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未来へ。

 今日一日、修平と優香を散々照らし続けていた太陽が少しずつ沈んでいき、六甲山に近づいていた。球場から次から次へと観客が吐き出されていく。駅へと向かう人の波に、二人はのみこまれていた。前を歩く人が少しでもスピードを落とすと、後ろからの圧力を背中に感じる。小柄な優香は、数メートルほど離れただけで、修平の視界から消えてしまいそうだった。たとえはぐれたとしても、携帯電話で連絡を取り合えば済むことだが、修平は今、絶対に優香を離してはいけないという思いに駆られた。その理由は、自分でよく分かっているような気もしたし、全く分かっていないような気もした。

 修平は、優香の左手をつかもうと右手を伸ばした。右の人差し指が左の手の平に触れた時、二人の間に子供が割り込んできたため、再び引き離された。少しずつ周囲の空間が広くなっていき、修平が優香を見失う可能性はなくなり、目的の駅に到着してしまった。

 これから二人は新大阪へ向かう。あの日、あの時、優香が父に連れられて、向かったように。

 プラットホームはタイガースのユニホームを着た若者や、オレンジのメガホンを振り回して母親にたしなめられている子供ら、甲子園からの帰路を急ぐ人達でいっぱいだった。二人の前に並んでいた小さな女の子が、手に持った棒付きの飴を舐めながら優香に微笑んだ。優香は彼女に微笑み返してから、その子を見詰めたまま、呟いた。

「私もあの子みたいだったのかな」

「えっ? うん」

 夢中になって飴を舐めている女の子を見ているのか、それとも事故のことを思い出しているのか、優香の視線は低く下がっていた。

「もう18年になるんだよね。18年。もう忘れてもいいよね。忘れた方がいいよね。忘れないといけないよね」

「そう簡単には忘れられない」

「うん。あの日の私はこの子みたいに父と手を繋いで、楽しそうにここで電車を待っていたんだと思うの。父と過ごす時間が後数分だなんて夢にも思わないで…」


 車内に乗り込んだ二人は、反対側のドアまで押し込められた。車内いっぱいに野球ファンを詰め込んだ電車は、普段と変わらぬ様子で動きだす。窓の外を直視していた優香は、修平の方に顔を向けた。それに気付いた修平が優香の目を見る。

「もうすぐなの。事故現場」

「うん」

 それだけ会話を交わすと、優香も修平も再び外の景色に向き直った。いよいよ事故現場を通過しようとしたその時、優香は静かに目を閉じた。修平は右手でそっと優香の左手を握った。

 カン、カン、カン…。

 踏切の音が近づいていき、その音はすぐに遠く離れていった。何事もなく、電車は18年前の事故現場を通り過ぎた。そっと開いた優香の目から涙がこぼれ落ちた。その涙を修平は手を繋いでいない、もう一方の手を伸ばして、人差し指で拭った。

「これでおあいこだね」。

 優香が笑顔を見せた。

「おあいこ?」

「さっきは私が涙を拭ってあげた」

「あれは汗だよ」

「汗なの?」

「汗だね」

「汗かなあ」

 顔を見合わせて、笑った。

「私はもう大丈夫だよ」

 さっきの女の子が二人を不思議そうに見上げていた。


          *


 修平の左に座っている優香は、リクライニングを倒したシートで眠ってしまったようだった。修平は、外の暗闇に映る彼女の横顔を見詰めていた。時々、外の灯りで見えなくなってしまう彼女の顔は、とても穏やかだった。窓の外の彼女から隣に座っている彼女に視線を移した。

 修平も優香も少しずつ甲子園から遠ざかり、東京へと近づいていた。

 修平が、優香と初めて出会った日のことを思い出していると、優香がゆっくりと目を開けた。

「寝ちゃった」

「別にいいけど。疲れた?」

「ううん」

「寝てていいよ。東京に着くころになったら起こしてあげるから」

「うん。そうする」

 優香は再び眠りにつこうとした。

「ありがとうね」

 目をつぶったまま優香が言う。

「うん」

 その顔を見ながら、修平は応えた。今の「ありがとう」は起こすことじゃないよな。今日一日全部のことだよな。


 今日で彼女は過去を吹っ切ることができたのだろうか。明日から笑って生きていくことができるのだろうか。もし、そうだとしたら、今日の僕は少しでも明日からの彼女のためになったのだろうか。10年後の彼女、20年後の彼女、50年後の彼女は今日の僕を覚えているのだろうか。忘れられてしまうかな。でも、10年後の彼女、20年後の彼女、50年後の彼女が笑って過ごせるのなら、そのために今日の僕が少しでも役に立てたのなら、それはそれで嬉しいことだと思う。だけれど、10年後も20年後も50年後も、今みたいに彼女の隣にいたいとも思う。そのためには、僕はもっともっと頑張らないといけないと思う。成長しなければいけないと思う。


 僕は江添優香さんが好きだよ。


 僕は君のことが大好きだよ。


          *


 左肩を叩かれているのを感じて、目を開けた。視界には彼女の顔が飛び込んできた。

「もうすぐ着きますよ」

「え?」

 暗闇だったはずの窓の外は随分と明るくなっていた。静寂に包まれていた車内は、降りる準備を始めた乗客でざわついていた。

「起こしてくれるんじゃなかったの」

 優香がとびっきりの笑顔で言った。

 僕にはまだまだ努力が必要だった。(了)

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