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エピソード⑪ 後日談

 父の葬儀は、結局しなかった。


 正確には、“今さらできなかった”に近い。

 遺体は返されず、正式な死亡記録も長いあいだ歪められていた。事故死として処理され、家族には最低限の説明だけが渡された。その説明が嘘だったと分かった今、どのタイミングで、どの形で区切りをつければいいのか、母も遼も決められずにいた。


 だからまず二人は、生きて顔を合わせることから始めた。


 母が保護先から戻ったのは、あの夜から五日後だった。

 少しやつれていたが、怪我は軽かった。遼が迎えに行ったとき、母は最初に謝った。


「ずっと、ちゃんと話せなくてごめんね」


 遼は少し考えてから答えた。


「俺も、ちゃんと聞こうとしてなかったかもしれない」


 それは半分本当で、半分は気休めだった。

 責めたい気持ちがないわけではなかった。父が失踪ではなかったこと、事故ではなかったこと、母が何かを隠していたこと。全部が簡単には飲み込めない。けれど、母もまた“知らされない側”に押し込まれていたのだと分かってしまった以上、一方的に責めるのは違う気がした。


 家に戻ると、台所の床下収納はすでに元通りに閉じられていた。

 だがそこを見るたび、遼は一度足を止めるようになった。

 父が最後に封筒を置いた場所。

 奪われた場所。

 そして母が本当のことを言おうとした場所。


 日常の風景の中に、見えない傷だけが残っている。


 会社は一週間、通常操業を装った。

 けれどそのあとで、一気に崩れた。


 専務の榊原は“体調不良による長期離脱”とだけ告知され、そのまま姿を消した。矢島も事情聴取と社内処分の対象となり、現場から外れた。社内では噂が飛び交ったが、誰も本当のところは知らない。いや、知らされないまま終わらせるつもりなのだろう。


 ただ一つだけ変わったことがある。

 旧A棟は完全封鎖になり、地下B2も立入禁止区域に再指定された。

 表向きの理由は設備見直し。

 だが遼には分かる。

 あそこには、まだ整理しきれていない“夜の残骸”がある。


 遼自身は、会社を辞めなかった。


 篠崎には意外そうな顔をされた。


「辞めると思ってた」


「俺も少し思いました」


「じゃあなんで残るの」


 遼は、そのとき少しだけ考えた。

 そして答えた。


「奪われたままにしたくないからです」


 会社そのものを許したわけではない。

 むしろ逆だった。

 ここで父が働き、戦い、帰れなくなった。その場所を全部“敵のもの”として捨てるのは、遼にはどうしてもできなかった。


 もちろん、前と同じではいられない。

 朝の実績確認をしていても、ログの一行一行に前より敏感になる。

 管理者権限の更新、深夜帯の記録、妙な保管場所。

 数字は相変わらず正直だったが、その奥に人間の意図が紛れ込むことを、遼はもう知ってしまっていた。


 篠崎とは、時々会うようになった。


 彼女は会社には戻らず、別の立場で外から動いているらしい。詳しいことは話さないし、遼も無理に聞かない。ただ、月に一度くらい、駅前の喫茶店かファミレスで顔を合わせる。そこで共有されるのは大きな陰謀論でも劇的な情報でもなく、断片的な確認ばかりだった。


 あの夜に流れた記録の一部が、確かに外部監査へ届いたこと。

 いくつかの関連案件が凍結されたこと。

 だが、似た思想の別計画が水面下で生きている可能性が高いこと。


「完全には終わってない」


 篠崎はいつもそう言う。


「でも、完全に無駄でもなかった」


 遼はその言葉を信じることにした。

 信じなければ、父が残したものの意味まで失う気がしたからだ。


 母は以前より少しだけよく喋るようになった。

 父の話も、ぽつぽつとするようになった。


「修司さん、家電を直すのが好きだったのよ」

「遼が小さいとき、壊れたラジカセを何台も持って帰ってきて」

「うるさかったけど、楽しそうだった」


 そんな、事件とは何の関係もない思い出ばかりだ。

 けれど遼には、それがありがたかった。

 父を“事件の中心人物”としてだけ覚えていたら、たぶん苦しすぎた。

 ネジをなくして怒られる人。

 半田ごてを握ると機嫌がいい人。

 帰るつもりだった人。

 そういう断片が、少しずつ父を“人間”に戻していく。


 父の残した家の鍵は、今も遼の机の引き出しに入っている。

 どこの鍵なのか、まだ分かっていない。

 女が渡した耐火ケースの中にあった、あの一本だ。

 形の古い、家の鍵。


 最初はただの記念品かと思った。

 だが先日、篠崎がそれを見て言った。


「これ、普通の住宅鍵じゃない」


 遼は眉をひそめた。


「じゃあ何ですか」


「たぶん保管庫。古い個人ロッカーか、小型倉庫系の鍵」


 その言葉を聞いてから、遼は時々その鍵を手に取るようになった。

 父は最後に、写真と録音機と一緒にこれを残した。

 なら意味がないはずがない。


 夜勤のない日、帰宅して机の前に座ると、遼はその鍵を掌に乗せて眺める。

 まだ終わっていない。

 終わらせていないのかもしれない。


 ある雨の日の帰り道、駅前の大型ビジョンの前で、遼はふと立ち止まった。

 あの夜、一瞬だけ“NOCT 起動待機中”と表示された場所だ。


 今は普通の広告が流れている。化粧品、飲料、転職サイト。

 誰も異変など覚えていない。

 でも遼だけは、あの瞬間をはっきり覚えている。


 隣で信号待ちをしていた学生が、友人に笑いながら言った。


「最近、駅前の画面たまにバグるよな」


 ただそれだけの、どうでもいい会話。

 けれど遼は一瞬だけ画面を見上げた。


 ノイズは走っていない。

 白い文字も出ない。

 何も起きない。


 それでも、完全な安心とは違う感情が胸に残った。

 火は消えた。

 だが灰の下に熱が残るように、見えない何かはまだこの社会のどこかにある。


 帰宅すると、母は居間でテレビを見ていた。

 遼の顔を見るなり、「今日は遅かったね」と言う。

 その何でもない一言が、最近は妙に大事に思える。


「ちょっと残業」


「ごはん温める?」


「お願いします」


 そんなやり取りをしながら、遼は靴を脱ぐ。

 父が“帰れなかった”家に、自分は帰ってきている。

 その事実が、遅れて少しずつ重さを持ち始めていた。


 食後、自室に戻り、机の引き出しを開ける。

 鍵を取り出す。

 薄い金属の冷たさが指に触れる。


 そしてその夜、遼は初めて鍵の根元に小さな刻印があることに気づいた。


K-17


 ただの番号かもしれない。

 でも、この話で“ただの番号”だったものは一つもない。


 遼は鍵を握りしめ、ゆっくり息を吐いた。


 父は帰れなかった。

 NOCTは止まった。

 母は戻った。

 会社は何もなかった顔をして動き続ける。

 日常は戻ったように見えて、もう元には戻らない。


 それでも、進むしかない。


 机の上に鍵を置く。

 窓の外では雨が静かに降っていた。

 その音を聞きながら、遼は小さくつぶやく。


「……まだあるんだな、父さん」


 答える声はない。

 スマートフォンも光らない。

 けれど、もうそれでよかった。


 残されたものを一つずつ拾っていけばいい。

 返されなかったものを、全部は無理でも、少しずつ取り戻していけばいい。


 そう思いながら、遼は机の明かりを消した。

 部屋が暗くなる。

 だが今度の暗闇は、あの夜のものとは少し違っていた。


 終わっていないからこそ、先がある。

 そしてその先へ、自分の足で向かうしかない。


 鍵の小さな刻印だけが、闇の中で鈍く光っていた。

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