いた食料品がいくつか入っていた。

「ど、どうもありがとう・・・・」

「今回はお前じゃなく、高原さんのためだからな、しかたない。」

「・・・三村、ごめん、俺せっかくお前からアドバイス・・・」

「お前が昨夜、高原さんを発見しなかったら、今朝、波多野さんが高原さんを死体で発見していただろうって、聞いた。」

「・・・・」

「ボケのお前でもたまには役に立ったということだな。」

「・・・もう!」


 英一がエレベーターを降りてマンションを後にした後、すれ違った人物に、英一は苦笑した。

 それは、その人物を英一が知っていたというだけではなく、通常であれば、知人とすれ違ってなにも言わないような人物ではないからだった。

 英一が帰って間もなく目を覚ました高原に、水を飲ませたり少し食べ物を食べさせたりした後、ようやく救急箱を見つけ出した山添が体温計を高原に渡す。

「熱さましももらってるけど、とりあえず熱を測れ。」

 高原はおとなしく体温計を口にくわえる。

 茂は、体を起こしやすいよう、高原の背中にクッションを入れた。

 そのとき、玄関のインターホンが鳴り、茂が玄関ドアまで行き覗き窓から訪問者を見て、慌てて扉を開けた。

 葛城が立っていた。なにも持たず、そしてここまで階段を上がってきたらしくかすかに息があがっている。

「か、葛城さん・・・。」

「晶生がこっちに戻っていると聞いたので。入っても、大丈夫ですか?」

「はい、もちろんです、こっちです。」

 リビングに入り、最初に目があった山添のほうを見て、葛城が言った。

「崇、まさか晶生が、俺に知らせるなと言ったんじゃないよね?」

「そ、それは絶対違う。単に俺が、お前に知らせるのを忘れただけだ。ごめん。」

「ならいいよ。」

 葛城は、ソファーの長椅子の上で体を起こして体温計をくわえている高原へと、歩み寄る。

「今朝事務所へ顔を出したら、波多野さんから、お前がゆうべ倒れたって聞いた。」

「そうか。」

 茂は、「ちょっと俺、また食料品買ってきます」と言って、部屋を出て行った。

 山添も、茂に続いた。

 リビングに残された葛城が、高原の顔を凝視するように見下ろす。

「で、具合はどうなんだ?」

「・・・ああ、前の警護で水に落ちた時ひいた風邪がずっとこじれてて、それに過労が加わっただけだって。休養すれば大丈夫だ。」

 正確には水に落ちたではなく、海に沈められた山添を助けるために海に飛び込んだ、である。

 黙って葛城は高原の顔を見ている。

 先に言葉を出したのは、高原だった。

「怜、そんな顔をしないでくれ。」

「・・・・」

「だから嫌なんだよ、俺は、お前に心配かけるのが。」

「・・・・」

「その顔を見ると、なんだか死にたくなる」

「は?」

「お前には、なるべく、笑っていてほしいんだよ。」

「・・・・無理だな、それは。」

「・・・・」

「そして晶生、勘違いをするなよ。」

「・・・・?」

「俺は、そんなに弱くない。お前は、そんなに強くない。」

 高原は体温計をくわえたまま、少し目を丸くして、しばらく葛城の顔を見上げていた。 

 やがて、目を伏せて、ちょっと笑い、再び葛城を見上げて高原が言った。

「うるさいよ、怜。」


 マンションの外をうろうろしながら、茂は山添にきいてみた。

「高原さんと葛城さん、仲直りできますかね。」

 山添が笑う。

「どうでしょうね。たぶん、なんにも解決はしないでしょう。」

「そうなんでしょうか。」

「はい。晶生は、怜が優しいことを知っているからこそ、心配かけたくない。怜は、晶生が自分に甘えてくれないことが不満。これは、たぶん永遠に、歩み寄れない暗くて深い河でしょうね。そしてこれからも、晶生はなんでもかんでも自分だけで抱え込んで、これからも無駄に苦しむんだと思います。」

「なんだか絶望的ですね・・。」

「でも、問題がどこにあるか、多少なりとも認識するだけでも、それはそれで進歩なんじゃないですかね。俺も、今回、色々学んだ気がします。」

「そうですか?」

「はい、そしてそれも、河合さんのおかげだと思ってますよ。」

「えっ」

 山添は、よく日焼けした、そして美少年という形容がふさわしいキレイな顔で、微笑んだ。

「俺も、本当は晶生に言ってやりたいです。晶生、お前はどれだけ自分に厳しく他人に甘いんだ?・・・って。俺のことは俺にしか分からないように、お前だって、俺には分からない色々な思いを抱えているはずだ。皆そうじゃないかって。俺とか怜とかのことを心配する前に、お前がもっと、楽になれよ。甘えろよ。・・・こう言ってやりたい。」

「・・・・」

「分かち合えない。だからこそ、分かち合うんだよって。」

「・・・・・」

「でも、それは、言っても無駄だし、同時に、言わなくてもいいことなんでしょう。」

 次第に日は高くなり、陽光が地面からも反射し、二人の顔を照らし始めていた。



 波多野部長の指示は結果的に完璧に守られ、高原は翌週きっちり一週間の休暇を取った。

 そして高原が復帰した翌々週の月曜日、茂は昼間の会社の終業ベルとともに大森パトロール社の事務所へ向かった。

 事務室へ入ると、もう応接室から波多野の大きな地声の話し声が漏れている。応接室では、高原が波多野と向き合って談笑している。

 それぞれ自席で作業していた山添と葛城は、茂が給湯室に入ると、茂を追いかけてやってきた。

 山添が小さな声で茂に言う。

「河合さん、さっき聞いたんですが、波多野さんから晶生に当面の、命令が出たみたいです。」

「命令・・・?」

「一件警護案件が終了したら、一日以上の有給休暇をとること。」

「おお!」

「まあ、守られてこその命令ではありますけどね。」

 葛城はあまり期待していないという表情で、補足した。

「おーい、怜!」

 応接室から波多野が葛城を呼ぶ声がして、葛城は応接室へ向かった。


 茂が事務室に戻ると、応接室から打ち合わせコーナーに移動していた高原が手招きする。

「おう、河合。今回色々すまなかったな。」

「いえ、高原さん、もうすっかり大丈夫なんですか?」

「ばっちりだよ。」

「ホントですか・・・?」

「波多野さんからも、業務復帰の許可が出た。お前は次回案件はまた怜とのペアだと思うけど、また機会があればどんどん俺のサポートにも入れてくれるよう、波多野さんにお願いしてあるよ。」

「ありがとうございます!」


 応接室で葛城に向き合った波多野は、目の前の敏腕警護員へ改めて敬意のこもった視線を向けた。

「怜、前回と今回のお前たちの警護案件は、今までのものと、ずいぶん違っていたと思う。」

「はい」

「それを、混乱しながらも、お前たちは仲間同士、必死で互いのことを考えて、乗り越えようとしている。部下として、そして同じ警護の仕事をする人間として、敬意を感じているよ。」

「・・・・・」

「うちの会社のポリシーは、単純だ。だが、だからこそ、忘れないでくれ。警護現場では、警護員は自分の命はいつでも捨てるが、それはいつも、最後の選択にしてほしい。」

「・・・・・」

「なにをいまさら急に、と思うか?」

「あ、いえ・・・」

「お前たちは、自分を捨て他人のために尽くすこと・・・・自分というものより他人を優先するということが、あまりにも行動習慣にあまりにも深く刻まれている。高原なんかが良い例だ。だからこそ、そのことを常に自覚していてほしい。」

「・・・・わかりました。」

「このことは、定期的に、お前たちに言うようにしようと思ってるよ。」

 葛城は少しだけ微笑み、そして黙って頷いた。


 打ち合わせコーナーで、山添が高原の前で茂に質問していた。

「あの、晶生のマンションに来た三村英一さん、時々晶生と応接室でしゃべっているところとか、前の警護のときは遠くから舞台でも、見たことはありましたが、近くで見るとさらに、すごい美青年でびっくりしました。しかもほんとに利発そうで、良い人じゃないですか。河合さんはどうしてあの人が苦手なんですか?」

「別に理由は・・・・・。それに、皆あいつを美青年と言いますが、葛城さんほどじゃないです。」

「確かに、怜の美貌は人類の常識を超えてますけど、三村さんは絶対、女性にもてそうですよね!いいなあ。」

「山添さんこそ、その顔にそのスポーツマンの爽やかさなんですから、さぞかし・・・・」

 高原がこらえきれないように笑った。

「崇は、この間、彼女にふられたばかりなんだ。」

「えっ」

「そのとおりです。」

「なんでだと思う?」

「・・・・・」

「ワタシと、トライアスロンの、どっちが大事なの?と聞かれて」

「・・・・そんなの比べられない・・・比べられないけど、あえて言うなら、どっちかというとトライアスロンだ、って、答えたんです。」

「はあ・・・・」

「バカだよなあ。そういうときは嘘でも、キミだよって言うもんだよな」

「お前に言われたくないよ、晶生。」

「確かに俺も女運は悪い。が、俺がふられた原因のうち、確実に二割以上は、怜だ。」

「あ、そうそう!俺も経験あるよ。あいつと一緒に歩いているだけで、誤解が誤解を生み、どうしようもないことになったのは、一度や二度じゃない。」

 茂は、自分は被害に遭わないよう、いかに工夫するか、考えていた。

 高原が声をひそめた。

「そうそう、恒例の、葛城怜不幸の話、今回の最新情報だが」

「はい」

「たまに彼女ができると、あいつもそれなりのサービスをする。」

「そうでしょうね」

「ある日、あいつが近所の店で、彼女へのプレゼントを一緒に選んだんだ。」

「はい」

「その後、あいつはその彼女に秒速でふられた」

「どうしてですか?」

「店から個人情報が洩れて、インターネットでその彼女に一日十万通のメッセージが届くようになった。全て、女性の同性愛者からのもので、全て怜の紹介を求めるものだった。」

 茂と山添は顔面蒼白になった。

「つまり葛城さんは、伊達メガネを忘れて・・・・」

「そして写真を撮られてネットに・・・・・」

「なんと恐ろしい・・・・・・」

 そして茂と山添は速やかにその場を後にしようとしたが、間に合わず、目の前の葛城の視線に捉えられた。

「そういう話は、共有しなくていいですよ、晶生、崇、そして茂さん。それから・・・・」

 葛城は、高原の首に、その美しい両手をかけた。

「・・・話に尾ひれをつけるなと言っている。晶生。」

 窓の外には、出始めの月が控えめな光を放っていた。

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