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約束

 朝刊のスポーツ面の「高校野球地方大会」の記事の面積は、日に日に大きくなり、1面のうち下半分を占めるまでになっていた。修平の地元でも開幕していたが、母校の名前は残念ながら数字の下にあった。県大会の開幕試合でコールド負けし、短い夏を終えていたのだ。野球部に所属していたわけではなく、また甲子園に出場するような強豪高というわけでもなかったので、特にがっかりもせずにいつものように家を出た。


 その日、キオスクの前を通り過ぎようとした時、修平は高く積み上げられたスポーツ新聞の見出しに目を奪われた。その瞬間、小銭入れから100円玉1枚に10円玉2枚、5円玉2枚を取り出して、その高く積みあがった新聞の“塔”から1部を取って店員の中年女性の前に差し出し、130円を渡した。

 急いでホームに向かいながら、一面の記事を読み進める。途中、左から歩いてきたサラリーマンの進路をふさぐ形になり、舌打ちされたが、全く気付かなかった。

『ジャイアンツ・広瀬引退か?』

 それがこのスポーツ新聞の一面の見出しだった。修平がキオスクで見た時には「広瀬引退」の4文字が大きく、「か?」は小さな文字で、しかも折り曲げられた内側で見えなかった。常とう手段と分かっていたが、広瀬のこととなるとまんまと引っ掛かってしまった。

 記事の内容はこうだ。

「広瀬の今季の成績はここまで1勝4敗。現在は二軍で調整しているが、7月30日の甲子園でのタイガース戦での先発登板が予定されている。関係者の話として、広瀬はこの試合に選手生命を懸ける、つまり結果を出すことができなければ引退を決意する」

 7月30日午後2時プレイボールのタイガース対ジャイアンツ14回戦は、全国高校野球選手権大会前に行われる、最後の甲子園球場でのプロ野球だった。この試合の後、タイガースはいわゆる“死のロード”に突入する。

 甲子園のスターだった広瀬はあえてこの試合を選んだのか。それとも監督の意向なのか。夏の甲子園に広瀬が帰ってくる。それは広瀬にとって最後の夏の甲子園になるかもしれなかった。

 修平は、その日甲子園に行くことを決めた。


          *


 夜の9時半。30分ほど前まで殺到していた原稿もぴたりとやみ、社会部は静けさを取り戻していた。修平はというと、残り30分となった勤務時間を持て余していた。腹減ったな。頭の中は今日の夕食は何にしようか、そんなことだった。その選択肢も、駅からアパートまでの間にあるコンビニ3店舗のうちどこに寄ろうか、そして何弁当にしようかといった寂しいものだった。あくびをしながら両腕を真上に伸ばし、内側にひねって腕時計に目を向けると、9時50分になっていた。

 目の前のスポーツ新聞を手に取り、今日何度も見ている「広瀬引退」の文字をもう一度見てから鞄の中に入れ、トイレに向かった。

 トイレから戻り、「じゃあ、帰るね」と遅番のアルバイトに言った時、エレベーターホールから優香が向かってくるのが見えた。偶然なのか、目が合ったので会釈をすると、優香も笑みと共に会釈をしながら歩いてくる。

「お疲れ様です。部長は?」

「今日はもう帰ったよ」

「ああ、そうなんですか。これ出すだけなんで」

「じゃあ、机の上に置いとけばいいよ」

 デスクと優香のやりとりを修平が見ていると、横から「帰んないんですか?」と遅番バイトが聞いてくる。

「いや、帰るよ。じゃあ。お先に失礼します」

 デスクにも、優香にも聞こえるように言って、席を離れる。優香も「お疲れ様です」と言って、帰ろうとする。


 エレベーターホールへ向かいながら、修平は「今日はもうこれで終わり?」と優香に聞いてみた。

「ええ、もう帰ります。高木さんも今日は10時までなんですか?」

「うん」

 エレベーターの「▽」ボタンを押してから、随分たっているような気がするのになかなかドアが開かない。6台もあれば、そのうちのどれかがすぐ来そうなものなのだが、開く気配がない。修平が口を開く。

「ねえ、ご飯食べた?」

「いえ、まだですけど」

「一緒に食べない?」

「あ、はい」

 短い言葉の中にも、お互いこの前の出来事が脳裏にあったので、慎重さが感じられた。


 料理を注文し、最近の仕事のことを話した後、優香が聞いてきた。

「この前のこと、覚えていますよね?」

「この前? ドームの近くで飲んだ時?」

「ええ」

「覚えてるよ。うん、覚えてるけど…」

 優香は意識してそうしているような笑顔で話を続けた。

「なんか、私酔ってたとはいえ、余計なことしゃべっちゃったな、って。なんかごめんなさいね」

 笑顔から、ちょっと眉間にしわを寄せ、困ったような表情になっていた。

 修平はその優香の表情のわずかな変化を感じながら応じた。

「いや、別に謝ることじゃないでしょ。いいよ。まあ、そういうこと話してくれるのはちょっと嬉しかったり。それと、僕、口は堅いんで。そんなペラペラしゃべったりする方じゃないから」

「うん」

 優香は首を縦に振って笑った。今度は自然に出た笑顔だった。


「あのさ、今度甲子園に行こうかと思って」

 修平は今朝決めたことを優香に話した。

「広瀬がさ、7月30日に甲子園で先発するんだって。ひょっとして、ひょっとしてだけど最後になるかもしれないんだってさ」

「最後?」

「駄目だったら引退するんだってさ。だから見に行ってこようかと思って。デーゲームだから日帰りできるし」

 鞄の中からスポーツ新聞を取り出し、優香に見せた。しばらくそれを見詰めていた優香が顔を上げた。

「ショックなんだ?」

「そんなことないけど。でも好きだったからね、ずっと」

「高木さんの顔、寂しそうですよ、なんか」

 冗談めかして言う優香に、「そう?」と照れ笑いをしながら、心の中を見透かされているような気がした。広瀬の件だけではなく、優香への思いから何から全てを。

「誰と行くんですか?」

 新聞を几帳面に4つに折って返しながら聞いてきた優香に、「一人で行くつもりだけど」と修平は答えた。

「ふうん」

 それだけ言った優香は何か考えているようだった。湯飲みの中に残ったお茶は、冷房が効いているせいですっかり冷たくなっていた。


 駅の改札口を通り、それぞれ逆方向のホームに降りるため別れようとした時、

「ねえ、私も行っていい?」

 優香が修平の背中に言った。

 修平は振り返って、優香の瞳を見た。

「甲子園。よかったら一緒に行ってもいいですか?」

「え、いいけど。いいけどいいの?」

「なんで高木さんが聞くんですか」

 笑いながら優香が修平の二の腕の辺りを人差し指と中指でつついた。

「じゃあ、行こうよ。甲子園。一緒に行こう」

「30日ですよね」

「うん、30日」


 7月30日、甲子園球場。運命の時、運命の場所。修平と優香は一緒に向かうことにした。

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