七夕
修平がいつものように出社して社会部のテレビをつけると、満面の笑みでヒーローインタビューに答えている広瀬の顔が現れた。
そろそろ優香から出勤したとの連絡が入るはずだ。昨日の今日、今日の昨日。どういった対応を取ればいいのか。昨日はどうも。やっぱり事故のことには触れない方がいいよな。気にしてるだろうしな。また飲みに行こうよ。今度は遊園地でも…何、デートに誘ってんだ。
結局、彼女のことを考えているんじゃなくて、僕が彼女に好かれることを考えている。彼女のためじゃなくて自分のため。ふう、一つ大きなため息をついた時、デスクの電話が鳴った。
軽く咳をして、受話器を上げた。
「はい、社会部です」
「いえ、違いますが。はい」
朝っぱらから間違い電話かよ。その後、何本か取った電話に、優香からのものはなかった。
今日も早番は高木さんかな。昨日のこと、覚えてるよなあ。優香はいつもの朝よりも緊張しながら携帯電話を開き、リダイヤルの履歴の中から、「社会部」の表示を選択して、発信を押した。他の人が出てくれたら、いいけどな。そうしたら何の問題もない。でも、彼の声が聞きたい気もする。どうしてだろう。
―はい、社会部です。
「あ、江添です。あ、おはようございます。今、出ました」
―ああ、はい、了解です。
「お願いします」
―あ、もしもし
「はい?」
トゥルルル…。別の電話が鳴る。間が悪いことに、他に誰もいない。恨めしそうに、鳴り続ける電話に視線を送りながら、修平は「いえ、了解です」と、優香との会話を諦めた。
「はい…」
優香も何か引っ掛かりながら、電話を切った。
ああ、もう。割り込んできた電話の受話器を置いた修平は、椅子に体を預けて、天井を見上げた。何で、何も言わないんだよ。つくづく自分が嫌になった。
高木さん、昨日のこと、何も言わなかったな。あんなことしゃべっちゃったの、私だし、私から一言言わなきゃいけなかったかな。優香は、昨日のことに何も触れなかった修平の気持ちが気になっていた。気を遣ってくれたのかな、それとも、私の話なんてすっかり忘れてるのかな。
「江添、ちょっといい?」
先輩に呼ばれた。優香は気持ちを切り替えて、今日の仕事に向かった。
その日からは、何の変哲もない、また元の日々に戻った。修平と優香の接点は、仕事上の電話だけになった。それは1日数回だったり、数日間、声を聞くことがなかったりだったが、修平は電話に出る度に、受話器から聞こえる声が優香であることを願った。優香は、修平が電話に出ることを期待しているような気がしていた。
*
朝刊の「あすからの天気」に目をやると、雲と傘が順番に並んでいて、そこに太陽の入る余地はなさそうだった。優香は新聞から顔を上げて、目の前に日めくりの「7」を見てから、今度は「きょうの天気」を左からたどった。雲、太陽、雲、雲、傘、傘。
「駄目っぽいな」
窓からかすかに差し込んでくる光を浴びながら、呟いた。
「ん? 何が駄目なんだ?」
横に座っていたキャップが聞く。
「今日、七夕ですよね。天の川、見えそうにないなと思って」
「七夕か。うちの娘が幼稚園で短冊に願いごと書いたって言ってたな。何を書いたか教えてくれないんだけどな。江添も書いたりするの?」
「書かないですよ。私、もう23ですよ」
「いや、俺から見たら娘と変わらない…なんてことはないか。でも、願いごとぐらいあるんだろ。ちょっとタバコ吸ってくるな」
願いごと、か。忘れて、吹っ切って、幸せになりたい。
朝刊をめくっていると、「高校野球地方大会 6日」という小さな記録だけの記事が目に入った。
今年も暑い夏はすぐそこまで来ていた。
修平がアパートのドアを開けると、灰色の空が広がっていた。駅までの15分の間に雨が降ってくるということはなさそうだったので、傘を持っていくのはやめようかとも思ったが、「夜には雨が降ってきます。折畳みの傘を持ってお出かけください」というお天気お姉さんの笑顔を思い出して、折畳み傘を取りに部屋に戻った。電車の時間が迫っている。やっべえ。傘を手にするとすぐに鍵を掛け、階段を降りていった。
走った上に、途中ことごとく青信号が続いたため、ホームには電車の時間の2分前には着きそうだった。ほっとして歩き出すと、駅構内に大きな笹が飾られているのが目に入った。五色の短冊がぶら下がっている。「家族みんなが健康で過ごせますように」という文字が見える。今日は七夕か。天の川、見えそうにないな。願いごと、か。彼女ができますように。できれば江添優香さんで。
ばっかみたい。自分の想像に突っ込みながら階段を下りようとすると、到着した電車から降りてきた乗客がいっせいに上がってくる。修平は慌てて階段の左端を駆け降りた。




