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偶然

「今日はもう帰っていいよ」

 キャップからそう言われたのはまだ午後9時前だった。電車の時間があるうちに帰れることの方が少ない優香にとっては珍しく早い帰宅だった。無我夢中でやってきた4月は早朝から深夜、時には未明まで働いていても、疲れは感じなかった、というよりも疲れを感じる余裕もなかった。しかし、ゴールデンウイークが明け、仕事にも少しずつ慣れてきたこのごろは肉体的にも精神的にも疲れを感じるようになってきた。明らかに睡眠不足。学生時代と比べて睡眠時間は格段に減っていた。

肌も荒れちゃうよ。希望通りの仕事に就けたんだけどな。

 優香が乗った地下鉄の車内は思いのほか、空いていた。たまたまなのか、いつもなのか、普段この時間帯に乗らない優香には分からないが、とにかく座ることができたのは良かった。

 せっかく座れたんだから、寝ちゃおう。そう思って、目を閉じた。地下鉄が刻む一定のリズムに紛れて、車内の話し声が耳に入ってくる。


 ―ジャイアンツ、どうなってんだよ?

 ―あぁ、勝ってますよ。

 ―よーし、良かったな。嬉しいだろ。

 ―いや、俺、別にファンじゃないですから。ていうか、野球興味ないですし。

 ―何言ってんだよ。野球、嫌いな奴なんているのか?

 ―俺、サッカーの方が好きですから。


 大歓声が聞こえる。暑い。陽射しが眩しい。皆、中心を見つめている。中心が何なのかは分からない。けれど、そこに目が釘付けになる。全ての視線がそこに注がれる。それはものすごい輝きを放っている。手を伸ばすが届かない。


 突然、暗闇になる。寒い。何も見えない。何もない。ここは何処? 


 ―じゃあ、今度球場に連れてってやる。野球の素晴らしさを一から教えてやるよ。

 ―まあ、一度くらい行ってみても良いですけどね。


 車内は何も変わっていなかった。目の前の酔っ払いはまだ野球の話をしている。優香の右手は右の太ももを押さえていた。

 まただ。よく見る夢。とはいえ、前回見たのがいつだったか覚えていない。ただ、何度も見た気がする。何か息苦しさを感じて立ち上がり、程なくして停まった駅でホームに降りた。

 ちょっと休憩。優香は改札口を出て、地上に出てみることにした。夢…いや、ただの夢とは思えない。何だろう。やっぱりあの時の…。


 地上に出てみると、多くの人で混雑していた。午後9時半をすぎたところだった。

 そっか…。

 すぐ目の前の東京ドームで行われていた野球の試合が終わったらしい。そもそも優香は今日東京ドームで試合があることすら知らなかったのだが。

 帰ろうっと。

 再び、改札口へ降りる階段に向かおうとした時、一瞬、知っている顔が見えた気がした。

 あれっ?


 人込みの中、オレンジ色のメガホンを振り回す子供を避けながら追い抜き、背後からその息子をたしなめる父親の声が聞こえた時、修平の目は一点を見つめていた。

 あっ、江添さん? なんでこんな所に。

 修平は彼女に自分の存在を認識させようと、赤いユニフォームを掻き分け、足下の子供を蹴ってしまわないように注意し、オレンジのメガホンを避け切れず肩にパシーンという衝撃を受けながら、進んだ。

 修平が見つめる、彼女の表情が変わる。その距離は5メートルほどになっていた。その間には、カップルに赤ら顔のサラリーマン、はしゃぐ子供、肩を落としている赤い帽子、突然人の波にさらわれ困惑している中年女性二人組がいたのだが。


「高木さん」

「江添さん」

 二人の声が重なった。

「どうしたんですか? こんな所で。偶然ですね」

 優香が声を発するのが、一瞬早かった。

「いや、野球見てたんだけど。江添さんは…今、帰り?」

「はい」

 その場に立ち尽くしている二人を迷惑そうに通り過ぎていく。それに気付いて、とりあえず人の流れに乗った。

「ここで…誰かと待ち合わせとか?」

「いえ、もう帰るところなんですけど。途中でちょっと寄り道? みたいな」

「よかったらご飯でも一緒に食べていかない? 時間あるなら、だけど」

「あっ、はい。わたしお腹空いてるんですよお」


 修平と優香は案内された、一番奥のテーブル席に座った。

「ビールで」

「あ、私も」

「じゃあ、ビール。生中を2つ」

「はあい、かしこまりました。野球の帰りですか」

 30歳はとうに過ぎているであろう、いかにもお調子者といった感じの男性店員が聞いてくる。

「ああ、ええ」

 気のない返事の修平に、店員はそれ以上深入りせず、くるりと向きを変えた。

「野球、どっちが勝ったんですか?」

 優香の発したその声に、店員が一瞬不思議そうに振り返ったが、すぐに厨房の方へ消えていった。

「ジャイアンツ、勝ちましたよ。広瀬が久しぶりの勝利。去年は勝っていないからな。何日ぶりになるんだろう。うん、8対3でね。良い試合だったな。完勝ってやつ」

「そうなんだ、良かったですね」

「ああ、野球とかって分かる?」

「うん、それなりには分かりますよ。12球団全部言えますよ、うん。インフィールドフライってどういうの、なんて聞かれると分かんないですけどね」

 悪戯っぽく微笑む優香に、ドキッとしながら修平は

「インフィールドフライなんて言葉が出てくるなんて思わなかったよ。出てくるだけすごいって」

「はい、お待ち」

 さっきのお調子者が生ビールと付け出しのひじきと大豆の煮物を持ってきた。


 いつまで野球の話をしてるんだ。自分で自分に突っ込みながら、修平は自分の頭をフル回転させようとしていた。仕事の話。学生時代の話。子供の頃の話。今日の夕刊の一面は…思い出せない。彼女のことが知りたい。いきなり聞くのは失礼か。どこまで聞いていいのか。カレシはいますか。明日は早いの? 好きな音楽。話題のドラマ。本日オススメの一品。久保田。芋焼酎。エビスビール。枝豆。貸切予約のご案内。右に左に店内をキョロキョロしながら話題を探す。

 女性と話すのに緊張する歳でもない。ただ、彼女にだけは最初から意識して緊張してしまった。意識しないように、普通に振舞おうとすればするほど、無意識に、緊張してしまい、意識してしまう。

 彼女も何を見るでもなく、店内の壁に、細長く丸めて置かれたおしぼりに、斜め向かいの中年サラリーマンらしき3人組に視線を泳がせている。

 チャンスだ。約1カ月顔を合わせることがなかった彼女が目の前にいる。一緒に飲んでいる。偶然とはいえ。ランナーを出すこともできず、0対0の膠着状態が続いていた中で、ラッキーが重なり、スコアリングポジションにランナーを置いたんだ。

 行き場をなくした修平の視線が元の位置に戻ったと同時に、優香の視線も帰ってきた。大きくて丸いその瞳に釘付けになった。


 修平は聞いてみた。

「江添さんってどこの大学を出たんですか」

「東大です」

「お弁当温めますか―いいです」

 そんなコンビニのレジでのやりとりのように、優香が間髪を入れず答えた。

「東大って、トウキョウダイガク?」

「そうですよ。東京大学です。海の灯台じゃないですよ」

 わざわざ「トウキョウダイガク」と聞き返してしまった修平と、それに対して「灯台じゃない」なんてベタな返しをしてしまった優香は、思わず照れ笑いというか、苦笑いというか、何とも言えない笑みを浮かべた。

「東大。東大ってすごいよね。頭良いんだ」

「親が国立じゃなきゃ駄目だって。私立は駄目だって。わたし、家、東京だし」

「で、東大か。かなわないな。何学部なんですか」

「法学部です」

「弁護士とか目指してたり?」

「ううん、ずっと新聞記者になりたかったんですよ」

「そうなんですか」

「はい、ああ、社会部が第一希望」

 二人の今の関係を表すかのように、敬語とタメ口が混在した会話が続いた。


「なんで新聞記者になりたかったんですか? 何かきっかけがあった?」

 一瞬の間が空いた。

「さっきからわたしのことばっかり話してません? なんか自分のことばっかり話してすみません」

 かすかに頬を赤らめてきた優香が言ったその台詞には、その質問には答えられないという意思表示があったような気がした。

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