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10 Baby Don’t Cry?

ある場所に、1組の夫婦がいました。

共通の趣味から知り合い、結婚した、どこにでもいる平凡な夫婦。

やがて念願の子供を授かると、彼らは歓喜しました。

なぜなら、彼らには夢があったからです。

いつか、子供ができたとき、自分たちの憧れだった立派なアイドルになるよう育てようと、結婚のときから約束していました。

だから子供が――しかも男女揃って生まれたときは、兄妹でデュエットを組むんだ、と喜んだものです。

生まれた子供にはさまざまな音楽を聞かせ、ピアノ、歌、ダンスといった、考えられる限りの英才教育を施しながらも、自由に育てました。しかし、オーディションやコンクールで良い結果はでません。

そんな折、第3子である次男が出産しました。

この子供には、長男たちとは違った育て方をしようと夫婦は考え、自分たちの考えを徹底的に次男に教え込み、厳しく育てました。

やがて長男と長女は成長し、宝名高等学校の芸能科に願書を提出しました。

ですが結果は散々なもの。自分の才能、世界の壁を感じ取った長男長女は非行に走り、高校卒業を待たずに家を出て行ってしまいました。

しかし夫婦はそのことにあまり落胆を感じませんでした。なぜなら二人には優秀な次男が、真面目で親の言うことを忠実に守り、音楽的才能を刷り込まされた、夫婦渾身の“作品”が残っていたからです。

次男はやがて、いくつかのコンクールでも優秀な成績を収め、ついには超有名オーディションの最終選考にも駒を進めます。

ここで次男が選ばれれば彼らの夢が叶う。だが、失敗すれば金輪際チャンスは失われてしまう。千載一遇のチャンスを目前にした夫婦は、やってはいけないことに手を染めてしまいます。

審査員の買収。そして発覚。

結果、夫婦は追及を受け、家庭は崩壊します。

なにより不運だったのは、次男です。

彼は何もしていないのに。彼は何も悪くないのに。彼は何も知らなかったのに。ただただ夢を追っていただけなのに、親の罪を一身に受け、芸能界から追放されてしまいました。

幼年期のこともあり、忘れられるまでの時間もそう長くはなかった事件。しかしそれは当事者の、次男の心に確かな傷をつけ、そして芸能界という世界を憎むようになったのは、間違いのないことなのです。



昔の話だ。

今やセピア色に褪せ、箪笥の奥、時空のはざまに吹き飛ばされた、黒歴史ともいうべき誰かの過去。

今思い出しただけでも寒気のする、恥ずべき逃走の記録。

……いや、今はもう考えずにおこう。

過去のどっかの誰かよりも、現在の姉川だ。

ユーコ先輩の電話が切れてから俺は、一般エリアへ急いだ。


『姉川舞音は一般エリアへ走り去ったのが目撃証言アリアリ。決勝リーグの席はとっとくから、連れてくなら連れてきんしゃい。それとさっきの件。白塗りのセダンに薔薇の花束で迎えに来てくれるなら、お姉さん待ってます。 ハート』


ユーコ先輩からのメールにはこう書かれていた。あの人は千里眼か。

しかし、白塗りのセダンに薔薇って……ユーコ先輩、意外に乙女なんだな。

社交辞令を真に受けやがって。あのEめ。

姉川舞音が一般エリアにいるというのは予想外だった。1人で決勝リーグに乗り込むと思ってたからだ。もしかしたら手遅れなのかもしれない。色々な意味で。


時間帯は、もう夕焼けが校舎を照らす頃。

一般エリアにあまり人はいない。だが帰宅したというわけではない。

今日はお祭りの日なのだ。

ある種の確信をもって俺はあの場所へと向かう。

同じ場所、同じ展開。少しは考えろ、姉川舞音。

案の定というか、いるべき位置に収まっているというか、第3一般校舎、その屋上に姉川舞音がいた。

例のごとく、柵にもたれるようにしてただ沈みゆく夕陽を眺めている。

俺に気づいた様子はない。

夕陽に照らされ、赤みがかった髪と同じく全身を朱に染めた姉川は、どこか太陽の化身とでも思えるような、そんな近寄りがたい神々しさを放っている。

偶像の次は化身か。

馬鹿らしいという思いと同時、自分の語彙力のなさを痛感する。

まぁ別に作家先生になるわけでもなし、作曲するわけでもなし、別に構わないだろう。

本音は、飾らなくてもいいのだ。


少し乱暴に扉を閉じた。

重たい金属扉は、派手な音を出して閉まる。ほんの数メートルの距離だ。

彼女愛用のヘッドフォンで最大ボリュームを流していても気づくはずの音。

それでも彼女は動かない。いや、最初から気づいていたんじゃないか。

苦手だな、こういう展開。逃げたい。いや、駄目だ。そんなことをしたらあのキザ男が『キミは男と男の約束すら守れない、女の子だったのかい?』なんて言うに決まっている。

……くそ。


「よう」


俺から声をかけた。

分からないなら聞けばいい。伝えたいなら話せばいい。神様は本当、素敵なツールを作ってくれたもんだ。

少し近寄ってからもう一度声をかけた。それでも反応なし。自然俺だけが喋る形に。


「旧約聖書ってあるだろ? キリスト教の。あれでさ。世界が作られた時の話、知ってるか?」

「…………」

「あれ、神様が何もない空間に、いきなり出てきて“光あれ”とか言って世界作っちゃうんだけどさ。何もない空間ってなんだよ、とか神様どこから来たとか、頭がこんがらがるような感じがするけど、ま、そこらは置いておいて」

「…………」

「でもあれって変だよな。神様が一番最初に作ったのは光ってことになるけど、そんなわけがないだ。一番最初、光より前に作られなきゃいけないものがあるんだ。それなのに聖書はそれを書いてない。神様が最初に作ったもの。それは言葉だ。言葉がなければ、光は作れない。何も生まれなかったんだ。言葉が最初。その言葉を操って進化発達したのが人間。すごいよな、それは」

「…………」

「もちろん、他の動物も言葉は話す。猿語だったり、イルカ語だったりするけど、ここまで高度に発達した言葉を使うのは人間だけだ。そこに愛だ恋だ、色々な価値をつけて歌っていうのを発明したのも」

「…………」


姉川は答えない。

俺自身も何を言いたかったのか分からない。

何を話したらいいか分からなかったから、とりあえず適当に話をしてみただけだ。

だから俺が黙り込むと、自然静寂が辺りを包む。数十秒、いや、数分。姉川と一緒に、眼下に広がる緑豊かな敷地と、地平線に沈む夕陽を眺めた。


「人間だけじゃない」


突如、聞こえてきた言葉。

あまりに急で、脈絡がなさ過ぎて、それが姉川の物だと気づくのに数秒かかった。


「え?」

「歌は別に人間だけじゃない。鳥とか、クジラとか歌を歌う動物はいる」

「あ、そっか」

「…………………ほんと馬鹿だよな、お前」


お互い顔を動かさなかったから分からないが、姉川は笑ったような気がした。

いつも通りの気丈な、だがどこか寂しさを残した声。

再び静寂が訪れる。なんか話題がないか。共通の話題……。


「昔、俺もアイドルってものを目指してたんだ」


……何を俺は。いくら共通の話題だからって、そんなことを話してどうする。

だが言葉は止まらない。思いつくままに語っていた。

親のこと、兄姉のこと、宝名のこと、失踪した二人、残された自分、運命のコンクール、そしてその結果。

あますことなく、姉川に語っていた。

自分の過去を。葬り去りたい記憶を。


「何言ってるんだろうな、俺。こんなこと喋っても、ただの不幸自慢だって」


独白が終わり、思わず自嘲する。

こんな話を聞かされ、姉川は迷惑だろうと思った。

だが姉川の反応は、俺の予想したものとは違っていた。


「似てるな、お前は」


誰に、とは聞けなかった。聞いてはいけないような気がして。

しばらくの沈黙。破ったのは姉川の方だ。


「屋上ってさ、好きなんだ。いつも代わり映えのしない学校生活。それが視点を変えるだけで、ガラッと変わっちまうんだ。中学のころはよく授業ふけて屋上に来てたよ」

「そうなのか……」


なんとかと煙は高いところが好きだなんて、言うと絶対殴られると思った俺は、適当に相槌を打った。


「昼間、ここに来て、あのときお前言ったよな。その……なんだ。オレから言うのもなんだけど……」

「? なんだよ」

「その……オレの歌が、ただ純粋に勿体ない――す、素敵な歌だって」

「………………………………え」


何!? 昼の俺、そんな恥ずかしいこと言ってたの!?

あ、ユーコ先輩の恥ずかしいって……これか! ちょっと待ってくれ。おい、誰かタイムマシンを! 昼の俺を一発ぶん殴らなきゃ気が済まない。


「実を言うとな、あんな風に言われたの、初めてだった」

「は?」


そんな馬鹿な。この声はどう聴いても評価に値するものだ。

俺ですら本物かそうでないかの違いくらいは分かる。


「オレの歌を、そういう風に言ってくれる人がいるなんて……そう思ったら、なんかお前に協力したくなった」

「それは……」


嬉しい気持ちと同時、どこかむずかゆい。


「昔のオレに、そう言ってくれる人が1人でもいれば……救われたんだろうな」


悔しそうに呟く姉川は遠い目をしている。

今度は俺が何も言えくなった。

だから自然姉川の言葉を待つ形になる。


「でも、いなくてよかった」

「え?」

「いれば、そこに甘えて……俺はきっとここにはいなかった。夢というものを見失っていたと思う」


甘えてもいいんじゃないか、と言えればどれだけ楽だったか。


「おっさんとのバトル=ライブ、あの時オレをかばったよな」


そう真っ向切って言われると、なんだかもどかしい気分になった。

そして同時に不安も。

俺の中には先ほどの口論がまだ根付いている。


「あの時確かにお前は助けてくれたよ。だけど……あの一撃をくらって、ぐしゃぐしゃになって叩きつけられたお前を見たら……なんだろうな。失うものの怖さ、っていうのか……うん、そうだな。オレを褒めてくれた、たった一人の理解者を……失うのが怖かったのかもしれない。だからあんなこと言って……その…………ごめんなさい」


素直に謝られた。

小さく頭を下げ。こちらは見ないにしても。

そのことで安堵した自分がいることに気づく。

正直嫌われたと思っていた。けれどそうじゃなかった。それだけで、俺は救われた気持ちになった。


ドーン


遠く、大砲の音が聞こえた。いや、花火だ。俺らが向いている方向。連続して花火が、夕陽の沈むのを迎えるようにはじけ飛ぶ。

俺は話の逸らしどころが見つかったとホッとした。

こういう時は勝てない勝負はしないに限る。


「綺麗だな。なんかやってるのかな?」

「第3野外講堂の方、決勝リーグが始まるんだよ」

「そっか……」

「お前悔しくないのか? オレがあのおっさんと戦わなければ、今頃あそこにいたはずだ」

「いいさ、くだらないライブ見てるより、ここでこうしてる方が好きだ」

「…………変なやつ」

「知らなかったか? 俺はアイドル嫌いなんだぜ?」


俺の言葉に姉川は鼻を鳴らすだけにとどめた。

その横顔。俺は一瞬迷い、そして言った。


「姉川。お前は、悔しくないのか?」


それはある意味、今までで一番、俺が姉川に踏み込んだ質問だった。

姉川は、初めて全体をこちらを向けて、まっすぐ俺を見てくる。

その青みがかった瞳で。真摯な瞳が、不意に崩れる。


「悔しいとかそういうのはねぇよ。ただケリはつけたかった。勝手に止めて、勝手に傷つきやがって……」


ちょっと拗ねたような言い方をする。

本当は怒って殴ってくるかと思ったけど、意外な反応だった。


「ま、今になって考えりゃ、あんな化け物相手に五体無事でいられたことに感謝だな。オレもお前も五体満足。だから誰も恨んだりはしねぇよ」


ひどくさっぱりとした言い方の姉川に、少しの違和感を感じたのはその時だ。


「とにかくどれもこれも終わった話だ。勝ち負けなんてオレには関係な――」


そう言った姉川の瞳から煌めき輝く何かこぼれた。


「え」


姉川が戸惑った様子で、手の甲で涙をすくう。


「なんだ、これ。なんだよ。こんなこと……」


何度も涙を拭うも、その勢いは止まらない。

思わず俺は回れ右して、姉川を視界から外した。

姉川舞音の涙。それは俺が一番見たくなかったものなのかもしれない。

男に負けない力と、絶対的な歌力。

その反体制的な、雄雄しき存在に一番遠いのが涙だ。

なのに、姉川は泣いた。しかも俺の前で。

喜怒楽以外ないと思っていた。強いと思っていた姉川が見せた弱み。


だがそれも当然だ。アイドルである以前に、まだ16かそこらの少女なのだ。

夢を追いかける、少女なのだ。これまでよく感情を制御していた。

それを俺は、どれだけ自分勝手に解釈してんだ。

夢も希望もなく、女心一つ理解できない俺がかけられる言葉は何もない。

だからせめて、彼女の涙が止まるのを待とうと思って向けた背中に、軽い衝撃が来た。

痛いものではない。

制服越しに伝わる、暖かい、柔らかな感触。

鉤爪のような指が俺の背中に食い込む。

俺の背筋の辺りに温い吐息がかかった。それは音を持っていて、


「…………ごめん。やっぱ負けたくなかった。勝ちたかった。勝たないと、捨てられるんじゃなかったかって、不安だった。1日に2度も負けた奴なんて、誰も見向きもしないって」


少し間が空いた。


「いや、何よりお前に捨てられるのが嫌だったのかも。初めて、褒めてくれた……お前に……」


あぁ、そうか。そこなのか。

彼女があそこまで頑なだった理由は。


同じ相手に2度負ける、連敗する格闘家は商業的な利用価値を失う、と聞いたことがある。

そしてそれは、闘う職業となったアイドルもまた同様だ。

闘芸法の始祖でもある人物を母に抱いている彼女ならば、そのことは徹底されていたのだろう。

勝てる勝算はあるかないか、そこが問題ではない。負けるということ自体が、心を縛り付ける鎖だったんだ。

なら俺がすべきことは簡単だ。


「馬鹿だな。そんな下らないことで、誰が見捨てるか。少なくとも俺はお前を見捨てない」


恥ずかしさを押し殺し、安心させるようにしてそう言うと、ギュッと上着を握る手に力が入った。

背中にかかる吐息が「バカ」と言った気がした。そして、


「なぁ、少しだけ……悔しい。だから少しだけ、泣いてもいいか?」


それは精一杯の彼女の甘えだったのだろう。

今まで、負けることに怯え、偉大な母の名を傷つけることを恐れた彼女の。

だから俺が「あぁ」と答える前に反応が来た。


「う、ああぁぁぁぁぁ―――――――――――――――――――――」


叫音が、音の衝撃となり、俺の背中を通して首に腰に腕に腿に脳幹に、脳に響く。

姉川の想い。苦悩。不安。

錯覚かもしれない、幻想かもしれない、人を分かった気になってるだけかもしれない。

だがそれでもいい。

どうせ分からないんだ。伝わらないんだ。

だったら分かった気にくらい、なってもいいだろう。


背中を通じて身体をめぐる、姉川舞音という少女の存在。

そうだ。

声は、歌は、そういうものなんだ。

人に自分の想いを伝える。人に自分の苦悩を伝える。人に自分の喜びを伝える。

それすなわち、その人そのもの。本音というもの。

愛だ恋だ、言葉に出さなくていい。

ありのままの声だけで、人は通じ合える。本当の、純真な、まっさらな言葉。そこに嘘や虚言はないのだから。


歌じゃ世界は救えない。

けれど、歌による本音で、少なくとも1人の少女という世界は救えるんだ。

だからその歌が1人でも自分の隣人を救うなら、それが何百、何千――何十億と繋がれば……最終的には世界は救えるのかもしれないか。

絵空事だけど、そういうことにしておこう。決めかねていた、迷いのある俺の背中が押される感じ。

この気持ちに応えるために、いつか諦めた夢を、俺の家族をぶち壊した連中の真似事を、もう一度だけやってみよう。

不覚にもそう思った。


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