月へ還る人
弱々しく伸ばされた白い手をそっと握る。
月明かりに照らされてそれは、白というよりも蒼白く輝いて見えた。
彼女の体から少しずつ命が溶け出していくとともに、色彩も抜け落ちていくようだ。
月明かりのせいばかりではない。昨日見たその手よりも明らかに色を失ってきている。
表面では冷静さを保ちつつ、僕は心の中で深い溜め息を長く長くついていた。
開け放した窓からは、月明かりとともに潮騒の音も入ってくる。バカンスに来た恋人たちなら心躍るそのさざめきも、今のぼくには覚悟を迫る悪魔の咆哮に聞こえてくる。不愉快なリズムは止むことなく繰り返し繰り返し僕の耳に響いてきて、今にも叫び出したい衝動にかられる。
潮騒のリズムにちょうど合わせるように、彼女が吐く荒い息も繰り返される。
最後の命を燃やす音。
絶望の未来へと確実に僕を追いやっていくこのふたつのリズムから逃れる手はないものだろうか。
彼女の手を握ったままベッドの縁に顔を伏せ、僕は自分の身を守ることを考えていた。情けないことにそうする以外に考えられなかった。
ふと繰り返すリズムがひとつになっていることに気付いた。彼女の呼吸が刻んでいた早いリズムが止み、潮騒の緩やかなリズムだけが繰り返されている。
背筋に冷たいものが走り、僕は慌てて顔を上げた。
彼女は小さく穏やかに息をしながら窓の外の満月を眺めていた。
僕の背中に走った寒気がじわじわと温まっていった。
「ねえ、私の話を信じてくれる?」
唐突に、彼女がしっかりとした口調で訊いてきた。今のいままで苦しい息をやっと繋いでいたとは思えないほど穏やかな口調だった。
「……もちろん、信じるよ」
すると彼女はにっこりと微笑んで、僕の手から蒼白いその手を引き抜いた。そして細い人差し指をたてて優しい光を放っている月のほうへと向けた。
「わたしはね、もうすぐあそこに還るのよ」
「月?」
「そう、故郷に帰るの。ここでの私の役目を終えたから……」
僕は彼女の言葉の信憑性を疑おうとも、その理由も問おうともまるで思わず、ただただ彼女が語る世界に意識を向けた。彼女はゆっくりと、しかししっかりとした口調で長い長い話を語り始めた。
「むかし月はこの地球よりもずっと大きくて碧い星だった……」
むかし月はこの地球よりもずっと大きくて碧い星だった。
逆にその頃の地球は、いまの月よりも小さくて、
水も空気もない星だった。
月に住む人々は美しい自然に囲まれて素朴に生きていた。
しかし人々はその素朴な生活に飽き、
楽しく刺激的な生活を求めるようになった。
そして地道な生活に厭気が差して、
より楽な生活ができるよう、知恵を使うようになった。
人々の欲望は留まるところを知らずに、
より楽しく快適な生活を求めて
月の自然を自分たちだけの楽園へと変えていこうとした。
当然生命の連鎖は断ち切られ、
人の糧となる動物も植物も死に絶えていった。
やがて自分たちさえも死に絶えるかもしれないという危機に陥った。
生き残った人々は、必死に知恵を絞った。
危機の迫った人々は
死に物狂いで生き残り続ける方法を考え出した。
そして開発したのは、水も空気もない地球に、
月のエネルギーを送り込む方法だった。
月に残ったエネルギーを注ぎ込んでいくと、
がらんどうだった地球の中にマグマが生まれ
地球はどんどん膨らんでいった。
やがて月と地球の大きさは逆転し、その景観も逆転した。
地球がかつての月と同じように育ったのを見届けて、
人々は今度はその魂を地球に送り込んだ。
月と地球が引き合う律動に合わせて、
月の人々は新しい命となって地球に蘇った。
かつての月に似た美しい自然の中で、
蘇った人々は幸せな日々を過ごした。
そして今度こそ、月と同じ運命を辿らせないために、
それでいて、かつての月よりも豊かな生活を送れるように
地球で過ごす間に様々な役割を担うようになった。
しかしある期間が過ぎると
人の魂は月に戻らなくてはならない。
そしてまた期間が過ぎれば違う生として
地球に蘇ることを繰り返してきた。
「……だからね、私はあなたより少し早く、その役目を終えて、月に還っていくの……」
彼女はそう言って微笑んだ。月光に照らされたその顔はこのうえなく美しかった。
まるで暗示にかかったかのように、僕はその話をまるごと信じていた。いつか自分も役目を終えて還っていくのだと思うと、夜空で白い光を放つ大地が非常に懐かしく恋しく思われた。
しばらく経って、あれほど気丈に長い長い物語を語ってくれた人は再び荒い呼吸を刻み始め、
少しずつ、段々と、そのリズムは弱まっていった。
空が薄らと白み始めた頃、月はその光を徐々に弱めていき、
医者が彼女の命の終焉を告げたときには、空には外殻を残してがらんどうになったかのような小さな球体が浮かんでいるだけだった。
数日後、
僕は彼女の床を整理していて、小さな本を見つけた。
それは東洋の童話の本だった。
月からやってきたお姫様がやがて月へと還っていく話。
この本に刺激された彼女が、今わの際で見た幻だったのか。
それとも残される僕を慰めるために彼女が創ったものだったのか。
どちらにしても、彼女のいないこの空間でも僕が穏やかな気持ちを保っていられるのはあの話のお陰だった。
夜になって白い月明かりを浴びると、
僕の還るべき場所と彼女の微笑みがいつもそこで見守ってくれているように思えるからだ。
(終わり)