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ラストピッチング

 初球。ストレート。ストライク。136km/hの平凡なスピード。

 2球目。初球よりもさらに遅い100km/hそこそこのカーブが決まる。アンパイアの右手はまたも上がった。ツーナッシング。あっという間に追い込まれたタイガースのトップバッター、佐野はバッターボックスをいったん外して一呼吸置く。そして、3球目。ストレート。外角低めいっぱいに決まる。三球三振。

 周りの観客から拍手が沸き起こった。それに合わせて優香も手を叩いた。笑顔で、修平の方に顔を向ける。修平の笑顔を予感して。が、修平は顔色一つ変えずに腕を組んだまま、一つ吐息をついただけだった。ん? 優香が修平の顔を覗き込む。それに気付いた修平は、なんとか口の周りの筋肉を動かして、笑みを返した。組んでいた腕を解いて手を叩く。既に鳴り止んでいた周囲の拍手から遅れて。

 後続の打者もあっさりと打ち取った広瀬はゆっくりとベンチへ向かって歩いた。張り詰めていたスタンドの緊張感が和らぐ。

「なかなか良い出足だよ」

「ランナー出ないね、どっちも。やっぱり点入った方が面白いんじゃないの」

「今日は両投手とも調子良さそうだから、あんまり点入らないかもよ」

「そっかあ」


 修平の予想は、もろくも崩れた。2回、3回と得点したジャイアンツが7対0と大きくリード。ジャイアンツのリードは嬉しいのだが、自信を持って言った「点が入らない」という言葉を取り消したかった。

 6回を終了しても、点差はそのままだった。

「勝てそうだね。これで広瀬の引退も先延ばしかなあ」

 優香は楽しそうに、一段と弾んだ声とともに修平を見て、またグラウンドに視線を移す。修平も予想外の広瀬の好投に驚きつつも、胸の鼓動を抑え切れないでいた。甲子園はざわめき、異様な雰囲気になってきている。

 それは―。タイガースの安打数ゼロ、四死球やエラーでの出塁もない。完全試合まであと3イニング。広瀬の完全試合を期待するジャイアンツ・ファンとなんとか阻止してほしいと願うタイガース・ファン。真夏の太陽の光を一杯に浴びた甲子園球場は、あの日を思い起こさせた。そう、あの日を。

 7回表、ジャイアンツの攻撃が始まると、ライト側、一塁側を中心にスタンドがカラフルに染まり始めていた。

「わあ、綺麗だね。これっていっせいに飛ばすんだよね。ちょっと怖いかも」

「なんかさ、あれみたいだよね。甘いお菓子。なんて言うんだっけ」

 初めて見るジェット風船の光景を素直に喜んでいる優香に、修平も試合の緊迫感をほんの少しだけ横に置いて、応じる。

 小学4年生の夏休みだっただろうか。汗ばむ陽気の昼下がり、偶然会った好きな女の子と公園の片隅に座って食べたのがゼリービーンズだった。何色がいい? うーん、赤。赤は駄目。黄色ね。あの頃の僕は何を考え、何をしていたのだろうか。子供なりに悩みごとも嫌なこともあったかもしれないけれど、女の子がくれたゼリービーンズは甘くて美味しくて、カブトムシを見つけた時は興奮して、ケイドロで牢屋に入った仲間を何人も助け出した時は有頂天になっていた気がする。その時、遠く離れた場所でまだ見ぬ彼女は、とてつもなく大きなものを背負わされたのだ。まだそれは背中にのしかかっているのだろうか。

「それってゼリービーンズでしょ」

 優香が笑って、答えた。

 うっかり手を離してしまったのだろう。一つのジェット風船が日が傾き始めた空に舞い上がっていく中、タイガースの選手がベンチに引き揚げていった。反対側のベンチからは広瀬がゆっくりとマウンドに向かっていった。

 六甲おろしの大合唱が終わると同時に、無数のジェット風船が青から赤へと変色し始めていた空にさまざまな色を付けていく。その絶景は、沸きあがるスタンドをよそに、修平と優香には物寂しさを感じさせた。


 タイガース、ラッキーセブンの攻撃。広瀬がこの回最初に投げたボールは見事に打ち返された。風船から再び黄色いメガホンに持ち替えた観客は歓声を上げ、オレンジ色のタオルを持っていた者は顔をしかめた。修平は天を仰ぎ、優香はその横顔を見詰めた。広瀬は打球の行方を追わずにそのままマウンドの土を眺めていた。しかし次の瞬間、顔をしかめたのは黄色い集団で、オレンジ色の一角から歓声が上がった。センター前に落ちると思われた打球は緑の芝生に触れる前にセンター木本のグラブに吸い込まれていた。右手で左肘をさすり、苦痛の表情を浮かべながらもグラブを掲げる木本の姿を確認して、二塁塁審がアウトを宣告した。まだ、可能性は続いていた。

 続く打者の当たりは、うって変わってボテボテで、完全に勢いを失くして転がっていった。間に合うか。全ての目が一塁塁審に注がれる。一瞬の間があった後、拳を握った塁審の右手が上がった。

 が、限界だった。

 次に広瀬が投げた渾身のストレートはいとも簡単に打ち返され、そのボールはまさに弾丸のように飛んでいき、緑の芝生を刈るように鋭く落ちた。修平は今度は俯き、優香はやはりその横顔を見詰めた。

 この時点で終わったのかもしれない。広瀬の投げるボールはことごとく弾き返された。完封がなくなった。もう止まらなかった。我慢に我慢を重ねて見守っていたジャイアンツの監督がベンチから出てきた時には、ジャイアンツは追いかける立場に追いやられていた。7対8、タイガースのリード。帽子のつばを下げ、足早に広瀬はベンチに向かった。最後のマウンドから降りた瞬間だった。修平の額から流れる汗に目尻から流れたものが合流した。優香の人差し指がそれをそっと拭った時、秋を感じさせるような風が甲子園を流れた。

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