のんびりお家
彼女は、まだ、僕の方を見上げたまま
「いいえ、予定は.....
と言うので、僕は
....あ、そっか、お家でのんびりするのもいいね。僕も好きだよ、そういうの。
なんて言ったりした。
今思うと,本当にバカだったと思う。巻き戻してやり直したい。
なんとなく不自由だな、と思う。
この頃は、そんなことはまったく気にしていなかったのだから
そう思う筈も無いのだ、が。
中学生なんかの時、恋した時、そう思っていた。
想った事が言葉にできない、形に表せない。
今、考えると当然なような気もするのだ(笑)
科学的に次元、で整理してみよう。
自分のイメージ:時間・空間の概念が自由(縦・横・高さ・時間が自由)=4次元。
自分の感覚:座標の概念も無い(感覚が直接得られるだけ)=0次元。
現実の事象:時間・空間の概念が定値(縦・横・高さ・時間が固定)=3次元
次元が異なるのだから、現実が不自由に感じるのは当然である。
心の中では時間も空間も無く、自由にイメージと飛翔できる。
それと遊んでいる感覚は0次元、つまり、恋している、と言う感覚ならば
感じている間の自分の前にあるのは無限大の時空である。
0のポイント、無限の時空である。
それと比べれば,現実の、たとえば恋しい女の子が居る空間は3次元、
窮屈に違いない。
しかし、もし、その子も自分を想ってくれるなら。
その感覚は心の中、言葉にできない感覚であろう。即ち(点)、0次元である。
自分の心の中の感覚も点、0次元である。
二つの点を結ぶ線は、1次元。距離だけがある。
そして、互いの距離が縮んで行けば、ゼロになる。点。0次元だ。
その時、0次元の前に広がる空間が無限大....理論的にはこれが愛、と云うものの
感覚的表現であろう。
しかし、これを言葉で表現しようとすれば途端に3次元に堕ちてしまうし
イメージを共有できても4次元に過ぎない。
まして、勝負、などと言い出せば途端に1次元だし
方向性が互いにずれる、などとならばその瞬間に2次元に陥ってしまう。
0の点無限の空間....至上の愛とはかくも自由なものであろう。科学的には。
さて、私達はそこに到達できるのであろうか。いつの日か。
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