過去
居酒屋を出た時、時計の針は午後10時30分を指していた。まだ終電には1時間半ほどある。
「ちょっとコーヒーでも飲んで休んでいく? この時間でもやってるとこあるかな」
「あっ、あれでいいよ」
優香が指差した先には、自動販売機があった。
「缶ジュースでいいの? まっ、いいか」
修平は販売機に120円を入れた。
「はい、押していいよ」
「おごってくれるのー? ありがとー」
近くの小さな公園のベンチに腰掛けた。ホットレモンティーを一口飲み、その缶を両手で、大事な宝物のように胸の前で持っている優香の横顔を見ながら、修平はコーンポタージュのコーンが缶の底に残らないように、しきりに手で振っていた。ブラックコーヒーのボタンを押そうとしたまさにその時、横から出てきた細い人差し指にコーンポタージュを押されたのだった。
「実は俺、コーンポタージュ大好き。コーヒーの方がカッコいいかなと思って、ブラックコーヒーを飲もうとしたけど」
最初は信じていなかった優香も、修平が満足気にコーンと黄色いスープを口に運ぶのを見て、悔しがっていた。
「ねえ…」
優香の手の中の缶から、その温かさを感じなくなり、修平が缶の底に残ったコーンを覗き込みながら、食べるのをあきらめようとした時、唐突に優香が口を開いた。
「教えてあげよっか」
「ん?」
「なんで記者になりたかったか」
「ああ」
「1988年8月20日」
「えっ?」
「私は5歳でした。高木さんは10歳?」
「うん。誕生日来てないから正確には9歳かな」
「で、広瀬選手は17歳。高校3年生」
「なんで広瀬?」
「覚えてます? 甲子園の決勝。凄かったんですよ。彼。ホームラン打って、投げて」
「4対0だったんだっけ? 満塁ホームランに完封。独り舞台だったな。それを見たのがきっかけなの?」
「あの日、私は父と甲子園に行ってました。私の父、野球が好きだったんです。特に広瀬選手のファンで。それで、朝、新幹線に乗って甲子園に行ったんです。私を連れてね。私は5歳だから、野球なんて興味なかったんですけど、ちょっとした旅行が楽しかった。新幹線から見えた富士山とか。それで、甲子園に着いてもそんなに野球を見るわけでもなくて。カチワリって言うんですよね? 氷。あれを喜んで食べてたんじゃなかったかな」
「へー、そうなんだ」
優香の話の結末は全く想像できなかった。
「その時に、野球の取材、スポーツ記者にあこがれた訳じゃないよね」
否定されるのを予想しながら、修平は聞く。
「うん、それは違います。その日、もう一つ大きいニュースがあったんですけど、覚えてないですよね」
修平は、その日何があったか、思い出そうと試みようとした。が、そんなことはするまでもなく、すぐに脳裏に浮かんだ。あの、悲惨な光景が。翌朝、家に届いた朝刊の大きな見出しが。それは9歳の修平にも十分理解でき、驚き、震え上がるような文字だった。
『列車脱線49人死亡 大阪……線 甲子園帰りの乗客多数』
「列車…事故…だよね…」
優香は、ちょうど甲子園に行っていたから覚えているのだろうか? まさか知り合いが乗っていた? 修平の体に緊張が走った。プワーン。車のクラクションが聞こえた。大学生らしき集団の叫び声が聞こえる。サークルの飲み会だろうか。目の前を千鳥足で歩く酔っ払ったサラリーマンと目が合う。サラリーマンはすぐに立ち去る。ちょっと離れたベンチではスーツ姿のカップルが人目をはばからず、自分たちの世界に入っている。
気付くと、優香が目の前に立っていた。
「ん? 何?」
平静を装って発した修平の言葉が置き去りにされたまま、優香は自分のスカートをたくし上げていった。
「ちょっと何してんの。江添さん?」
マスクマンのレスラーが、突然、自分のマスクを脱ぎだした時の解説者のように、修平は慌てた。
あと数センチで下着が見えてしまうところでスカートの動きは止まった。修平の目は露になった優香の太ももで一瞬止まり、それから必死に上へ向かった。彼女の顔はとても冷静なようにも見えたし、悲しそうにも見えた。酔っ払った状態にも見えたし、すっかり酔いを覚ましたようにも見えた。
「あの時の。事故の時の。その時の怪我」
優香の右の太ももには20センチ以上はありそうな傷が走っていた。
「ジコノケガ?」
「うん、事故の時の怪我」
再びベンチに座りながら優香が言う。
「その列車事故…その88年の列車事故。その列車に乗ってたの? 江添さん」
修平はかなり動揺していた。話が重すぎる。ていうか、この状況で話す話なの? この場所で。ていうか僕が聞いていい話なのか? 何で僕に話してるんだよ?
「江添さん、酔ってる? もう帰る?」
「大丈夫ですよ」
「…そう」
「あの日、甲子園を出て新大阪に向かってたんですよ。で、その列車…事故を起こした列車に乗ったんです」
「うん」
「もうあんまり覚えてないんですけどね。凄い衝撃があって、気付いたら病院で」
「そっか」
「その時に父は亡くなりました」
「そっか」
「さっきから『うん』とか『そっか』ばっかり」
「そっか…いや。ゴメン、何か気の利いたこと言えって感じだよね」
修平は、自分の気の利かなさに、自分で嫌気が差していた。
「ううん、かわいそう、とか辛かったね、とか聞き飽きてるから。そうやって黙って聞いてくれるのが安心する」
修平の左に座っている優香が右に向き直して、修平の顔を上目使いで覗き込むように見る。
優香の瞳に見とれてしまうのを避けるように、やや目線を外しながら聞く。
「いや、それが記者になりたかった理由?」
「きっかけかな。それが元々のきっかけで。それからまたいろいろあるんですけどね。あっ、そろそろ帰りましょうよ」




