3 Ready Steady Gona
色仕掛け、という言葉がある。
辞書を引けば“ある目的の実現のために、色気を使って誘惑すること”とある。
それを聞く限りでは「女性に限らない」という話になるが、多くは女性が行うこと、と一般的に受け入れられているはず。
女が自らの体を使って、男をかどわかす。くノ一とかハニートラップとか女暗殺者など、策謀と血に濡れたイメージがある。
それなのに、現代、この日本ではそれが公認のものとしてある。
そう、アイドルだ。
彼女らは異性を誘惑し、公然とウソを吐き、あらんかぎりの色香を公共に流す。あれが色仕掛けでなくて何と言うのか。
でもそれが社会的にも、商業的にも効果的なのは否めない。
いつの世も男とは馬鹿なもので、権力と美女にはとことん弱いところがある。
まぁ、つまり何が言いたいかっていうと……。
「俺も男だったってことで」
呟きながら校舎の階段を上る。
時は11時5分。
俺はイベント開始時間を前に、牽制や徒党を組もうとやっきになっている連中をしり目に、一般科の校内をこっそりとうろついていた。その足取りは時に重く、時に軽い。
始業式の終わり、ユーコ先輩に言われた言葉だ。
『もしキミが優勝したら、ユーコのこと好きにしていいよ?』
だとよ! ですってよ!!
これが浮かれずにいられるか!?
女子に言われたい言葉、俺ランキング第2位『好きにしていいよ?』だぞ?
美人の彼女に5百万の賞金付き! こんなリアル充実計画提示された日にゃ、やる気だって出ますよ!
さらに俺の手には優勝に一番近いポイント3万点がある。
存在する腕章は5千個。総計得点は10万点。その約3分の1を所持しているのだ。
決勝リーグとやらに進めるのは5組だから、勝ち抜くためのボーダーは2万点以下。
つまり、この3万点を肌身離さず持っていれば、自動的に決勝リーグに進めるわけだ。仮に勝てなくとも、賞金は手に入る。
ここまで考えて、浮かれるのも無理ないはずだ。
だが、ここで問題が1つ。そう、今の俺は全校生徒のお尋ね者になっている。その状態で、腕章をバトル=ライブから守らなければならないのだ。
「……普通に考えたら勝てるわけないわな」
朝のキザ男たちが見せた闘芸法。あれは別格だとしても、闘芸法の基礎“歌力”のない俺ら一般科からすれば魔法も同然だ。戦いになったら勝負になるはずもない。
「まぁ、負ける勝負はしないのが俺の信条。今回もそれに則らせてもらうか」
行き止まりにぶつかった。いや、扉だ。目的地へ続く扉。
ノブに手を当て、ひねった。ガチャ。重い。でも開いた。気圧が変わり、風が全身にぶつかってくる。
屋上。
そう、わざわざ相手の土俵に立つことはない。
屋上に籠って時間切れ、賞金とEはゲットだぜ作戦! 平成の諸葛孔明ここにあり!
屋上へ一歩踏み出す。と、風にまぎれ音が聞こえてきた。
聞き覚えのある音、いや歌だ。
まさかと思い、視線を走らせるが果たして――姉川がいた。
手錠をされたまま、屋上を囲う手すりにもたれながら、あのどデカいヘッドフォンを耳にして、歌を口ずさんでいる。
『独りきりで、私は願う。明日もきっと、目覚められるように』
カズネの“明日への希望”だ。
小さく整った顔立ちに、シミやニキビとは無縁とも思える艶やかな肌、細く華奢に見える身体のライン。
やはりその姿は目を惹く。
『朝は私に、夢を、希望をくれる』
歌に心を奪われたのも一瞬。思考は現実に戻る。
幸い向こうもこちらに気づいていないらしい。狭くはない屋上だ。2人が離れて存在するだけのスペースはある。
正直、彼女と親しくなりたいという思いは無いでもなかったが、(悲しいことに)俺なんぞ眼中にないといった様子。勝てない勝負はしないことにしておこう。
だから俺はドアを閉めようと手を伸ばしたその時、突風が吹いた。サクラを運ぶ春一番だ。
それにより起こった現象は3つ。
1つが風を受けた俺が目をかばったこと。
2つがガシャンと大きな音を立ててドアが閉まったこと。
そして最後。風を受け、姉川の服が、スカートがたなびいたこと。露わになる男子禁制の領域。
ふむ、ここで一句。
『春風に、そよと舞うかな、スカートよ、スパッツだって、残念だ』
……うん、馬鹿だ、俺。でも仕方ないよね。事故だもん、事故。
「何ニヤニヤしてんだよ、気持ち悪ぃ」
姉川が振り返っていた。
見た目の可愛らしさを裏切る、意思の強さを表すキリリとした瞳。好意の欠片もない、敵意しかない拒絶の視線。
そして聴く者の思考を奪う、圧倒的で官能的な声。
まだ手錠をつけたままだが、誰もがうらやむだろう美貌。
ただそれだけで、俺は蛇に睨まれたカエルのように全身がすくむ。
「おいお前、今の聞いたな」
「え……何が?」
「聞いただろ!」
主語がないためまったく話が見えてこない。
それでも詰め寄ってくる姉川には有無を言わせぬ凄みがある。
「……あ、あぁ」
迫力に押され、思わずそう答えたのが運のつきだった。
「やっぱりそうか」
ようやく得心がいったといわんばかりに、うんうんと何度か頷く姉川。
喋らなければ可愛いんだよなぁ――と思った途端。
「ぐほぁ!?」
殴られた。手錠で繋がれた両こぶしで。
無防備なみぞおち近辺に的確なボディブロー。痛みと苦しみで、何が何だか分からないまま膝をついた。
「このこと誰かに言ったら。生きていることを後悔するくらい殴る」
いや、今後悔してる。
何ですぐに屋上から立ち去らなかったのかと。
「こ……な……だよ」
「は? 男ならはっきり喋れ」
腕を下に、俺の前で仁王立ちする姉川。
無茶言うな。誰のせいでこうなってると思ってるんだ。
「ふぅ……あのな! 初対面の相手にボディブローかましちゃいけないの! 俺はともかく、冗談で済まない相手だったらどうするつもりなんだよ! 分かる?」
まるで聞き分けのない子供に諭しているようになってしまった。高くもない俺の身長と同じくらいか。
外見も手伝って、パッと見、同年齢とは思えない。
だが、見た目に反して性格は凶暴にして粗暴。
「んなもん、うちでは挨拶代わりだ」
それは一度、お前の家に行ってみたいよ……。いや変な意味じゃなく。
「ふん、こんなくそったれの手錠さえなけりゃ、手加減なしにぶん殴ってやれるのに」
今ので手加減かよ……てか、なぜそこまでされなきゃいかん。
「とにかく、今聞いたことは忘れろ」
「その聞いたことって何をだ? 誰かに吹聴する趣味はないけど、何も分からず痛い目遭されちゃキツイぞ」
「な、何かって……そりゃお前。あれだ」
急に歯切れが悪くなった。
視線を逸らしもじもじ。見た目と見合ったその行為に、少し心を動かされるが、さんざん殴られたり蹴られたりしたお返しに(さらに芸能科だ)少し意地悪したくなった。
「何だよ。男らしくはっきり言えって言ったのはそっちだろ?」
「ケンカ売ってんのか、あたしは女だ。てめぇ……いや、そうじゃなくてだな。だから、その……あの」
ヤバい。この戸惑い方、めっちゃ可愛いぞ、こいつ。
自分の中の別の部分が目覚めそうだ。
「オレが、さっきだな……」
最後の部分は、今までからは考えられないほど消え入りそうな声で、「オレが歌ってたこと」と姉川は言った。
その言葉を聞いて、あぁなんだ、と納得した。
「あー、はいはい。良い感じに歌ってるとこ見られたんだもんな。そりゃ恥ずかしいわ……ってぅおい!」
姉川の右ハイキックが飛んできたが、咄嗟に上体を反らしたおかげで、間一髪、鼻先を掠めただけに終わった。
「笑うな!」
「笑ってない、笑ってない! ただ可愛らしいとこもあるんだな、って」
俺の言葉を聞いた姉川は、顔を真っ赤にした。
と思ったら――
「ぶっ殺す!!!」
両手を合わせて殴りかかってくる。距離が足らない。当たらない。返す右。
通信空手の俺でも避けられる単調な攻撃。だが次第に姉川の目が必死になっていく。徐々にキレも戻っている。
「待て、落ち着け。なっ? 俺が悪かったから!」
「うるさい! オレを笑うやつは……太陽までぶっ飛ばす!」
んな物騒な。
くそ、俺としたことが勝てない勝負に出てしまった。まさかこんな必死になるとは。
と、手錠で繋がれながらも、両手と一緒にポニーテールを振り回す姉川を見て、ふと思う。
何でこんなに必死なんだろうか?
確かに他人に笑われるなんて、人からすれば相当恥ずかしい部類に入るだろう。
でも違うんだ。
俺はうろたえる姉川が素直に可愛いと思ったし、何より歌をあんなに楽しそうに、真剣に心を籠めて歌を歌う姉川がいいなって思った。それなのに、歌を聞かれることを恥ずかしいと思うという、その矛盾がおかしいと思ったわけで。
――あれ?
何で俺、ここまでべた褒めしてるんだ?
アイドル馬鹿な親のせいで生涯最大の汚名を負わされて以来、アンチアイドルな人間として通してきた。
ここに来たのだって、就職に有利だって打算的な目的のはず。
それでも入学式のこの日、姉川に出遭って、姉川の歌を聞いて……。
「俺は本当は――」
ドンっ
背中に衝撃。行き止まり。入り口のドアだ。
目の前、燃えるような姉川の瞳が迫る。
打ち下ろし気味の蹴りが来た。脇。ガードした。
両手でガードしたにも関わらず、両手はしびれ、だらりと下がる。
逃げ場も防御方法も失った俺に、返す両手のパンチが左ボディに突き刺さった。
強烈な一撃。痛い、苦しい。俺の意識が持ってかれる。
「俺は――姉川の――が―――」
その時、俺は何を言ったんだろう。後から思い出そうとしても分からない。
だが、それでとどめの蹴りを放とうとした姉川の動きが止まった。
「え……」
涙で霞む視界に映る、小さな体。
両手を大きく振りかぶった状態で、目を見開いてぽかんとする姉川の顔。
惜しいことをした。
何を言ったのか思い出せれば、何度でも言ってやるのに。そうすればこんな間の抜けた彼女の顔を何度も見れるのに。そう思った。
「ちょ、ちょっと! 今何て言った!? おい、落ちんな! もう一度言え! 言えよ!」
だからそれを思い出せりゃ世話ないっつーの。
体の支えが効かなくなる。あぁ、なんだかもう眠い。昼寝だ、昼寝。
「ちょ、寝るな! 起き――わきゃ! さ、触んな!」
何か柔らかいものが触れた。小さく、暖かい、それでいてしっかりとそこにある弾力あるもの。
頬をなでる感覚もなくなり、そして――