甲子園へ
7月30日午前7時半、東京駅。新幹線中央乗換口は、日曜日ということで家族連れの姿が目立っていた。修平は丸く大きな柱に寄り掛かって、行き交う人々を眺めていた。待ち合わせの時間までは、まだ30分ある。日ごろ、友人との待ち合わせの時には相手が先に来ていることの方が多かった。相手を待たせることよりも自分が待たされてしまうことを考えてしまい、ついつい待ち合わせぎりぎりの時間になったり、時にはその時間を過ぎてしまうのだ。それが今日は30分以上も前に着いている。ただ、この待っている時間は悪いものではなかった。
隣の柱に立っていた修平と同年代の男性の元に、一人の女性が駆け寄る。顔の前で手を合わせる彼女の頭を彼は軽く叩いて、二人で改札口の方に向かって行った。二人の一連の動作にちょっと憧れのような感情を抱いてから、また正面を見ると、視線の先にこちらに向かって歩いてくる優香の姿があった。修平は柱から背中を離し、右肩のバッグを左手でしっかりと掛け直した。
「おはよう」
修平が声を掛けると優香は、
「おはようございます。すみません。待ちました?」
「いや、今来たとこ。ていうかまだ8時まで30分近くあるし」
8時に待ち合わせたにも関わらず、7時半すぎに既に出会ってしまった。
「じゃあもう中、入っちゃおうっか」
「ああ、そうですね」
改札口に向かって歩きながら、修平はさっきのカップルを思い出していた。もし優香が遅れてきたとして、まだ頭を小突いたりなんかできないな、と。
乗る列車は8時13分発の「のぞみ11号」だった。ホームにはまだ入ってきていない。
「何か食べるの、買っとく?」
「うん、ちょっと買っとこうかな。高木さんは朝ごはん食べてきたんですか?」
「いや、何も食べてないけど。ていうかいつも朝、食べないし」
「へえー。駄目ですよ。朝食はちゃんと取らないと」
「じゃあ、今日は食べようっかな」
ホームにある売店でサンドイッチとペットボトルを買って、二人が乗る6号車の停車位置まで来てもまだ時間があった。空は雨こそ降っていないものの、太陽はなかなか顔を出せないでいた。
「甲子園、晴れてるかな?」
雲の切れ間からこぼれるかすかな光を見上げながら、優香が呟く。
「うん、晴れの予報になってたけど。34度だってさ」
「暑くなるんだね。あの日と同じだ」
今日初めて優香が切なそうな表情を見せた。その横顔にどう応えるのがいいのだろうか、考えていると「のぞみ11号」の入線のアナウンスが流れた。
「あっ、来るんだ」
優香の横顔は、修平が何か言う前に元の笑顔に戻っていた。
二人は6号車7番D、E席に並んで座った。次々に乗客が乗り込んできて、切符を見ては指定された座席に座っていく。
―今日も新幹線をご利用くださいましてありがとうございます。この電車は「のぞみ11号」博多行です。…
8時13分、東京駅から西へと動き出したのぞみ11号の車内にはアナウンスの声が響いていた。修平はリクライニングを倒しながら、窓の外を眺めている優香の視線の向こうを探していた。
*
「ねえ、富士山。今日はきれいに見えますね」
「あっ、本当だ。なんか新幹線乗ると、いつも天気悪くてきれいに見えないんだけど」
「そうなの? 今日野球、中止になんないかなあ?」
「今日は大丈夫だよ」
顔を見合わせて笑ってから、窓の向こうの富士山をしばらく見詰めていた。
富士山から視線を外さずに、優香が話を切り出した。
「事故のね」
「うん」
「事故の後、家にマスコミの人、いっぱい来たんですよ。あっ、うちの社の記者も当然来てたんだろうけど。父を亡くして、で、5歳の私は奇跡的に助かって。そういうのってやっぱり記事にしたいんですよね。新聞とか雑誌は。母はそうやって押し掛けてくる人たちに丁寧に対応してて、答え得る限りのことは話してたと思います。親戚の人の中には怒って追い返しちゃう人とかもいたんですけどね。私も子供ながらに、来る人たちに良い印象は持ってなかったんですよ」
「それはそうだよね。やっぱりそういう時、辛い時に来られると、怒りたくもなると思うよ」
「でもね、一人優しいお姉さんがいたんですよ。私のことを本当に気に掛けてくれてるっていうか、取材対象の一人に過ぎない私のことを親身に考えてくれてる…。少なくとも私はそう感じたんです。それで、その人が書いた記事を持ってきてくれたんだけどね…」
そう言うと、優香はバッグの中から小さな新聞記事のコピーを取り出して、修平に手渡した。
「この記事、その人が書いたんだって」
それは、1988年の甲子園決勝、そして列車事故があった日から数日後の記事だった。甲子園で優勝し、時の人となっていた広瀬選手についての記事。その中で広瀬のコメントもいくつか紹介されていた。
「優勝を決めた日の列車事故で、亡くなった方の中には甲子園からの帰りだった方も多く含まれていたと聞きました。その家族の方が、甲子園を、野球を見るたびに、事故のことを思い出してしまうのではないかと。でも、できれば…野球を嫌いになってほしくないです。だからっていうわけじゃないですけど、僕はプロに行って野球をもっともっと一生懸命やりたいと思っています」
修平が記事を読む間、優香は富士山を過ぎてしまった窓の外を見ていた。修平は「そうなんだ」とだけ言って、コピーを優香に返した。
「この人、まだ新聞記者をしてるのかなあ。いつか、会ってお礼を言いたい」
「このことがあったから江添さんは記者を目指したんだ?」
「うん、新聞記者になりたいって強く思ったの。でも、この事故がなくてもなりたかったかもしれないですけどね。子供の頃から文章を書くの好きだったから」
そう言って微笑む優香に修平は言った。
「今日、しっかりと見届けなきゃね」
甲子園までの距離は急速に縮まっていった。




