帰らない
僕は、迷った。
新しい環境で楽しくやっていくなら、もうこのままの方がいいだろう。
次の言葉を迷いながら「田舎、帰らないの?」と言葉をつないだ。
「はい、帰りません。」と、きっぱりと、こんどは笑顔で彼女は答えた。
そうなんだ...と、僕は次の言葉を言うべきか、迷っていると
「それじゃ、お元気で頑張って下さい。」と
大きくお辞儀をして、そのまま俯いて出口のドアを開けて
すりガラスの向こうのエレベータ・ホールに彼女は出て行った。
階段で、6Fに降りるか細い靴音がStairway to Heavenのギターのように響いた。
バッド・タイミング。
そんなものかもしれない。
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それから、かなりの時間が経った。
彼女は、新しい環境で頑張っている事だろうと思う。
僕も、相変わらずの毎日で
愚かに生きている。
時々、悩んだり、喜んだり。
いろいろな事を感じながら。
心は、ワイン・グラスのアイス・キューブのようなものだ、と思う。
暖めてしまえば、いつか、鋭く尖ったキューブのひとつ、ひとつは
溶けて無くなってしまうだろう。
でも、凍えたままなら.....。
いつまでもキューブのエッヂは鋭いままだ。
何かの拍子に、薄いワイン・グラスは割れてしまうかもしれないから
暖めておきたい、と思う。
それは、別に彼女でなくてはならない、と言う事はない。
でも.....。誰でもいい、と云う訳でもない。
そうそう、マアちゃんが、崇くんを通じて
僕にお友達になってほしい、と言ってきたが....。
やっぱり、そんな気持ちにはなれない。
だから、彼女に対して慈しみの感情だけだった事ではない事が
今の僕には良く解る。
だけど、もう済んだ事だから。
そういう気持ちで、これを書き始めたけれど
もう、必要が無いような、そんな気もしている。
The day after
3月1日。
仕事は休みなので、今日はごく普通の土曜日。
いつものように、母の買い物のために車を走らせて。
食料品店へと。
僕は、車を降りずにカー・ラジオを聞いていた。
山下達郎さんの曲が掛かっていた。
彼が、ラブ・ソングを歌っている。
...あなたと 生きたい。それだけでいい。
他には、何も要らない....。
切なげなヴォーカルに、ちょっと涙。
そんな風に言えたらいいよね。
そう言える環境は、幸運だと思った。
現実には、そう思っていても
言い出せない、そんなことも多いのだろうと思った。




